第一部 ステラ・バイ・ステラ

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 月が真夜中をわたる途中、天の川をとりかこんで舞う星座たちのかがやきが弾け、まざり、行き交っていくのをふたりは感じていた。それは夜空を仰がずとも、おたがいのからだを照らし流れる光の具合で察することは容易だった。  きっと天国のように自由なひととき。目をあけたまま見る夢、銀色の風、甘くゆれるアジサイ。この時間がずっと続けばいいとヴラドは思った。この瞬間のなかに閉じ込められていたいと。  夜が深まり燦々とみなぎる月光も、ディアナの瞳のきらめきには遠く及ばなかった。かのじょを成り立たせている色は、ヴラドの知っている色とは似て非なるものだった。瞳も、髪も、声も。すべて未知の作法で光りかがやいている。それは川の波紋さながら一度っきりの、儚く様変わる、やるせない仕組みで。  ふたりは見つめ合うことで、おたがいの鼓動のリズムがかさなっていくのを感じている。繋がってはぐれ、たぐって絆されて。そんなことを星の数ほどくり返しながら調和していくのだった。 (……ねえ、ディアナ。こんなふうに思うのは、生まれて初めてだよ――)  ヴラドはこのとき、じぶんが吸血鬼であることに、生まれて初めて感謝していた。おのれの形貌を鏡に映さないという特異な体質上、ディアナの瞳を底の底まで見つめていられたから。  王宮書庫室という箱庭的世界で生きてきたヴラドにとって、胸が高鳴る夜というのも初めてだった。あれは数年まえ――ひどい悪夢を見たヴラドが、バルコニーで夜風に癒やされていた夜、外域の見張り番を交代する立哨たちのこそこそ話に耳を(そばだ)てたとき。辛うじて聞き取れたひそひそ話によると、商人や旅人は一途な星々の機嫌をうかがい、占いだったり道しるべに用いたりするという。  いつから人は星を知りそのきらめきのなかに願いや運命を示す装置であると伝え受けるようになったのだろう。ヴラドは切実に思う。いったいどれだけの古人が、散りばめられた星の声を純粋に聴き、夢のためにだけ煌めくしたたかさを祝福したのだろう。ちょうど今、彼の胸にからだをあずけ、乱れた息をしずかに整えているかのじょのように。  ヴラドは月明かりの揺りかごにゆられながら、ディアナの背中にぎこちなく腕をまわす。ディアナは気づかないふりをした。かれの細やかな一挙手一投足を、素早く察していたにもかかわらず。じっと事の成り行きをあいてに任せている。あたかもじぶんが疲れてぼうっとしているまに、ヴラドの胸のなかに包みこまれていたという体を企んでいるように。  ディアナはゆっくり瞼をとじる――かれの奇形で禍々しい、だけど温かくて臆病な腕に抱きしめられながら。(……羽根を傷つけないように気を遣ってくれてるの? もっと強くしてもだいじょうぶなのに。わたし、そんなにじゃないのよ)心中でそう呟きながら――  かさなったふたりの影が、時のでたゆたい、ひしひしと夜に包まれていった。ヴラドは短い歌を歌った。古く慣れ親しんでいるのか、ふと無意識に口ずさんでいるような調子だった。  わたしがあなたと暮せるなら  すずめと猫が、わたしの靴で暮すだろう  あなたが戻ってくるのなら  魚が海から出てくるだろう(※3)  ディアナがこの歌を聴くのは二度めだった。子守歌のように優しいメロディ。いつも詩の意味をおしえてもらおうと思うのに、かれに会うと毎回わすれてしまう。ディアナはそれでも満足だった。かれの優しい歌声に浸りながら、かつてかれも誰かに聴かされたのかもしれないとぼんやり想像を膨らませることが秘そかな愉しみだった。  そのとき、ちいさな物音がした。ディアナは瞬時に耳を(そばだ)て、四方に注意を払う。なにかが《ミーミル泉》の近くの茂みに潜んでいるようだった。葉の擦れる音、小枝を踏む音が、すばしっこく泉のそばを駆けまわり――不意に、一匹のウサギがとびだしてきた。まだこどもに違いない。柔らかい薄茶色の体毛はふわふわで、たんぽぽを連想させる。  ウサギは後ろ足で立ちあがり、長い耳をぴくぴく動かしながら視線を彷徨わせていた。それが泉の真ん中で抱きあうふたりに気づくとそのようすを凝視し続けた。もの言いたげな眼は(ボタン)のように黒光りしており、夜闇とは異なる系統の黒色だった。 「ほら、ディアナ。見てるのは月だけじゃなかったよ」  ヴラドは和やかにわらいながら言った。
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