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────「桃ちゃん、昨日どうだった?」
次の日の出勤時、顔を見るなり山田さんがそう言ったので、私はだらしなく顔を緩める。
「その様子じゃ、うまくいったってことね」
満足げに笑う山田さんを拝まずにはいられない。
「ほんっっとうにありがとうございました! 山田さんのおかげです」
「だてに長年結婚生活してないからねえ」
本当に、最高の夜だった。
あの春紀が、大胆に私を求めてくれるなんて。
『愛してる』
意識を失ってしまったからうろ覚えだけれど、確かにそう言ったよね?
今朝の春紀は通常運転で、寝起きも悪く口数少なかった。
まるで夕べのことが嘘のように、淡々としていて。
もしかして、だいぶ酔っていたからなんの記憶もないんだろうか。
だとしたらあの貴重な春紀の姿は、永久にお蔵入り。
「……動画撮っとけばよかった」
「どんだけー!」
春紀、また言ってくれたらいいな。
愛してるって。
その一言で私は、毎日が夢のように華やぐし、何があってもどしんと構えていられる。
「桃ちゃん、あのお兄さんまた来たよ」
勤務開始から数時間後、お昼時にいつものお兄さんが来店した。
よく考えたら彼のおかげで春紀の焼きもちを誘発できたようなものだし、お兄さんにも拝み倒したくなる。
「いらっしゃいませ!」
感謝の気持ちを込めていつもに増して満面の笑みで微笑む。
「岡本さんの笑顔癒されるわぁー」
うちの旦那、貴方に嫉妬したんですよ、と心の中でニヤつく。
彼はいつものようにお弁当を注文する前に、スマホを取り出した。
「岡本さん、SNSやってる?」
「SNSですか?」
思ってもみなかった質問にキョトンとする。
「スレッドとか、インストとか。もしやってたら、フォローしたいなって」
もしかして、ライムの友達になれなかったから今度はSNSで繋がりたい?
ここまでグイグイこられると思わなかったから、少し困惑する。
「ごめんなさい、そういうのは……」
断りたいけど、貴重な常連さんを失いたくはない。
どうやってやんわりと断ろうか考えあぐねていると、彼の後ろから次のお客さんが来店した。
「……幕の内弁当ください」
「………………」
その声とスーツ姿に絶句する。
「春くん!?」
驚愕して、一呼吸おいてから叫んだ。
何故ここに春紀が!?
「たまにはもものお店の弁当食べたくて」
そんなことを言う春紀は、チラチラと常連のお兄さんを一瞥する。
「あの……なんすか?」
……まるで威嚇するように。
「岡本です。いつも妻がお世話になっております」
春紀が毅然とそう言った瞬間、お兄さんは青ざめた。
「まじすか! いや、えっと」
どぎまぎするお兄さん。
浮気していたわけでもないけど、なんとなく後ろめたい気持ちになって、私は苦笑するしかなかった。
春紀が会社からお店に出向くなんて。
移動だけで一時間弱くらいかかるはずだ。
「どうしたの!? 今朝作ったお弁当、持っていったはずじゃ」
春紀は途端に真っ赤になる。
「……二個食うから」
そこでハッと気づいて、私の顔も熱くなる。
隣の山田さんはニヤニヤと笑っていた。
……まさか春紀、お兄さんとのこと心配して来てくれたの?
わざわざ仕事の休憩中、電車に乗ってまでして。
「もも、結婚指輪は?」
「あ、仕事中は汚れると思って……」
「大丈夫だから、して」
「はい……」
やっぱり昨日から、春紀の様子が違う。
「あの……から揚げ弁当おなしゃす……」
しょんぼりしているお兄さんには申し訳ないけど、再び拝みたい気持ちで私はお弁当を作り始めた。
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