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24、早川メンタルクリニック
世の中には親切な人が沢山いるのです。
奥多摩駅の駅員さん、乗り換えの駅で会った知らない人達、赤坂駅で道を教えてくれた人、皆様に感謝いたします。
でも、私は頭が良くないので間違えちゃうのです。逆方向の電車に乗ってしまったり、行ったり来たりしちゃったり、疲れて歩けなくなって少し休んだりもして、目的地に着いたら夜になってしまったのです。
「早川メンタルクリニック」は思っていたより大きいビルの中にありました。
受付で「初診受付の時間は終わりました。」と事務員さんから事務的に言われた時には軽く絶望しました。
私の目的は診察ではないのです。先生を見ることなのです。先生は私を見ても誰だか分かりません。だから、大丈夫です。入り口で先生が帰るのを待つことにしました。クリニックはビルの2階にあってエレベーターを降りて左側の全部でした。
スモークガラスの両開きのドアの横で私は体育座りでずっと待っていました。何回か事務員さんに嗜められました。
「後日、後日」と少し煩いです。
体育座りをして、貴重品は布の手提げに入れてお腹と足の間に挟んであります。通路を占領しているので足が前に出過ぎないように手を組んで抑えてあります。頭は下を向いちゃいます。
眠いんです。とても眠いんです。考えてみたら、朝少しご飯を食べてから何も食べていませんでした。
事務員さんは帰ってしまいました。未だ電気はついています。看護師さんやお医者さんの出入り口は別にあるのかも知れません。ママが働いていた病院はそうでした……真っ暗になっちゃったらどうしましょうか。それは想定外。それで私の負けは確定です。
生きるということは思い通りにいかないものです。私はそれが分かる大人のつもりです。
眠いなぁ、眠い……。
「先生、未だ居座っているんですよ。どうしますか?」
ベテラン看護師の原さんが僕に声をかけた。「う〜ん。ちょっと様子を見て、早川総合病院の精神科に回すかな。」
早川葵は原と一緒に時間遅れの初診患者の様子を見に行った。
早川が見たその患者は、櫛も碌に通していないくしゃくしゃの長い黒髪をゴムで括った女の子だった。上下の青いジャージを着ていた。裾が擦り切れている。靴は運動靴。スニーカーじゃなくて運動靴。その子はお腹にしっかりと布の手提げを抱えていた。
「ちょっと拝見してもいいですか?」と早川が声を掛けると小さな声で「はい。」と言った。
袋にはお財布と保険証とヨレた名刺が入っていた。
名刺は自分のだった。早川は首を傾げた。なぜ、こんな子供が僕の名刺を持っているんだ?
保険証を見た早川は驚愕した。田中 陽(タナカアカリ)………生年月日を見て逆算する。25歳。目の前の女の子は、ハタチぐらいにしか見えない。生年月日も陽と同じ!
こんなことあるのか?!全くの別人じゃないか!と思いながら「陽……か?」と声を掛けると「葵…。」と言って意識を失った。
早川は、患者を抱き上げた。「先生?」と原が訝しげに葵に声をかけた。
「僕の知人だ。あまりにも面変わりしていて気がつかなかった。休養室に連れて行く。ずっと此処にいたんだよね。何時間くらい?」
「3時間くらいでしょうか。」
「車椅子の用意をしてくれるかな。」
「はい。持ってきます。」というと原はクリニックに戻っていった。
早川はショックだった。抱き上げた体は、あまりにも軽かった。40キロないだろう。35キロ切ったら命に関わってくる。総合病院に預けた方がいい。でも、早川にはできなかった。
早川と原で車椅子を使って陽を休養室に運ぶとベッドに横たえた。其処までで原看護師を帰宅させた。
精神科には休養室がある。其処にはベッドがある。心の病気なのに何故と思う人が多いが、心の病気に罹った患者の大半が身体の不調にも見舞われる。診察を待つ時間でさえ座っているのも困難な患者のために休養室はある。
早川葵は、休養室のベッドに柵を取り付けた。取り敢えず、ラクテックを点滴する。パソコンで水川神社の電話番号を調べ電話した。
