ネクシューレ記録暗号 第一話

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ネクシューレ記録暗号 第一話

 私はいつも午前十時半に職場である病院に到着するように家を出ている。心理診療士カウンセラーとして最初の患者を迎えるのが、午前十一時開始だからである。その日はというか、毎週火曜日の午前中は、いつも同じ患者さんの相手をすることになっている。彼はTさんといって、三十代の会社員の方で、毎週この時間だけは仕事を抜けて、この病院に通院している。病名は統合失調症とうつ病とパニック障害。カウンセリングを行う部屋は病院の精神科の隣にあるミューティングルームであり、約八畳ほどの広さがある。窓のない白い壁、まだ書き込みのない月曜始まりのカレンダー、五分遅れの壁掛け時計、各患者用のクリアファイル、赤い花の活けてある花瓶。彼とは白いテーブルを挟んで、この部屋で毎週約二時間にわたり向き合うことになっている。彼との対談の内容は毎週あまり変化が見られなかった。そう、あの日までは……。 「先生……、先日、また奴らが来たんです……。ふふ、毒人格ですよ。私が常日頃貴女に対して話しているではありませんか(私はここで一度頷いてみせる)。この世には徳人格と毒人格の二種類の人間が存在すると……。徳人格の人間はこの世界の人間にとってプラスになると思い込んでいることを次々と口から吐きます。すなわち、他人と会ったなら必ず会釈して挨拶しろとか、危険だから深夜になったら外出はするなとか、両親や上司や政治家など、目上の人の言うことには決して逆らってはいけないとか……。とにかく、この世界の著しい成長にとって、プラスになると思われることを説いてまわるわけです。もちろん、彼らが勝手にそう思い込んでいるだけで、実際にその警句が世の人のためになるかといえば、それは疑問です」 「ええ、よく知っていますよ。そして、Tさんもその徳人格のひとりなんですよね?」  この不毛な対話が始まると、私はいつもそのように返事をしている。 「私が……? 私が徳人格? いえ、見方によっては確かにそうかもしれない……。こんな私でも、一応はね、世の中の役に立ちたい、成功してみたい、社会の発展に寄与したいなどと思うことがあるんです……」 「それに、Tさんは上司やご両親や初めて出会う通行人の方々に失礼な言葉遣いをしたりはしませんよね? この私に対しても、いつも丁寧に対応してくださいます」  私がこのように返すと彼はいつも不機嫌になり、余計に憤るようであった。 「先生、やめてくださいよ、私がこの社会に対して無礼を働かないのは、こんなにダメな自分でも最低限の礼儀を保って生きていきたいと思っているからです。決して徳人格の連中の仲間入りしたいと思っているわけではありません」  このTさんの言動には、いつも二重性があると感じている。自分の発している意見に同意されると、一方で否定しながら、もう一方では肯定する……。これはどのようなものを主題にしても同様である。会社での勤務内容、昨日の夕飯のメニュー、これまで関わってきた恋愛事件、そして自分の病気について……。そのどの命題についても、明らかな二重性が見られるのである。すなわち、好きなものを好きと素直に言えない。心から嫌いなものを、一方では好んでしまっている自分の心境についても語る。テレビに出演する成功者を、心のどこかでは応援しながら、他方ではとにかく妬む。その上、これほどの重症患者であるのに、自分をまったく正常だと思い込んでいる節もある。 「Tさん、先ほどのお話ですと、あなたの身にまた毒人格の人間が接してきた、ということでしたね? そのことをお話ししてくださいませんか?」  私はこの日もそのように先を促した。Tさんはペットボトルの水を一度口に含むと、再び話し始めた。 「先生、そうなんですよ! 駅のホームですれ違いざまに肩をぶつけられたんです! 私は驚いて振り返りました。そしたら……」 「そうしたら……、そうしたら、相手はどういう態度を取ったんですか?」 「先生、相手はグレイのコートを羽織った中年のサラリーマンでした。