1.悪役令嬢がスパイになるまで

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 いや、まあ多分、最初から気づいていて放置していたのだろうけれども。周りをチョロチョロと鬱陶しいワガママ妹に構いたくない気持ちはわかるが、多少の交流くらい許して頂きたい。  そう思ってちら、と兄を見上げると、兄はたいそう怪訝そうな目でわたしを見ていた。  え、何その目。わたしが図書室にいるのがそんなにおかしいのか。 (……アいや。おかしいか)  一瞬ムッとしかけたが、すぐにそう思い直した。  なぜならユリアわたしは家庭教師に無理矢理連れてこられる以外で、図書室に来たことなどない。兄もきっとそのくらいは知っているはずで――ならばそんな勉強嫌いな妹がどうしてここに、と不審に思うのは当然だろう。  やべ。言い訳しとこ。 「わたくし、ヴェッケンシュタイン家のムスメとして、ちゃんとお勉強することにしたのです。だから、今日はご本を借りようかと思って、こちらにまいりましたの」  えらい? というようにニッコリ笑って小首を傾げてみせるが、兄は怪訝そうに眉を顰めたまま「……そう」とだけ言った。ウーン、塩!  まあしょうがないか、これも積み重ねだ。今はワガママ妹の気まぐれ読書だとでも思われてもいいので、これから何度か図書室を訪ねて、徐々にお勉強大好きアピールをしておこう。そうすれば兄との交流もなんとかなるかもしれないし、そもそもわたしは情報を集めなければならないので、いずれにせよ図書室通いは必須だ。  さて今日のところはとっとと手頃な本を手に入れて退散しようか、と踵を返そうとしたその時だった。兄に、「なあ」と呼び止められたのは。  振り返れば、兄はわたしのことをじっと見ていた。 「ユリア。お前、この本に書かれてること、わかるのか?」 「えっ?」いきなりなんだ。わたしは戸惑いつつも何とか声を絞り出す。「……わ、わかりませんわ。だって、おにいさまの読むご本、言葉づかいがむずかしいんですもの」 「……ふうん……」  実際はまあ一応大学生だった記憶があるので、ある程度理解できていはるのだが。  さすがに五歳の子どもが、しかもユリア・ヴェッケンシュタインが権力分立などという言葉を知っていてはおかしいだろう。  そう判断して嘘をつくと、未だ納得していなさそうな表情で、ではあるが兄はゆっくりと頷いた。 (あぶな~……)  それを見て安堵したわたしは「では失礼しますわ」とだけ残し、淑女の礼もそこそこにそそくさとその場から離れた。 「……なんでお兄様は、わたしが本の内容を理解してる、なんて思ったんだろ」  わたしは図書室の奥の方で本棚を物色しながら、フゥ、と肺に溜まった息を吐き出した。  ユリアの頭の出来が良くないことは、兄だってよく知っているはずなのに、何故いきなりあんなことを。 「お前があれを外国の書籍だと言い当てたからだ」 「ええ、どうしてそんなことで……エ?」  突如、頭上から降ってきた声に、わたしは大きく肩を揺らして硬直する。  まだ声変わりを迎えていない兄の声ではない。威厳のある、低いバリトンだ。その声音は冷ややかで、誰も寄せつけない色を孕んでいる。  ……誰だ。  すぐ背後に立たれているのに、全く気が付かなかった。  ばくん、ばくん、と暴れ始める心臓の音が耳の近くで鳴っている。 「っ……」  恐る恐る後ろを振り返ると、二つのガーネットと目が合った。ばちん、とぶつかる視線に、息が詰まる。  わたしは無理矢理呼吸を整え、後ろに数歩下がった。  生物的な本能が叫ぶ。……この人はやばい。 「あなた、は……」 「何度か会ったことがあるはずだがな。私は憲兵総局大佐のライナス・ヴェッケンシュタインだ」  ヴェッケンシュタイン。憲兵総局。ライナス。  瞬間、『ユリア』の幼い頃の記憶が蘇る。  ぽつりと、言葉が口をついて出た。 「叔父、様……?」
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