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25、光(ひかる)
お母さんが泣いている。
肩が振るえているので分かる。お母さんは泣き顔を僕と弟には見せない。背中を向けて肩だけが震えてる。声を押し殺して泣いている。
泣いているのはお父さんのせいだ。お母さんは、お父さんからまた「何か酷いこと」をされたんだ。
僕の1番古い記憶は、グーでお父さんの背中を叩いて「止めて!止めて!」と言ったこと。そして、お父さんが僕をトイレに閉じ込めたこと。赤ちゃんの海斗がギャーギャー泣いていたこと。
海斗が赤ちゃんだから、多分、僕が3歳ぐらいの時の記憶だ。
お母さんを守りたいのに、僕は未だ小さくて来年やっと小学生。力ではお父さんに敵わない。
お母さんが病院へ行った日、お母さんは帰ってこなかった。おじいちゃんに訊いたら、お母さんは病院で具合が悪くなって帰れなくなったんだって。。。おばあちゃん達みたいに、お母さんも死んじゃうのかなって、不安で僕も泣いちゃった。海斗も泣いちゃった。
お母さんは次の日に帰って来て、おじいちゃんが敷いたお布団で寝てしまった。
おじいちゃんが言った。「お母さんは病気なんだよ。お薬を飲んで休んだら、きっと治る。」
「どのくらいで治るの?」
「分からない。治るまでに何年もかかる人もいる病気なんだ。光と海斗のお母さんは、とても若いから死んだりしない。そこは安心しなさい。」
僕と海斗は2歳違いで、2人とも保育園に行っていない。
僕のウチが山奥なのと送り迎えをする大人がいないからだ。
だから、僕達は兄弟で遊んでいた。その日も、母家の玄関で石を並べて遊んでいた。
海斗が言う。「この前、初参りに来た赤ちゃん連れの夫婦がいたでしょ。赤ちゃんは綺麗な色。親は2人とも吐き気がする色だった。」
「吐き気がする色って、どう解釈するの?」
「実際に吐き気がした。理由は少し読めた。男の方は他の誰かを不幸にした。あの夫婦は誰かを踏みにいじって平気な輩。」
「海斗は凄いな。気の色が見えて、意味もわかる。解釈もできる。気の色は僕も読めるけど曖昧だ。」
「にいちゃん。今度、お父さんがヤバイ色になったら2人で戦う?」
「うん。戦うよ。」
「それでいいのかな。お母さんは僕達が戦って負けると泣いちゃうでしょ。それで余計に具合が悪くなるよ。お母さんの色はすごく綺麗。白く輝いていたのに、今はぼんやり。」
「僕は?」
「にいちゃんもぼんやり。お父さんは普通の時は青。空色。でも、暴れてる時は汚い。おじいちゃんは、色じゃない何かを纏ってる。にいちゃんから見たら僕は何色?」
「海斗は……鋼の色に感じる。」
光は6歳。海斗は4歳。この2人が2人だけで話す時は大人のような物言いになる。語彙力、思考力も同じく大人だった。
「君たちは、ここのおウチの子かな?」
声を掛けられて2人がそっちを見ると、光の髪の色と同じ色の髪をしたオジサンが立っていた。
「にいちゃん。怖い。怖いよ。あの人の色は怖い。」
海斗が小声で言うと、光は立ち上がった。弟を守るように前に出た。
「オジサン、誰?」
「私は君たちのお母さんのお医者さん。往診……ってわかるかな。」
「嘘だ!白いのを着ていない!」
「あれはね、病院の中だけ。アレを着て電車に乗れないよ。」
光は一理あると思ったので、玄関の戸を開けると「おじいちゃん!知らない人が来た!」と怒鳴った。
おじいちゃんが出てきて、オジサンと奥に行ってしまうと光は海斗に「何が怖いの?」と訊いた。
「赤だ!それも時々……ピカって光る。いや、違う。火が燃えている感じ。あっ!にいちゃんのぼんやりが赤くなった。にいちゃんも赤だ!初めて読めた。」
葵は、奥多摩の水川神社を訪ねるまでの2週間で、7年前の事件について詳しく調べていた。
