第一部 ステラ・バイ・ステラ

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 優雅な指揮棒(タクト)のように旋回し、《黒い森》の最深地――トネリコの巨木に舞い降りる。林床は神秘的なビビットグリーンの苔の絨毯から剥き出しになった根っこのひとつに、ひらりと柔らかく腰かけた。  ここは――《ミーミル泉》の畔。  不気味なほどうつくしく凪ぎ、未来永劫の夜をとじこめたような水面におぼろ月をうつしているこの泉は、ディアナとおなじ強い波動を発している。それはと恐れられ、生半可な動植物たちにとって生息はおろか、立ち入ることすらかなわないエリアだった。  さらに、いつからだろう――泉の番をつとめるディアナも疎まれる対象になっていた。気性の荒い森獣や食人植物だろうと、かのじょに気づくと震え(おのの)く始末だった。雨に雪、枯れ葉さえ、《ミーミル泉》に落ちることはありえないのだ。 「いったい、いつまで……」いつまでこんな暮らしがつづくのだろう。おもわずトネリコの木に身をあずけ――幹を覆う苔はぴかぴかの真鍮(しんちゅう)みたい――ディアナは途方にくれてしまう。  けさ、ウサギに噛まれた腕をそっと擦る。もう痛みはないけれど、けっして治らない傷。 (ああ、なんて不自由でいたたまれない、情けない、みじめで退廃的な日々……)  いま、この瞬間。わたしの一生は終わってもいい。心底そう思う。だってもう、終わってるのと一緒ではなくて? けれど、ああ……そんなことってある? あってもいいのかしら。まだ始まってもいないような人生。蝶ちょが、いっぺんも花に愛されず息を引きとるよりもっと、(むご)たらしいありさま。胸が張り詰めてしかたない。ああ! つくづく切ない、意味のない…… (――)ふと、ディアナはそこでナクアのことばを思い出した。ディアナが今よりもっと幼いころ、くり返し教えてくれたことばを。  そのときだった。(しわ)ひとつない月が、わずかに揺れた。針を落としたような波紋が向こう岸より伝わるのを、ディアナは見逃さなかった。かのじょがこの森でくらし始めて数世紀……あらゆる奇禍や戦火にも、冷淡な沈黙を守り通してきたというのに。  ついさっき、この近辺を散策しているときには感じ取れなかった、まねかれざる侵入者の気配。まさか、そんな……ディアナは畏怖の念を抱く。あたりいちめんの気温が二℃ばかり下がった感覚。うそでしょ?――ううん、これはまちがいない。 「だれか、いる……?」  ディアナは闇の奥をじっと見据える。明瞭な敵意は感じられない――そのことに少しだけ安堵するも、 (この、異形の類かしら……胸がざわざわする……!)  月光の(すだれ)をくぐるように、影の正体がゆっくり体貌をあらわす。それは薄汚れたチュニックに黒いマントを羽織った男だった。グリフォンを彷彿させる精悍な顔つきに、病的なまでに青白い肌。光沢を帯びた鈍色の髪は、肩にかかるほど伸びている。 「うそ。にんげん、なの……?」  愕然とした声。いつも孤高でもの憂げなディアナが、恐れと不安を凌駕する驚きにうろたえている。しかし――そんな態度にすら気品が(うかが)えてしまう、かのじょの英華発外の()せる業だった。 (信じられない! 《黒い森(ミュルクヴィズ)》が、人間をなんて……っ)  さて。おもわず見落としそうになったが、かれは今、泉の上を歩いている。いや……ちがう、かれの靴は(「なあに、あれ? まるで鉤爪みたい」――長く尖ったつま先がそり返った靴を見、ディアナは怪訝そうに首をかしげる。そもそもかのじょは靴を知らなかった)泉にふれていない。一インチばかり、宙に浮いていたのだ。落ち葉とじゃれる旋風がかれの長くしなやかな脚にからまっているため、旋風に運ばれているふうに思わせる。まるで宮廷道化師の奇術を披露されているかのように。  かれが宙を歩くたび、水面は波紋をうみ、すなおに投げかけていく。 《ミーミルの泉》ので、かれは立ちどまった。まるで泉の畔がふたりの境界だとばかりに。  最初に氷の沈黙を破ったのはかれだった。 「あの……すいません、夜分遅くに。まさか先客がいるとは夢にも思わず」恭しく一礼。そして、かろうじて平静を保った、申し訳なさそうな笑み。覇気の薄い声音が、いちばん疲れを滲ませていた。やれやれと首筋をさすりながら、 「お恥ずかしながら……じつは王国の外に出たのが初めてなもので。気の向くままに足を運んでおりましたところ、こんな森の奥深くに迷いこんでしまった次第です」
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