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その言葉を聞くと陽はワッと泣き出した。
「子供たちはいいの。今の私しか知らないから……。お兄ちゃんは、騙されたって言う。結婚したかったのは金髪の方だって。ショボい人生もお前のせいだって。」
一度泣き出したら、涙が止まらなくなって息が苦しくて苦しくて……。
「陽。ゆっくり息を吸って吐くんだ。ゆっくり、ゆっくり…吐いて、吸って、吐いて、吸って…。」
陽は葵の言う通り呼吸をした。苦しいのは徐々に治まった。
パニック寸前から陽は戻ってきた。
「今日、私がここに来たのは、同窓会でお兄ちゃんに名刺を渡したでしょ?それを見つけた。あなたの顔が見たかったの。来てよかった。夢が叶ったじゃない。私はね、あなたの夢を知っていた。どれだけ努力したのかも知っている。お医者さんになった葵が見たかったの。それだけよ。子供のことは気にしないで。そういえば、葵は結婚した?彼女とかいる?そういう人がいるんなら、私のことは言ってはダメだよ。」
「今は、誰もいない。2年前に1年付き合った人と別れた。僕の心の中には、ずっと1人の女の子が住み着いている。その女の子は神澤の妹で三つ年下なんだよ。不思議だな。その子は最初から黒い癖毛の黒い目の女の子になってる。記憶が上書きされたみたいだよ。」
その言葉を聞いた時、陽が被っていた仮面が落ちた。泣きながら叫んだ。
「会いたかっただけなんて嘘なの!昔に戻りたい!あの事件が私から全てを奪った!事件に遭う前に戻りたい!」
葵は、陽を抱きしめた。「昔に戻るのは無理だ。時間は遡れないんだよ。でも、ここからまた、やり直すことはできる。」
「僕が悪かった!僕が1番悪いんだ!」葵は、更に陽を強く抱きしめるとキスをした。何度も何度もキスをした。何度も何度も。
ムスクの香りがする。それは段々強くなり。休養室の中はムスクの香りでむせ返る様だった。葵は香りの正体を知った。
これは、心の香りだ。身体の交わりとは関係ない。
月に一度会えるか会えないかの付き合い。陽はずっと我慢していた。会いたいとせがむ事もなかった。いつもニコニコしていた。
僕が家に戻るとテーブルの上に載っていた山ほどのキャンディー。あれは、陽の涙だ。。。葵は込み上げる感情を堪えた。
葵は陽から離れると「今日はもう眠りなさい。軽い精神安定剤を注射するから。」と言い注射の準備を始めた。
「夜が明ければ、神澤が迎えに来る。眠りなさい。僕は外来のソファーで寝るよ。」
葵は陽に注射をすると、ラクテックを新しいものと交換した。朝まで持つように滴下数を計算して調整した。
そして休養室を出て行った。
翌朝になって、葵は1番最初に出勤してきたスタッフに休養室に患者が一名いることを伝えた。
「私は一度家に戻ります。着替えたらすぐ戻ってきます。輸液の様子を見ておいてください。それから、患者が目覚めていたらエンシュワH1.5を渡して飲むように言ってください。」
葵のマンションは、クリニックから徒歩10分も離れていなかった。
葵は急いでシャワーを浴びて身支度を整えた。クリニックに向かう途中、コンビニで飲み物のペットボトル数本と栄養補給のゼリーを3つ買った。クリニックに戻ると、そのまま休養室に直行した。
「食欲はないと思うけど、水分と栄養補給のゼリーを買ってきた。無理をしてでも口にしなさい。」という葵の言葉に陽はこくんと頷いた。
窓から朝日が差し込んでいる。葵の目の前にいる陽は頬がこけて蒼い顔をしていた。朝の申し送りの時間が近づいている。
「神澤が来たら、一緒にまた来るからね。横になって小まめに何でもいいから口にするんだ。わかったね。」
「はい。」陽は無理に笑おうとしていた。
申し送りで、葵は「休養室に昨夜から患者が1人いること。今日家族が迎えにくること」を伝えた。申し送りの後、受付の女性に「田中さんという男性が来たら、私が対応するから回してください。」と頼んだ。
