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「望月くん」
私の声に彼が振り返った。
「ああ、姉さん」
彼は立ち止まって言った。
「姉さんはちょっと…」
私は苗字のせいでそんなふうに呼ばれることはよくあるのだが、なんとなく彼にそう呼ばれるのは嫌な気がした。
「ごめん、嫌がらせるつもりはなかったんだ」
彼が意外と素直に謝ったので、少し驚いた。
「別に、謝らなくてもいいんだけど…。あ、今、暇だったら、ちょっと校内を案内しようと思って」
私は窓から外を見ながら言った。
窓の外では生徒たちが思い思いに昼休みを過ごしていた。
「じゃあ、お願いします、学級長さん」
彼はそう言って歩き出した。
「その呼び方もやめて。普通に、苗字で」
私は彼の横に並んで歩き始めた。
私は彼に学食と売店、体育館、音楽室などを案内した。
最後にグラウンドへ出た。
グラウンドではサッカー部が昼練をしていた。
「望月くん、部活は?何かやらないの?前の学校では何部に入ってたの?」
鍛えていたのではないかと思われる彼の体を見て、私はそう聞いてみた。
「部活には入らない」
彼はグラウンドに背を向けて歩き出した。
「そうなの?何か運動をやっていたのかと思った。そんなに背が高くて手足も長くて、運動が得意そうなのに。何かやってみたら?」
私は彼に追いついて言った。
「運動は好きじゃない。部活をやるつもりはない」
ちょっと不機嫌そうな彼を見て、余計なことを言ってしまったみたいだと気がついた。
「あ、でも、私も入ってないし、帰宅部の人も結構いるから」
私は慌てて取り繕った。
「佐知」
その時、後ろから声をかけられた。正臣だった。
「何してるの?昼休みに外にいるのは珍しいね」
正臣は私の隣の望月のことをチラリと見た。
「今日、うちのクラスに転校してきた望月くん。校内を案内してたの。こちらは生徒会長の山上正臣先輩」
私は望月にそう紹介した。
彼はうつむいたまま、少し頭を下げた。
「ああ、そうなの。よろしくね。佐知、学級長だもんね。あ、佐知、今日はうち来る?来るなら、母さんに今日遅くなるって言っといて。部の仲間との集まりがあるから」
それだけ言うと、じゃ、と軽く手を上げて、爽やかな笑顔を残して行ってしまった。
「彼氏?」
正臣の後ろ姿を見ながら、望月が言った。
「ううん。隣の家のお兄さん。私、母が小さい頃に亡くなったから、よく隣の家に預けられたりしてお世話になってて…」
私は慌てて言った。また誤解する人が増えてしまっては困る。
「ふうん」
彼はそれだけ言うと、歩き出した。
「本当なのよ。今でもよく行くけど、それは先輩の家にはグランドピアノがあるからで、うちには電子ピアノしかないから…、部活に入ってないのもピアノのレッスンがあったり、ない日でもピアノの練習をしたいからで…」
私は言い訳のように、言った。
正臣の家に、高校生になった今でもいりびたってしまうのは、ピアノを弾くためだった。そもそも、ピアノに初めて出会ったのは、正臣の家だった。正臣の母の趣味がピアノを弾くことでだったので、家を建てた時に防音室を作り、グランドピアノを置いて、いつでも近所に気兼ねなく弾けるようにしたということだった。そして、正臣の母はよく家に来ていた私に、ピアノの弾き方を教えてくれたのだった。
ピアノを弾きに行くたびに正臣の母は、「正臣のお嫁さんになれば、毎日弾けるわよ。いつか、そうなるといいわね」と私に言っていた。
そんな正臣の母に対して、私はいつも、少し申し訳ない気持ちがしていた。正臣は私とって、兄のような存在で、その兄のお嫁さんになることなどないと思っていたから。
「ピアノ、好きなんだ」
彼がぼそっと言った。
「うん。音大に行きたいなって思ってて…」
会ったばかりの彼なのに、なぜかこんなことまで言ってしまっている自分に少し驚いた。
「そっか。行けるといいな」
彼はそう言うと、背を向けて歩き出した。
意外と優しい人なのかな、と私は思った。
昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴ったので、私達は教室へ戻った。
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