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紅雨を降らせない
「藍下さん〜」
昨日は後味の悪い別れ方をしてしまったため、白姫の部屋に行こうとしていた時だった。
にっこり微笑んで廊下に現れたのは———課長だ。
「課長。お疲れ様です」
課長の顔は、とりわけ特徴がない。
細く整えられた眉に、薄い唇。
一重の瞳はスッと真横に伸びていて、いつも力の入っていないほとんど開いていない瞳。
「お疲れ。例の少女は?」
いきなり本題に入ると言うことは、もう準備が整っているのだろうか。
意図を探しながらも、不信感を持たれるわけにはいかない。
「こちらです」
建物の中を歩く私たちは、とても目立つ。
それも真っ黒なスーツの部外者なわけで、カラフルな服を着た職員たちは遠巻きに私たちを訝しげに見ている。
その重々しい圧に、私は勝手に拳を握り込んでいる。
「藍下さん、どうかした?なんか緊張している?」
声を投げられて、背を向けながら意識的に真顔を浮かべる。
「いえ、特に何も。お気遣いありがとうございます」
平坦に返しながら普通を振る舞う。
廊下を移動する距離が、なんだかやたらと遠い。
「ここです」
私は白姫の部屋の前に立つ。
真っ白な、美しい扉。
「ここか。ご案内ありがとう」
課長は私に微笑み、躊躇いもなく扉をノックをする。
その様子を、私は一歩離れて見物する。
だけれど、扉は開かない。
「おかしいな。不在?」
課長が私に視線を向けた。
「いつもはこの時間に部屋にいます」
私は自分でもノックしてみる。
だけれど中からは音がしない。
「入ってみるか」
課長がドアノブに手を伸ばした。
その途端、急に課長から殺気がほとばしった。
ドアノブを持つ手に力を入れ……、
「課長」
私は気付けば上から手を押さえていた。
「そういえば先日、少女は中庭で遊んでいました。今日もそちらにいるかもしれません」
急に動いた私を、課長はじっと見つめてくる。
開いているのかいないのか、こちらが分かりずらい目。
真正面から跳ね返すように見つめ返す。
「そう。じゃあ、中庭に行こうか」
課長は押さえつける私の手を跳ね除けて、廊下を歩き出す。
「はい。案内します」
背を伸ばして、課長の隣に並ぶ。
堂々を装って歩き続ける。
賑やかな視界を見ながら、誰よりも早く真っ白な姿を見つけ出そうと焦っているのが自分でも分かる。
……どうせ殺されるのならば、私がやる。
そう決めたのだ。
そのためには白姫を捕らえなければならないのに。
しかし中庭に行っても、白姫の姿はなかった。
「なぜいない?藍下さん、ちゃんと見ていた?」
いくら探しても白姫は見つからない。
だんだん私も焦ってきた。
「申し訳ありません。今朝は彼女の様子を一度も見ていませんでした」
朝、様子を見ておくべきだった。
でもまさか、今日のタイミングで彼女がいなくなるなんて。
「最後に彼女を見たのは?」
「昨日の夕刻です」
昨日の夕方、白姫に顔向けできなかったあれっきり、彼女の姿は見ていない。
そういえば中庭から突然私がいなくなったから、彼女が部屋に戻るところも見届けていない。
その後、私が中庭に戻ったら白姫はいなかったからてっきり部屋に戻ったつもりでいた。
早く探さないと。彼女は行方不明だ。
色で溢れかえる花畑の中で、白姫の色はよく目立つ。
だから外にいたらすぐ分かるはずなのだが、見つかない。
昨日一緒にいた花畑、白姫が案内してくれた建物の中、どこを探しても彼女はいない。
まさか、外へ出た?
中庭の外を探してみようかと、私は中庭へ出る。
そしたら庭の端で話をしている秘書と課長の姿が見えた。
「あそこの白い小屋はなんですか?」
「あれは……。社長から、触れるなとお達しが出ていまして。探さなくて結構です」
秘書はそう言って、支社の中を探しに去っていく。
課長は白い小屋をしばらく怪しく見つめていたけど、他の場所を探しに去る。
あの場所って、白姫が昨日教えてくれた彼女の秘密基地だ。
カラフルな色の中で目立たない訳がないけど、きっと白いという理由で山ノ井氏はあの小屋を毛嫌いしているんだろう。
だから、秘書たちもあの小屋には触れない。
…………もしかして。
私は、周りを気にしながら静かに小屋へと近付く。
周りに私を気にする気配が何もないことを確認して、白い扉を開けた。
「……っ!」
子供一人分しか入らないような狭さの中、そこに体を折り曲げて目を大きく見開いた白姫がいた。
透明な瞳に、周りの景色を映した色。
叫び出しそうだった彼女は、私を見て震える口でつぶやく。
「あいちゃん」
「白姫」
やっぱりここにいた……。
誰よりも先に白姫を見つけられて、内心ホッとしているのが分かった。
「無事?どうしてここに隠れていたの」
殺人計画のことがバレた?