朝8時半にクリニックのドアの鍵を事務員が開錠。9時からいつものように外来が始まった。
神澤がクリニックに来たのは夕方5時過ぎだった。
流石に和服じゃなかった。そこら辺にいるロン毛で若作りのオジサンだった。
翔が診察室の椅子に座るなり葵の方から口を開いた。
「本当は君の方に来てもらいたかったんだけどな…君は立派な病気だから。」
「うるせぇな。俺は病気じゃない。早く女房のところに連れてってくれよ。もう、帰りてぇんだよ。」
「奥さんは、うつ状態というより鬱病と言ってもいい状態だ。それも軽くはない。薬を飲んで安静にして、ゆっくり養生しないと治らないよ。」
「あいつは病気なんかじゃない。怠けてるだけだ。」
「うん。君と同じことを言う患者家族は少なくない。この病気を甘く見ちゃダメなんだよ。体重がね、37キロ。35キロ切ったら命に関わってくる。30キロ切ったら突然、心停止してもおかしくないんだ。本当なら入院させた方がいいよ。」
「はぁ?お前、話盛ってるだろ。」
「いやいや、盛ってないし嘘でもない。1番怖いのは自殺だな。君の家業では不味いよねぇ。」
「。。。。。俺んとこは貧乏で金がないんだよ。」
「そうかな?同窓会の時、君が着ていた衣装の生地、相当なもんだったよね。ああいう着物の価値は僕達の同級生じゃあ殆どの人が分からない。僕は分かる。全部で数百万単位ってところかな。。。何も入院しなきゃ治らないとは言っていない。通院治療っていう手が一般的だよ。送り迎えできる?」
「ふざっけんなよ!奥多摩から此処まで?一日丸潰れ。近くの病院に紹介状書いてくれよ。」
「近くねぇ」と言いながら、葵はパソコンで検索する。
「君のところ山奥と言ってもいいじゃない。近くても送り迎えだね。ちゃんとやってよね。やらなきゃ、奥さん死んじゃうよ。」
「あのさ、俺忙しいの。送り迎えなんかできねぇ。往診はないのか?」
「ああ、あるよ。高いけどね。君は実は金持ちでしょう?金で解決もできる。」
「んじゃあ、それでいいや。面倒くさい。オメェが往診してくれよ。」
「いいの?高いよ〜。」
「金で何とかなるんなら、それでいい。治るもんなら治してくれ。辛気臭くてたまんねんだ。」
葵は翔の性格を熟知していた。6年間、毎日一緒にいたのだ。「往診」で落とし所をつけるように誘導した。
「じゃあ、書類を揃えるから暫く待合室で待っていて。」
処方箋は既に準備してあった。2週間分。事務員さんに頼んで陽の保険証のコピー。事務員さんから翔に限度額認定証と自立支援の説明をしてもらう。訪問診療の書類を準備することも頼んだ。
手順はちゃんと整えた。最後は同意書に患者本人と家族のサインをしてもらう。クリニックの休診日は木曜と日曜。水曜の午後に此処を出て往診に向かう。
葵の頭の中ではスケジュールが出来上がっていた。
書類を持って翔と休養室に向かう。その途中で唐突に翔が言った。
「あのよぅ。“ムスクの香り“って何?」葵は内心凍りついた。
「何それ?」
「オメェが昔、俺に言っただろ。」
「そんなこと言った?覚えてないや。」
「なんか、あの時のオメェは異様な雰囲気でさ。いつもヘラヘラしてたのに俺をガン見してた。俺、気になって調べた。香水なんだな。実際に店でヴァニラ ムスクのテイスティングしたんだ。甘い匂いだった。」
「香水、使ってるの?」
「俺が使うわけねぇってオメェが1番知ってるだろ。あの時、何だか…オメェが別人に感じたんだ。」
「言ったのかもしれない。ごめん。でも、覚えてないんだ。」
神澤は頭がいい。気をつけなければ……僕は、僕の家族を神澤から返してもらうんだ。決めたんだ。
葵は自分の子供に会える2週間後を楽しみにしていた。
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