あのね、こっちを見て不敵に笑っていたんですよ! 私はすっかり頭にきて、二回大きく地団太踏んでやりました。そしたら……」 「そうしたら……、そうしたら、相手はTさんに対してどういう反応をとったんですか?」 「『おまえが前もろくに見ないで、のろのろと歩いているから悪いんだろうが』こういうふうに言ったんです。自分の肩をぶつけてしまった相手に対して、そんなことを言う人間が存在すると先生は信じられますか? 私はすっかり頭に血がのぼって……、さて……、どうしたんだったかな……。奴の上半身を乱暴に捕まえて、柔道の要領で思いっきり地面に叩きつけてやりました。そして、右足で奴の顔面を何度も何度も踏んづけてやったんです……」  彼が話している内容が明らかな妄想と判断できても、それに対して忠告を与えるとき、『妄想を膨らませないで』『それは実際に起こったことではないでしょう?』などと付け加えてはいけない。彼は否定されることをとにかく嫌い、熱くなってくると、医者や上司など日常の話し相手にまで、その牙を伸ばしてくるからである。 「Tさん、もう一度、その時の状況に戻って、ゆっくり考えてみてください。あなたとぶつかった相手との位置関係や言動を……、もう一度、よく考えてみてください……」  そう声をかけてやると、彼は額に手を当てて、しばらく考え込んでしまいました。 「そうだな……、先生、どうも、今日に限っては、おかしなことを言ってしまったようです……(私はそこで微笑みかけてやり、彼の緊張をさらに和らげようとした)。どうやらね、いえ、お恥ずかしい話なんですが、冷静に振り返ってみますと、私はあの夜、誰ともぶつかっていないらしいのです。こんなことが信じられますか? いえ、確かに、ついさっきまでは誰かと暴力沙汰を起こしたような印象を持ち続けていたから、これをすべて先生のところで語ってやろうと思いつつここまで来たわけです……。しかしですね、本当によく考えてみますと……、はて、私は本当にそのような乱闘騒ぎを起こしたのでしょうか? どうも、信じられなくなってきました……」 「だいぶ、落ち着いてきたようですね。よく考えてみると、どうですか? 実際にはどんなことが起きたか教えてもらえますか?」 「教えるもなにも……、先生、私は誓って、誰とももめ事を起こしてはいないのです。ただ、前の人に続いて何ごともなく電車から降りたことを覚えています。先生、ただね……、ホームの端を歩いているときに、前から歩いてきた若いサラリーマンが私の右肩をすっと掠めるように通り過ぎていったのを覚えています。これは架空ではなく現実での出来事であり事実です。そのとき、私は自分の妄想がビッグバンのように大きく激しく膨らんでいくのを感じたわけです。いったん現実世界を離れ、妄想の道に踏み込んでしまったなら、もう後には戻れません。自分の妄想の中で相手につかみかかり、そのまま組み伏せてしまうまでは、あっという間でした……。自分の想像の中では、私はどうやら無敵のようです。どんな巨漢にもプロボクサーにも殴り合いで負けたことはありません。ふと気がつくと、奴は鼻から大量の血を流しながら地面の上で横たわっていました。私はその惨めな姿を見てさらに高揚しました。しかし、警察沙汰になるのはまっぴらごめんです。駅に備え付けられている監視カメラになるべく映らないように、慎重にその場を後にしたわけです……。『しかし、これはどうやら一時的な空想であり、現実ではなさそうだぞ……』。そう気づくまでには、十五分ほどかかります。そして、ふと我に帰ります。実際には、ホームの端をひとりで佇んでいる自分がそこにいる……。プラットフォームには、もう自分以外に乗客の姿はない……。そう、肩をぶつけられてからの一連の暴行事件は、すべて私の頭の中だけで展開されていた妄想なのです……」 「ご自分でそれが妄想であること、そして、実際に起きたことではないことを理解なされているのですね? それはとても良いことだと思います。物事を現実的に考えることが、この病気に対して、もっとも有効な措置だと思います」 「先生、私とて、ことが済んでしまえば、現実と想像世界の区別くらいはつくのです。