電話には晃が出た。娘が帰って来ないのを心配していた。いくつかの質問をして答えを教えてもらった。
明日の段取りも晃と葵で決めた。
今することは全てやったと思った瞬間、葵は自分がしてきたことが、どんなに酷いことかわかった。
何故、自分の彼女を信じなかったのか。自分は一方的に被害者ヅラをして逃げただけだ。
2人で愛を誓った仲だったのに、僕は陽に何をした?鍵を置いて帰った日に追いかけて話を聞くべきだった。僕は「セフレ」と言われたことで、翔と結婚すると言われたことを丸々信じてしまった。理由があるはずなのに、訊きもしないで僕は逃げ出した。
電話の向こうから聞こえた幼い子供たちの声。関係ないわけない。自分も同じような境遇で育ったのに、知らん顔を決め込んでいた。
陽をここまで追い詰めたのは神澤だけじゃない。自分も同罪だ。
陽は眠り続けている。
知らないうちに僕もベッド脇の椅子に座って居眠りをしてしまった。
浅い眠りから我に帰ると、最初に頭に浮かんだのは点滴のことだった。空になっていたら大変だ!ラクテックの残量を確認した。その時に陽が起きているのに気がついた。
彼女は黙って、ただ涙を流していた。
「本当にお医者さんに見えるよ。夢が叶ってよかった。迷惑かけてごめんなさい。もう、帰るね。コレ外して。」
陽は、点滴の針が刺してある自分の手首を指差した。
「田中さん、あなたは診察を受けたくて待っていたんでしょう?」
「父はそう言いました。でも、後日と言われたので帰ります。」(博打は私の勝ちなので…もういいんです…)
「もう、電車もないですよ。折角なので、お話を聞かせてください。深夜診療の分は上乗せします。このチェックシートを読んで、当てはまる項目にチェックを入れて。」と言った。
葵はA4の紙を鉛筆と一緒にオーバーテーブルに乗せた。そして、テーブルが陽の前に来るように動かした。
鉛筆を持って、陽は紙を見つめる。目を近づける。一生懸命読もうとしている。
「ああ、そうだったね。君は……私が読むから、はいといいえで答えて。
「1、身体がだるく疲れやすいですか?いいえ。時々。しばしば。常に。のどれ?」
「2、騒音が気になりますか?いいえ。時々。しばしば。常に。のどれ?」…こうやって、葵が18項目のテストを読み上げ、陽が口頭で答える。葵がチェックしていく。。。結果は、中度。
「何もできなくなったと感じたのはいつ頃からですか?」と葵が尋ねた。
「叔母と母が…父も立て続けに亡くなりました。その頃から……だと思います。」
葵は様々な角度から陽に質問する。陽は考えながら答える。その答えを葵がパソコンに打ち込む。
「……これで、初診診療は終わりです。それ以外の質問をしたいんだけど、大丈夫?」
「はい。大丈夫です。」
「あなたは僕の子供を隠しているでしょう。」と葵が言うと陽の表情が一瞬で固くなった。
「あの子は私の子。私が覚悟を決めて生んだ子。あなたは関係ない。」
「なんて酷いことをするんだ。子供にも。私に対しても。どうして、基礎体温表を捏造してまで子供を産もうとしたんだ。」
「あなたのことは、ずっと忘れていた。私は、あの事件で記憶を失った。事件のことは今も戻ってこない。あなたの事は全部忘れた。あなたの記憶を取り戻したのは、最後にあった日の昼よ。私は、あなたのことを忘れていたから、お兄ちゃんと婚約した。結婚は4年後だったのに。
あの日、お兄ちゃんが本気で迫って来て、私はあなたを思い出した。もう、どうしていいか分からなかった。私は賭けた。好きな人と暮らせないならせめて子供が欲しかった。その子を抱いて強く生きようと思った。実際は博打よ。どっちの子が生まれるかなんて分からなかった。」陽は、全てをぶちまけるように一気に話した。
葵は黙っていた。
陽は余程酷い目にあったのだろう。「記憶障害」か。陽の判断力は当時、著しく低下していたとしか考えられない。
陽は、ふと気がついた。
「あなたは、この私が以前の私と同一人物だって本当に思うの?」
「思うよ。だって話し方とか声は変わってない。垣間見える性格も同じ。博打うちなところも。」
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