だとしたらまずい。誘導するのに説得が必要……。
「あいちゃん、良かった。もう大丈夫だね」
白姫はホッとした顔で笑う。
そうだ。白姫は私に気を許している。
彼女を誘導するのは、きっと造作もない。
「藍下さん?そこに少女がいるの?」
後ろに、立ち去ったはずの課長の声がした。
私は無意識に体を固まらせる。
「あいちゃ」
何も知らない白姫が、不思議そうな顔で呟くから私は咄嗟に彼女の口を手で覆っていた。
「……ちょっと待ってて」
私は彼女にしか聞こえない声でそう言い放ち、ドアを閉める。
立ち上がり、課長と向き合う。
「いえ、いませんでした」
咄嗟に口を出た嘘。
私の体は強く硬直している。
「そう。全く、どこにいるんだろうね」
課長は疑いもせず、別場所へと移動していく。
あっさり身を引いた課長に、肩透かしを食らった気分だ。
その後ろ姿が花畑の影に見えなくなったのを見届けて……。
私は、もう一度ドアを開けた。
「白姫。ごめんね」
「え?」
彼女が一瞬目を丸くしたその瞬間———私は短い一撃で、彼女の首に手刀を入れる。
カクッと首を落とした白姫。私が気絶させた。
……ごめん。
心の中で、もう一度謝る。そしてぐったり脱力している彼女を抱き上げた。
中庭には人は見えない。皆、支社の中を探している。
もう一度辺りを見回して、私は歩き始めた。
カラフルな花々。明るく平和な空の色に、涼やかな風。
ぐったりとした白姫を抱き抱えながら、小走りで進む。
一体私は今、どこに向かっている?
というか今すぐ課長に報告しなきゃいけないのに何をしているんだ。
自分の行動と暗示をかける声がめちゃくちゃで、自分でも何がしたいのか分からない。
とにかく今は走り通すことしかできない。走って走って、だんだん思考がぐらついていく。
ぐちゃぐちゃと吹き荒れるような頭の中は一向におさまってくれない。
胸の中も吐きそうなほどに重い。もたれている。
「藍下さん」
そんな私の頭を真っ白にさせたのは、真後ろから課長が私を呼ぶ声だった。
「藍下さん。今抱き抱えているのは、例の少女だよね?」
私は、抱き抱えるぐったりした白姫を見下ろす。
そしてだんだん焦燥感に駆られていく胸で浅く息をする。
……気付かれた。
私は課長の方を向く。
「やっぱり。噂に聞いていた白い姫さまって、彼女のことでしょ?よく見つけたねぇ」
華やかな色が視界に映える真ん中に、真っ黒なスーツの課長が距離を詰めてくる。
私は、動くことができない。
「じゃあ、仕事をしようか。今は気絶させてるね?そのまま殺せば、抵抗されずに終えられる」
課長が白姫を手渡すよう促してくる。
「私が、彼女をやります」
気付けば口をついて声が出ていた。
課長はじっと私を見る。
「いや、俺がするよ。だから彼女をこちらへ」
譲らない課長に、私は眉がぴくっと痙攣する。
私は……どうしても彼女を手渡せない。
「藍下さん?どうしたの?仕事だよ仕事」
小さい子をあやすようなテンションで近付いてくる課長。
私は一歩足を後ろに下げる。
「手刀で気絶させるところまでは完璧だね。それで、この後どうするの?」
課長のたたみかける言葉に、咄嗟に返答できない。
もちろん彼女を殺します。
———と、なぜか言えない。
「彼女を……殺しま、」
「殺せないね。今の藍下さんには」
課長が声を被せてきた。
声が止まる。
「明らかに普通の状態じゃないよね?今。何か感情がはたらいてる」
図星を突かれて、呼吸も止まった。
そうじゃないなんて、本心から言えない。
白姫を抱き抱えた腕にグッと力が入る。
「……藍下さんさぁ、彼女を助けようとしてるでしょ?」
言葉の破壊力で、胸を突かれた。
心当たりのない感情だったら、きっと流せた。
だけど今、私は深いダメージを喰らっている。
流せないのは、焦っているのは……全部全部図星だから、だ。
「仕事をする気があるなら、今すぐ彼女を俺によこしなさい。そうじゃないなら……」
目の前まで来た課長。
いつも線のように細い目が、少しだけ見開かれた。
「———君も殺さなきゃいけなくなる」
どこを見ているのかわからない課長の瞳。
凍えるような声の重みに胸が冷えた。
一緒に仕事をしているから分かる。
この人は本気だ。私が仕事から逃げたら、きっと本気で私ごと殺しにくる。
「どっちにする?」
笑みの形に瞳が歪む。
私は未だ、声を発せずにいた。
……仕事のために命をかけるなんて、できない。死にたくないし、怖い。
それに私が殺すのと課長が殺すのは同じ。
覚悟は決まっているはずなんだから、今すぐ課長に手渡せばいい。
でも……体は一ミリも前に動かない。
それができないのは、どうしても白姫を離せないのは、
———彼女を守りたいからだ。
たどり着いた自分の結論に、胸にあったわだかまりが溶けたような気がした。
訳のわからない感情が渦巻いていた胸の中が気味の悪いほどに晴れ、笑みすら溢れる。
仕事にさからったら…………私は、消される。
だから、消される前に。
「———藍下さん!」
真後ろに響く怒声を振り切り、私は一目散に走って逃げた。
白姫を抱いたまま、足がもつれる勢いで走る。
もう逃げるしかない!
