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ふたりが神秘的な邂逅を果たし、早くも十日めを迎えていた。ヴラドは毎晩かかさずトネリコの樹の根元におとずれ、ディアナと肩をならべては星のめぐる夜空を見わたし、クラシックな時のほとりでじぶんたちが生きてきた狭い世界のことをぽつぽつ話すのだった。
とくにヴラドの話す、かれがくらしている世界――パンゲア国――の歴史や文化などに関する話は、ディアナにとってあまりにも新鮮だった。刺激にあふれ、高揚でこころは震え、かのじょの想像力の翼をいくら羽ばたかせても辿りつけない、そんな未知の領域にひたすら圧倒された(あいかわらずきょとんとした顔のまま、けれど頬はかすかに上気して)。
修道院、ギルドホール、偉い人の住んでいる王宮。そして生活をいろどる国王さまに司祭さん、農民さん、吟遊詩人など……(にんげんって、みんな空をとべるわけじゃないのね)
美術館やレストランもかなり興味がある。行ってみたい。行って、たしかめたい。じぶんのイメージとリアルがどれくらい合致しているんだろう。この目に焼きつけたい。馬車の乗り心地が、どれくらい最悪なのかも。
(いつか行けたらいいのにな。かれの生まれ育った町に、かれと一緒に……)
《黒い森》の特性として、明け方と夕暮れのあいだは涼しくやすらかなひとときがおとずれる。
宵の口を過ぎれば心細い寒さが沁みわたり、あまねく生きものは不安と恐怖で居た堪れなくなる。
しかしヴラドは寒さを嘆く心配がなかった。しなやかなビードロのドレスを纏うディアナに寄り添っていれば、透けた肩口の肌から伝わる体温で全身を抱きしめているようなぬくもりを感じることができた。
天気がすぐれないとき、ヴラドは気にいりの本をディアナに読んであげた。かれの住処になっている王宮書庫室で眠る、貴重な古典文学を。
「ほんとうに持ってきてもよかったの? 大切なご本のはずなのに」さすがにディアナも心配になるが、ヴラドはけろりとしている。「べつに大丈夫じゃないかな」と他人事のよう。
「ぼくのためにって取り寄せてもらったんだもの。王宮どころか国内でも、こういう本を読む人はいないんだ」
いつのまにかヴラドの話し言葉は平常語になっていた。それは徐々にきずなを深めていくかれらの親密な関係性を象徴する合図の一種だった。わたされた古書を不安げに抱え込んでいるディアナの髪をゆっくり撫でながら、かれはおだやかに語りかけた。「バイオリンだってそう、弾かれることで輝くんだ。読まれない本なんて可哀想だよ」
十日めの夜もヴラドは本を読むことにした。胡座をかくヴラドの脚のあいだに、ディアナをちょこんと座らせて。そこがかのじょの特等席だった。貝殻のように小さな手で本をひらき、月明かりのかわりに活字を照らしてくれる、自然とそんな役割を担うようになっていた。
そして読むのが苦手なディアナのかわりに朗読するのがヴラドの役割だった。また、かのじょから「もっと感情をこめて」と高度な要求をされたり、
むずかしい語彙や話の展開があればその意味を納得するまで説明してあげることも。いったん物語の世界にふれてしまえば、あんなにおどおどしていた態度が信じられないくらいディアナは夢中になった。
「今晩はなにを読んでくれるの?」
「これも遥かむかしの本になる。仏蘭西という国で出版されたらしい。タイトルは『Fruits of the Earth』。ぼくはこれを読んで、じぶんの生き方を見直そうと思ったんだ――ああいや、つまらない話はよそう。……じゃあ、さっそく読もうか」
“私はありとあらゆる放浪者に出会うこともできようかと、みずからも放浪者となった。どこに身を温める場所を求めようかも知らぬすべての人々に優しい愛情の限りを尽した。また流浪するすべての人を激しく愛した”(※1)
ヴラドは読みきかせながら、しみじみ感慨にひたっている。これまでこころを打ってきた数々のことばが血肉となり、魂を掻きたてられ、あの日、運命の思し召しによって、かれはこの地――《ミーミルの泉》へと導かれたのだ……
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