それにしても、これらの妄想は実際に起きたことと同じように、私の心に激しい嫉妬や憤怒を感じさせるわけです。これは先ほども申しましたが、一度でも現実の大通りからわき道に逸れてしまいますと、そこからは容易に抜けられません。そう、肩をぶつけてきたと思われる、存在するはずもない相手と殴り合いをしている間は、ずっとその非日常の仮想空間からは抜けられないのです」 「その妄想から抜け出せるようになるために……、そして、日常を冷静に送れる生活を取り戻すために、この病院に毎週通っておられるのですよね? そこは承知なされていますか?」 「ええ、先生、その通りです。おかげさまで以前よりはだいぶ調子が良くなってきました。妄想が起こる頻度も、その現実逃避時間もずいぶん短くなってきたんです」  Tさんがこのカウンセリングに通うようになってから、すでに七年。通い始めた頃と比較しても、精神状態が良好になっているとはとても思えない。激しい憤りの感情と、その後に必ずやってくるという、うつ症状に昼夜苦しめられている。しかし、この面談においては、彼の口からは常に『よくなってきている』という言葉が出てくる。このような激しい妄想状態に苦しめられながらも、自分の病状のどこかに確かな改善を見出しているようだ。私の見立てでは、うつ状態には(精神薬によって)多少の改善が見られるが、妄想状態は日増しに悪化してきているように思える。このカウンセリングを始めてから早数年が経過している。正直に言って、私の力では彼の病気を改善させることは難しいのでは、と感じるようにもなってきた。今となっては、もっと、設備の整った大学病院などで診察を受けさせることも選択肢に入れている。  Tさんに割り当てられた診察時間は約二時間である。しかし、毎回、彼の体調報告だけで二十分ほどの時間を費やしてしまっている。この日も駅のホームで起きたとされる妄想の中の暴行事件の話から始まって、最近の職場での状況報告だけで、すでに四十分近くを費やしてしまっていた。不本意ではあるが、診察が始まってからの前半部分は、毎回好きなように話してもらうようにしている。こちらから主題を設定してしまうと、それが自分にとって理解しがたいものであった場合、すぐに不機嫌になる傾向があり、ふさぎ込んだり、乱暴な態度にでることがあるからだ。  そこで、この日も最近感じたことを自由に話してもらうようにした。Tさんには職場にも家にも、自分の身近に話し相手がほとんどいない様子で、そのことが彼の病状を悪化させる要因となっている節があるからだ。つまり、良き話し相手になってくれる人物が身近に現れれば、この病状も良化に向かうと見ている。だが、中年になってから職場や地元などで友人関係を作らせるのは非常に難しい。そもそも、この歳まで友人ゼロで来てしまっている人には、それなりの重大な要因があるのだ。Tさんには発達障害の傾向が顕著に見られ、それが激しい人見知りを生み出していることは想像に難くない。すでに八年近い付き合いだが、私がその話し相手になってやる他には、有効な手立てが存在しないのが現状である。この日もTさんは自分が用意してきた妄想話を次々と繰り出してきた。 「先生、ついに奴らの計画が動き出したようですよ」 「奴ら? あなたに不幸をもたらすという毒人格の方々のことですか?」 「ああ、先生、違いますよ。以前に話した毒人格のグループは、私を標的にすることを一時諦めたようです。先日、深夜二時ごろ、CIA本部からの音波信号で、この脳に直接そのように通告があったのです。すなわち、『今回の一件においては、おまえを見逃してやる』と暗号で伝えられたわけです。もう、奴らと関わり合いになることはしばらくないでしょう……。ひとまず安心です。自分ひとりでは、CIAの命令に歯向かうことは非常に難しいからです。私がこれから語ること、これは別件の国家的な陰謀です」 「国家的と言いますと……、どこの国ですか? 我が国ですか、それともアメリカの話でしょうか?」 「実はスイスの話なのです。かつて私が所属していた、スイスの地下組織の話です」
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