第一部 ステラ・バイ・ステラ

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 下腹部に響く、低い声。洗練された所作はなかなか堂に入っているが、節々より若さも垣間みえる。  ただ――そんなことより、かれが破顔したことに不意をつかれ、ディアナは肝心の話をほとんど聞き逃してしまった。  謎の青年は目線を合わせようと腰を落とす。そのとき、妙なにおいがディアナの鼻をかすめた。 (まるで、人工的なラム酒のような香り……)  じつのところ、ラム酒を味わったことなんてなかった。かのじょは食に関心がなく、気まぐれに草花の蜜を舐め、ときどき果物やキノコを囓るていどだった。あれはそう――八十年まえ、ナクアが放浪の音楽家にもらい飲んでいた、楕円形のキュートな瓶。それの中身をラム酒と呼んでいたことを思いだして。 「どうかされましたか?……ああ、これですか」  かれは回想に耽るディアナの眼差しを汲みとり、自身の華やかな革靴に興味をもたれていると心得違いしたようだった。奇怪な三白眼が、純真な笑みで細くなる。 「これはプーレーヌと呼ばれる靴です。クジラの高価なを使い、この形状を保っているんです。ご存知でしたか?」  ディアナはちいさく――蝶のまばたき否定した。 「ご存知じゃないわ」  ヴラドの頬に朱が差す。「すいません。ちょっと自慢をしたくて……浮かれていました。これは友人に頂いた靴なんです」  友人?――ディアナは視線できき返す。ヴラドも視線で肯定する。 「大切な友人です」  不意に、照れ笑いが優しさでくつがえる。とくん――予期しない笑顔に、心臓が跳ねた。 (なんだろう、これ。変なの)  ディアナの頭上を嵐のように駆けめぐっていた不安と焦りは、すでに鳴りを潜めていた。そのとき、 「これは……」  おもわず青年は目を(みは)る。ディアナの羽に、淡く透明がかった白色のかがやきが通い、蛍の明かりみたいにちかちか明滅をくり返していたのだ。ウォールランプのように人工的なものではなく、なつかしい温かみを帯びた光で。 「あの、ごめんなさい。疲れるとこうなるの。この時間、ふだんは眠っていることが多くて」  ディアナは居心地わるそうに、ぽそぽそと応える。昆虫の翅脈(しみゃく)のように通う筋がくっきりとうかがえてしまうため、内心あまり好きではなかった。 「きれい……ほんとうに、すごくきれいです」  感嘆のため息。かのじょの悩みなど知る由もなく、青年はうっとり呟く。  ふたつの前羽が動くたびに宙をそよぐ鱗粉。月明かりに照らされ夢幻の色を魅せてくれるそれを、夢中になって目で追うかれ。  きっと、本来のかれはなのね。純真な眼をまっすぐ見つめ返し、優しくほほえむディアナ。本人は無自覚のようだから、その笑みを知っているのは《黒い森(ミュルクヴィズ)》に迷いこんだ風と夜空の月だけだった。 「ありがとう。そんなに見られると、少し緊張しちゃうけど」 「こ、これは失礼しました。不作法な振る舞いをお許しください」  かれは威儀を正すように背筋をのばし、勢いよく頭を下げた。あたりいちめんに咲くアジサイが驚いて仰け反る。 「ずっと王宮書庫室で読書に耽っていたもので、外の世界がすべて新鮮なのです」 「それはなあに、王宮……書庫室?」 「国でいちばん大きな城にある、たくさんの本を収納した場所です。世界中の入手困難といわれる名著が揃っています。ぼく……わたしは文字通りになっていました。本来ならば貴族以外の閲覧は禁じられているのですが、先代の王の寛容な措置のおかげで……」  ああ、いけません。退屈な話でしたね。爛々と語っていた青年は照れくさそうに俯き、そんなかれのを、ディアナはまじまじ見つめるばかりだった。ぼんやりとかれを自身の境遇と重ね合わせてみながら。
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