変わりゆく君へ。

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会社帰り、小学校のわきを通っていると、ふとプールのにおいがした。塩素と汗が混ざりあったような、そんなにおい。 それは私の消した記憶を、容易く呼び起こす。  あの頃、私はー……。 ミーンミンミン…… 蝉が鳴いて、皆がわいわい泳いでる中、日陰でぼんやり体育座りをする。  あまりにもそれを理由にプールを休みすぎて 「お前は一年中生理なのか?」 なんて男の教員に言われたことがあるけど、本当、泳ぎたくないんだ、体育が苦手というだけで、学校はひどく生き辛い。 いつ終わるのかわからない苦痛の日々 小学校の6年間なんて、懲役6年と同じだ。  「おーい見学のやつらちゃんと見てろよーすごいぞ田中、学年トップではやいな泳ぐの」 「いやあ、それほどでも」 「先生ーはやく自由時間〜」 「わかったわかった、はいここから自由時間 好きに泳いでいいぞー」 きゃははっという笑い声が水しぶきとともに上がる。自由時間はただ浮いてるだけでもいいので皆楽しみにしているのだ。 別に泳ぎが一位だろうが、皆が楽しかろうが、すごくどうでもいい。 私は、ちらっと横を見る。 男の子は何を言い訳にプールを休むんだろう……そう思って。 でも彼はすでに1ヶ月、いや、今年の1ヶ月だけではない、去年もその前も足がつったことを理由にプールサイドに座り込んでいる。 私と同じ、サボり魔。 これで女子だったらとっくに話しかけてたのに男子はちょっと緊張する。 だが この日ー……ついに。 先に話しかけてきてくれたのは、向こうからだった。 「お前のさ、生理ていうの嘘だろ」 「うん」 ドキッとする。いや、まあバレて当たり前なんだけど 「だよな、でないと年中ずっと出てることになるもんさすがに死ぬからそれなら病院いけって言おうと思ってた」 「……男の子なのにこういう話に突っ込んでいいの?」 「俺男女平等だからさ」 男女平等というか、デリカシーがないというか。 「ふうん、あなたの足もプールのときだけだめなの変だよねいつも爆速で帰るじゃん」 「うん、嘘だよ 体育嫌いなんだもーん」 彼はそう言って床の水を人差し指でなぞる。自分、ちゃんと喋れてるかな、男の子って怒ってなくても怒ってるような声音の子が多くて、怖いんだよね。 緊張しながら、なんでもないように話を続ける。 「なんで嫌いなの?」 「跳び箱で足ひっかけて転倒したら教師ふくめて爆笑してきたから」 「うわ、それひどい 私トラウマで不登校になりそう」 私がそう言うと、彼はケラケラと笑いそれは凹みすぎだろと言った。外見とかあまり気にしてなさそうな適当に短くしてるだけの髪、親が買った様な謎の英文が描かれた黒い服。全然モテない陰キャ枠の子だけど、笑顔がすごく可愛いと思った。 竹内悟君。うん、普段クラスメイトの名前なんて覚えないけど、覚えておこう。 私達は、体育をサボった日 雑談をするようになった 他愛の無い会話だけど、二人だけの特別な時間。 「なんかさー泳げないとやばいって聞くけどさ 実際生活で泳ぐのって何?津波に巻き込まれたときとか?そんなの泳げても泳げなくても俺死ぬと思うんだよね、諦めるよそんな状況になったら」 「あぁーわかる、自然の力には勝てないよね」 「ちなみにお前はなんで体育参加しないの?」 「私も同じような理由……笑われるのが嫌だし、とくに水着とか素肌みせるの嫌だし…… でもこんな……サボってたら成績やばいよね ほんと憂鬱……」 「まあ他の教科で良い成績とってれば進学とか問題ないんじゃねーの 推薦狙ってるわけでもないんだろ?」  「うん、一般入試だよ」 「ならサボりたい放題だ。 マラソンとか卓球とか比較的俺たち陰キャに優しいやつだけ出て 嫌なのはサボろうぜ 来年の冬さあ、創作ダンスやらされんの知ってる?」 「え、嘘!絶対嫌だ」 「嫌だよなーこう、くねくね横に揺れるのを親に見せるんだぜ耐えらんねーよな」 「ええ……今から憂鬱」 「……だからさ、その時がきて嫌だったら 2人でサボってゲーセンにでも行こうぜ」 胸がぎゅう、と締め付けられる感じがした。 うん、うん!と返事して こんなつまらない学園生活に、来年、やりたいことができた。 私、悟君が好きだ。 「舞香」 「な、なに?」 悟君が私の名を呼ぶ。 「いや、呼んだだけ」 「ええーなにそれ」 「いやあ、なんか、その 1人でサボり続けてた時ほんとはちょっと不安で だから舞香が居てよかったなあ、て」 そんなの!私もだよ!そう返そうと思って 恋を自覚したばかりで恥ずかしくてなにも返せなかった。 路上、蝉が死んでいた。 夏が終わろうとしている。私はそれを足でどけながら、ウキウキと家に帰る。 2人組をつくって、といわれたら悟君と2人組になったり家庭科でお菓子をつくったら悟君にあげたり 私達陰キャの恋愛にあまり興味はないのか、それより大きなニュースが日々多いため、意外と誰もこちらの関係をいじってこなくて、私達の恋の障害は、なにもなかった。 