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「――あっ」
ディアナのつぶやきに、文章を指でなぞっていたヴラドの動きがとまる。視線だけかのじょの旋毛に落とし、続きのことばをしずかに待っている。
「ねえ見て、ヴラド。ここにもあった」
鉤爪のようなかれの指、蝋のように白く、関節が張り骨ばっているそれ。……ときどきディアナは物語の迷宮からこっそり抜けだし、頁を繰るかれの手を観察してしまう。それは用心深いキツネの尻尾さながらの繊細なしぐさで、しかし朗読をする声は晴れた夜空のように澄んでおり、けっして甲高いことはない……。
ヴラドがさし示す単語を、ディアナの指もなぞる。刹那のあいだ、おたがいの手がふれあう。かのじょの指の冷たさに、ヴラドはこの蒼い地球の温度にふれてしまったような危うさをおぼえる。
「わたし、おぼえてるよ。Discretion……だよね?」
「そのとおり。ディアナの記憶力には目を見張るよ。Dから始まる単語において、もうすっかり権威だね」
一抹の感触にたいする狼狽をひたかくし、ヴラドは平静を装うことに精一杯注力した。ディアナはというと伏し目がちにほほえみ、コマドリの足跡そっくりのえくぼを頬にうかべ、かれの腕のなかでむず痒そうに居住まいを正すのだった。かすかに頬が朱く染まっていることを知っているのは月だけだった。
ディアナはアルファベットの中で「D」がいちばんお気に入りだった。理由は「横から見ると、海のむこうから昇ってくるお日さまみたい」だから。Dew、Daedal、Dazzling、そしてDianaの「D」――古代エジプトの象形文字で“戸”を起源とする文字……。
夜はいよいよ深まろうとしている。空気が水のように冷たくなり、植物たちのにおいが濃くなってきて。優しかった風もおもむきを変え、とたんになつかしい哀しみを帯びて《黒い森》を試すようにゆらすのだった。
けれど、胸に迫るように鳴く夜の風にどれだけ脅されようと、ヴラドはいたずらに感情を昂ぶらせることはなかった。この十日間に足繁く通い詰めてきたなかで、ここにいる生きものすべてが《黒い森》の色と匂いに調和することで生かされていることを学んだし、なによりもディアナ――今まさに、ドレスのひだをさりげなく纏めて、かれの膝のうえに婉麗と腰かけている妖精が、ヴラドの心を支えてくれているから。
かれの両腕にかかれば、いとも容易く包みこめてしまう華奢な体躯であるにもかかわらず。ディアナの存在は果てしなく、かけがえのない、壮大な宇宙だった。
(だれだろうと、きみの声には敵わない。そしてきっと、きみのほほえみがすべてを叶えてしまうんだ)
ヴラドはそっと、ブランケットで包むようにディアナを抱きしめる。死後も伸びつづけると言い伝えられている尖った爪が、かのじょを傷つけてしまわないように。
(――さて。今夜はもう少しだけ読めそうかな)
そう気を取り直したときだった。ディアナの頭が微かに動くのを、ヴラドは見のがさなかった。かのじょの視線はじっと東の空に向いていた。
「どうかしたかい、ディアナ。また天気がくずれそうかい?」
雨が降るかを知りたければ、東の空がおしえてくれる――あれは何日めの夜だったろう、ディアナがそう言っていたことを思いだす。
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