「S玉女子高生連続殺傷事件」
それは8月4日に始まり、重傷者1名、死亡者2名が犠牲になった事件だった。
犯人は20代の男で、被疑者死亡により書類送検後、不起訴処分で終わっていた。
被疑者の死亡場所は水川神社。雷により崩れた石の大鳥居の瓦礫で横死。
その時にその場に居合わせた男女各々1名のうち、男性は石段から転落するも軽傷、女性の容体は不明。その後、軽傷と判明。
男性は21歳、女性は18歳。。。恐らく、翔と陽。
葵は再建された石の鳥居を見て、その下のをくぐり、急勾配の長い階段を登りながら“普通なら死ぬだろう。悪運の強い奴だ“と思った。
石段は途中の丁度真ん中辺りに踊り場があり、そこから左手に向かって神社までの石段が続いていた。
奥多摩の海抜は高い。その山の上と来ればスカイツリーより空に近い。
葵は神社までは行かず、その100メートル下の「田中家」へ行った。
母家と思われる平家の家と外廊下で繋がった小さな家。その母家の前で兄弟と思われる小さな男の子が2人しゃがみ込んでいた。石を並べて話していた。
葵は2人に声をかけた。
お兄ちゃんの方が立ち上がって弟を守るように警戒心丸出しの表情で「オジサン、誰?」と言った。
葵が初めて聞いた我が子の声だった。
光は写真で見るより、ずっとずっと僕に似ていた。なぜ神澤は気がつかない………?
面談が終わって、ダイニングテーブルで手書きの処方箋やカルテの下書きを書いていたら、子供達が恐々と興味津々とが混じった表情で近寄ってきた。ソワソワしているので葵は2人に声をかけた。
「何か御用ですか?」
「御用ってなぁに?」
「してほしいことがあるの?ってこと。」
「オジサン、怖い人なの?」
「う〜ん。怖くはない……かな。。。でもね、変な人かもよぉ」と言って2人の肩を両手で掴んだ。光と海斗は「きゃ〜っ!」と言って逃げる。葵は2人を追いかけながら、1人ずつ捕まえて身体を揺すって「怖いよ、怖いよ、本当は怖いよ!」と笑いながら言った。
3人で笑い合って鬼ごっこ状態だ。
葵の記憶の扉が開いた。
お父さんは、よくこうやって遊んでくれた。
60過ぎていたのに、きっと無理をしていたなぁ。楽しかった。
子供達を両脇に抱えて「捕まえた〜!」という頃には、葵は汗だくになっていた。
「先生。そのまま、子供達とお風呂にどうぞ。」と晃さんが言った。
葵は、ご厚意に甘えることにした。
お風呂は広かった。葵と子供2人で湯船に浸かっていると光が突然訊いて来た。
「オジサンの髪の毛の色、生まれつき?」
「大人は染めているんだよ。」
「そっか。僕は生まれつき。オーストラリアのガキだから………。」
「オーストラリアのガキって何?」
「お父さんがそう言うの。お父さんがお母さんをぶったり蹴ったりする時に僕が止めるとオーストラリアのガキって言う。」
…陽はD Vまで受けているのか……。
「僕は男の子でお母さんは女の子でしょ。守りたいのにお父さんに敵わない。早く大きくなりたい。」
光は大きな目から涙をこぼし出した。
葵は、小さな我が子にかける言葉がなかった。光の頭を撫でて目を閉じた。
3人がお風呂から出ると、子供達は「お母さん。」と言うと裸のまま部屋の方に行ってしまった。
脱衣所に晃さんが浴衣と新しい下着を持って来た。
「陽から真実を全部聴きました。あなたを見て納得しました。良かったら晩御飯をご一緒して泊まっていってください。」
晃の言葉は、そうしてほしいという響きを含んでいた。
「神澤が嫌な気分になるでしょう。」
「この時間に帰ってなければ、今日は帰って来ませんので、そこは気になさらずに。」
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