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ディアナは首を横にふる。「だいじょうぶ。そんなに畏まらないで」あなたの立ち居振る舞いで、迷惑を被ったりなんてしていないのだから。
「恐縮です。あの、お嬢さんはいつもこちらに……?」
「ディアナよ」どこか冷然とした響き。それから試すような上目遣いで、「わたしの名前はディアナ。呼んでみて」
青年は一瞬面食らってしまうも、かのじょの誠実な意思を察しすぐに襟を正した。このきもちに応えなければという、ふしぎな使命感が働いたのだ。
「……ディアナ」
低く囁くような、芯のある声だった。さきほどの泉の波紋みたいに優しく、ミステリアスな音色が含まれている。しかし、肝心のかのじょから反応はない。ぼんやりした顔でかれを見つめているだけ。
(あれ、きこえなかった……?)かれは思い切って、もう一段大きな声で呼んでみた。
「ディアナ」
かのじょの肩がぴくりと跳ねる。「……ああ、ごめんなさい――」ぎこちない笑みで、子どもみたいに指遊びしながら、「だれかに名まえを呼ばれること、あんまりなくて。ふんわり温かくて、そわそわする……ふしぎな感じだなって」
ふたりは自然と見つめ合っていた。青年はディアナのしぐさから、ディアナは青年の瞳から、それぞれ千のことばを読み解こうとするように。
(――ああ。妖精よ、妖精よ……)
ヴラドは息をのんだ。充溢した情緒、かぎりなく夢の色に近い万能感。こんなにうつくしいあなたを、いったいだれが生んだのでしょうか? 光顔巍巍を象徴する、奇跡のひとを。
そのとき、ふたりは風を感じなかったけれど、トネリコの葉が擦れあい、清麗高雅な調べを降らせていた。その幽かな音だけが時の流れを証明していた。
ここに座って。ディアナは自分のとなりを叩いて合図する。かれが恐縮しながらおずおず腰かけるのを見届け、
「あなたの言うとおり、わたしはずっとここにいる」
ふしぎそうに首をかしげる青年。ディアナは長い睫毛を伏せて、手近なアジサイの頬をさすっている。わざと言葉の補足を先送りし、かれの反応をうかがっている。
「さっきの質問の返事。あなた聞いたでしょ?」
旋毛に感じるかれの怜悧なまなざしが、したたかに続きを促す。
「この泉の番を《女神さま》に仰せつかったから。わたしはずっとこの森に縛られつづけている。そのために生みだされたの」
三百年以上ものあいだという説明は省くことにした。同情されるのを望まなかったうえ、外見に反して老齢だという感想をきらった結果だった。
(ううん、どうしてかな……?)かのじょはなんとなく、青年に失望されたくなかった。逆にしたくもなかった。そう思う理由も、その意味がもたらす感情の正体も、そのときのディアナには知る由もなかった。
すくっと立ちあがる。それでようやく、座っているかれと目線の高さがそろう。かのじょは一歩だけ、かれに近寄ってみた。
「ねえ。わたしはあなたに名前をおしえたでしょ? それで、あなたはずっと呼んでくれてる。こんどはわたしにおしえてほしいな、あなたの名前」
もう一歩踏みだす。トネリコの葉から洩れた月明かりの紗が、気まぐれにふたりに包まる。かのじょのからだをながれる光の模様に見惚れ、夢うつつなまにまに、かれは口をあけた。
「ぼくはヴラド。ヴラド・ツェペシュ」
心ここに有らずといった口調。けれど芯のある、どこか誇りを感じる声で。「吸血鬼の末裔です」
こうして、呪われた妖精と畏怖された吸血鬼の物語は幕をあけた。
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