1.悪役令嬢がスパイになるまで

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「ああ」  黒髪に赤い瞳の、死神のような男は、無表情のまま首肯した。  ――わたしの父の、少し年の離れた弟。ライナス・ヴェッケンシュタイン。  冷徹無比な性格に、家族ともロクに関わらない得体の知れない人物として、召使いたちの間で噂になっているのを『聞いたことがある』。  わたしも確かに――今よりもっと幼い、言葉もつたない頃だが――彼と二言三言会話をしたことがあったはずだ。朧げだがその記憶があるので。  軍人であるということは知っていたが、憲兵総局の佐官だったのか。……というか、叔父はどうしてこんなところにいるのだろう。ごくたまにヴェッケンシュタイン家に訪れているようだが、ここに来たのは気紛れだろうか。  ……それに、何故わたしがあの本を外国の本だと知っていると、兄に怪しまれることになるのか。 「簡単な話だ」まるで、わたしの心を読んだかのようなタイミングで、叔父は淡々と言った。「あの本はオリヴィエの共通語で書かれているだろう」 「それが、どうかしたのですか……あっ!」  そうか、そういうことか。  わたしはようやく言われたことを理解し、思わず口を押さえた。 「――そうだ。権力分立の内容、及びこの国の事情を詳しく知っていなければ、あの本が外国の書籍であるとは断定し得ない」  オリヴィエ大陸では、北だろうが南だろうが、誰もが通じる言語として『オリヴィエ共通語』を話すのが基本だ。国ごとに固有の言語も存在するが、あの本は共通語で記されていた。  つまりわたしが、『権力分立の本は王政の方向性と一致しないから、シルヴィア王国ではあまり印刷されないはず』という推測を立てていなければ、そもそも『外国のご本』発言が出るはずがないのだ。 (あああああ完全にやっちゃってる! 不自然極まりなーい!)  内心盛大に頭を抱えるわたしを見下ろし、叔父は「本当にお前は五歳の少女か」と問うた。あまりに『的確』な質問に、びくりと肩が跳ねる。 「それにお前は私を視界に入れた時、間合いをはかり、かつ呼吸を整えた。……まるで剣の心得のある人間のようだな、ユリア。お前はたった五歳の少女。剣など握ったことがあろうはずもない」  叔父がゆっくりと目を細める。そのままの目で、わたしの顔を覗き込む。  まるで獲物を見定める猛禽類のような赤い目に、心臓が縮み上がった。 「――お前は一体、何者だ」 「わ、わたくしは……」  どうしよう、言葉が出てこない。  いっそのこと狂人扱いされるのを覚悟で、前世の記憶を思い出した、と全て洗いざらい話してしまおうか。……そう思うほどの圧だ。  怖い。純粋に、恐ろしい。  声を荒げてなどいないのに、冷たい吹雪に晒されているような悪寒がする。  はくはくと声を出せずに口を開け閉めしていると、不意に叔父が顔を覗き込んでくるのをやめた。「詮索して欲しくない、という顔だな」 「え……」 「お前が望むなら、私はお前の抱える何かについて、これ以上追及するつもりはない」 「っ、ほ、」  本当ですか。  反射的にそう言う前に、「ただし」と叔父が静かにわたしを遮った。 「その代わり。お前には、私の部下になってもらう」 「なんて?」  ――そう。これが。この瞬間こそが。  我が叔父にして今のわたしのボス、憲兵総局情報部防諜零課長官ライナス・ヴェッケンシュタインとの初めての出会いだった。
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