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それから
「ただいま」
彼がリビングのドアを開けて入って来た。
「おかえり」
「パパ、おかえり」
3歳の息子が走り寄っていく。
「ただいま、聡馬」
彼がうれしそうに抱き上げる。
「ごはん、今、あたためるね」
私は2人目のいる少し大きくなり始めたお腹を気にしながら立ち上がる。
「ああ、いいよ。自分でできるから。座ってろよ」
彼が私をダイニングの椅子に座らせた。
あの婚約式の後、私は第1志望の音大に進学した。
父は、私の大学入学前になくなった。それでも、私の音大合格を知らせることができたのが、少しでも親孝行になったのではないかと思っている。
正臣は、あのあと、一浪で国立大学の医学部に入学した。浪人することになったのは、私のせいではないかと今でも申し訳なく思っている。
私は音大卒業後、ピアニストとして活動、医師になった雄馬と結婚後も続けていたが、出産を機に休養に入った。2人目が大きくなって手が離れたら、復帰する予定だ。
夫の雄馬は、東京の医大に進学し、スポーツ医学を学んだ。医師になった後、しばらく東京で働いていたが、副院長になった正臣から山の上病院にスポーツ整形外科を作りたいのでぜひ来て欲しいという誘いを受けて、家族でこちらへ引っ越して来た。
今は、昔、私が住んでいた家をリフォームして住んでいる。隣にはもちろん、正臣一家が住んでいる。
「明日の準備はいいのか?ピアノを人前で弾くのは、久しぶりだろう」
彼が台所から出て来て言った。
明日は百合香の結婚式で、ピアノを弾くことになっていた。
百合香はあのあと、私と彼のことをモデルに漫画を描いた。といっても、私が普通の女子高生なのに、正臣がアラブの石油王の息子だったり、雄馬がどこかよくわからないの国の王子様だったり、サッカーボールが飛んでくる代わりに銃弾が飛んできたり、港まつりがリオのカーニバルだったり、スキー旅行の出来事が、ヒマラヤ遭難だったり、とにかくトンデモ展開が続く少女漫画だったのだが、それが何故だか大人気となり、百合香は一躍人気漫画家となった。
その漫画の連載当時、あまりの忙しさのため、睡眠不足、暴飲暴食の不摂生を続けた挙句、激しい胃痛に襲われた百合香は病院に運ばれ、胃カメラを飲まされた。そして、初めての胃カメラに激しくえづき、涙でぐしゃぐしゃになった百合香の顔を、「よくかんばりましたね」とティッシュで優しく拭いてくれた正臣に恋をしてしまい、猛アタックの末、結婚までこぎつけたのだった。
「昼間に隣で練習させてもらったから、大丈夫」
私はお茶を淹れながら言った。
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