毎日が楽しくて 幸せだった。 だから、その恋が終わったのは誰のせいでもなく ただただ、それが向こうにとっては恋ではなかったから。ただ、それだけの話だ。 その夏、水泳の指導に、卒業生で選手になった とても綺麗なお姉さんが、やってきた。 茶髪をくるりとまとめて水泳帽に入れていて 背筋がとてもいい。 親に叱られサボり損ねた悟君は、その人にけのびのコツを指導されていた。 私は可哀想ーと思いながら、体育座りをし続ける。 周りから、クスクスという声が上がった。 すると、ビシッとそれを注意したのは、お姉さんだった。 「あの、今笑った人誰ですか?あなたたち笑うほど泳ぐのうまくないでしょ 悟くんだけじゃなくて 全員に一対一で指導していく予定なので そのつもりで練習しててください」 長いまつげを揺らし、大きく、しかし力のある目が生徒たちを睨む。 皆ピタッとばかにするのをやめ、各自練習しはじめた。 その時から、体育時間の空気、が変わった 下手な人を笑って避けるんじゃなくて どうやったら皆でうまくなるのか そんな、協力しようという意志が皆に伝達していった。 その意志がないのは、いつまでも見学している 私だけだった。 「…………」 「そこクロールの時息継ぎで顔あげすぎだよー 気持ちはわかるけど、こう、こう水面ギリギリに。わかった?」 嫌な感じのしない、ハキハキとした喋り方 誰にも対等で実力があるので、そのお姉さんはすぐに人気が出た。 その日から、悟君は体育をサボらなくなった。 「「あっ」」 下駄箱、帰ろうとしたその時 無視できないほど目が合う。最近話せていなかった私達。 来週からはもう、創作ダンスがはじまる。 「……い、一緒に帰る?」 「…おう」 とはいったものの、帰りは会話がぷつぷつと途切れて、わくわくする様な時間ではなくー まるでそれが、そうしていることが義務のような 気がした。その義務感が、私の方なのか、悟君の方なのか……または両方そうなのか。 「創作ダンス、参加する、の?」 「ああ、まあ……踊り上手い田中いんじゃん? 最近、あいつに教えてもらったら どう体うごかせばいいのかわかってきてさ リズムに乗るのも楽しいというか、案外俺も才能あんのかなて思えてきて」 「…………」 いつのまにか彼の服装もまともになっている 高そうな服ではないが、無地の白いシャツに黒いジーンズは、清潔感があって、人気が出そうだった。 「……今日、このまま……帰る?それともゲーセン寄る?」 2人でゲーセンに寄る約束を、覚えてくれていたようだ。悟君はやさしいし、いい子だ でもその約束はー…… 『その時がきて嫌だったら 2人でサボってゲーセンにでも行こうぜ』 もう、あなたは、体育が嫌ではないはずだから 「いや、やめとくよ。じゃあね、悟君」 ……これは、失恋、なのだろうか。 好きだったなら、べつに悟君が体育に出ようが出まいが話しかけ続ければよかったし、ゲーセンに行けばよかったのに。 その誘いを蹴って帰り見上げた夜空。 私は、悟君が好きだったんじゃない 私と同じ、ダメな悟君が好きだったんだ と結論づけた。 これを恋というには、恋とやらに失礼かな。 私は……ずっと底辺で、2人で話していたかった でも本当は、あなたはそんな妥協した関係じゃなくて、体育だってうまくなりたかったし、皆とうまくいくものなら、うまくいきたかった 目指す先は、もっと上だった 私にとっての居心地いい場所は、あなたにとっては、諦めた場所、変えたい現状、だった。 それがわかってー……それで終わった。 「……!!」 目を覚ます。7:45 出勤の準備をする時間だ。顔を洗い、髪の毛を整えてスーツを着る。 会社帰りにあのにおいにつられ、懐かしい夢を見てしまった。 35歳になっても相変わらず見続ける。いつまで学生気分なのだろうか 多分、ここまできたら一生なのかもしれない。 「…………」 今は独身、アパート暮らしだ。 自由きままな日々、体育の授業のように私にああしろこうしろと指図するような嫌なイベントは、もうないし、それなりに稼げて、趣味もある、幸せだ。 けれど、時々思い出すのだ。夏になったら、蝉が鳴いたら、プールのわきを通ったら どうせそんな強い恋愛感情じゃなかったくせに 何度も記憶から消したくせに あの炎天下。 プールのツンと鼻をつく匂いを、水を指でいじるだけのいつまでも足がつったと騒ぐプールサイドの彼を、二人だけの時間を その笑顔を。 (どうして変わろうとするの) (なぜ前に進もうとするの) (なぜ私の隣に居てくれないの) 押し殺した自分の声は今も耳に響く。 けれど、彼の成長にとって離れたのはきっと、良いことなのだ。 ただ、私の恋だけはあの日のプールサイドに 取り残されたまま ずっと、動き出せずにいる。 end
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