鮮やかな花々を裂くように走る。
私に踏まれて首を折られた花たちが、道のように地面に伏せていく。
「逃げても無駄だよ!こっちは武器だってあるんだから!」
そう叫ぶ課長の声の直後にチャキッと不穏な音。
きっと、銃を出した。
私は一瞬後ろを振り返る。
真顔のまま、銃口を私の足元に向けている課長。
「……くっ」
私は片足を踏み切って真横に飛び退く。
そのタイミングで響く銃声!
球はまっすぐ放たれて、遠くの地面に着弾する。
カラフルなおとぎのような色した地面にめり込む現実。
ドクドクと今までにないぐらい心臓が太鼓を打つ。
まずい。銃を使ってきた。
こんなのやられるのは時間の問題だ!
走りながら、ぐったりする白姫を見下ろす。
どうしたらこの子を救える?小さな命を繋ぎ止められる?
焦れば焦るほど、白姫を抱く力が強まるだけで逃げることで精一杯。
とにかく今は走り通すしかない。
走りながら逃げられそうな場所を目視で探す。
だけどこの中庭には、絶望的に隠れられる場所がない。
見渡しのいい草原みたいになっていて、足首ほどにしか生えてない草じゃ身を隠せない。
中庭を出るには十数メートル先だ。
そんなところまで逃げようとしたって、その前に課長にやられる。
ギリッと強く奥歯を噛む。
でも、白姫も私も一緒に生き延びたい……!
「まだ逃げる?」
乾いた音が響き、銃が放たれる。
地面を狙っていたはずの球は、私のパンプスを履く踵にかすめた。
「…………っ」
崩れ落ちそうになったところを、必死に耐える。
ヒリヒリと、鈍く焼けるような痛みが走る。
血も出てるはず。だけど、足は止められない。
地面を見ると、足から垂れた真っ赤な血がポツポツと不吉な柄を作っている。
現実を突きつけるような、綺麗じゃない黒みを帯びた赤い色。
まだ逃げれる体力は残っているのに、自分の血の色を見たら完全に足が止まってしまった。
軽くかすめただけだからもう垂れる血も止まっているのに、ドクドクと心臓の鼓動と一緒に鈍く痛む。
「俺たちは殺し屋なんかじゃないんだから、余計な殺し合いはしたくないの。もう降参でしょう?藍下さん」
私が身動き取れないのをいいことに、課長はズカズカ距離を詰めてくる。
サッと周りの音が聞こえなくなった。
聞こえるのは、自分の荒い息の音だけ。
上半身全体で呼吸をする揺れに、気絶していたはずの白姫がわずかに動いた。
「…………あい、ちゃん」
か細く小さな、私を呼ぶ声。
サッと肝が冷える。
しまった、目を覚ましてしまった。
白姫は薄く目を開けて、辺りをキョロキョロ見回している。
事情を話して一緒に逃げるべきか、もう一度手刀で眠らすべきか、判断に迷う。
そんな迷いの中、私の顔を見ていた白姫が突然動き出した。
抱き抱える腕から脱出しようと体を起き上がらせる。
何事かと私は身構える。
課長も白姫の動きを警戒して観察している。
白姫は私の片腕に座るような体勢になって私の方に手を伸ばしてきた。
「な、なに……」
狼狽えた私の頭の上に……白姫がポンと自分の手を置いた。
「え?」
何をしているのか一瞬わからなかった。
だが白姫は小さな手で私の頭を撫でているようだった。
「あいちゃん、痛そうな顔してる。大丈夫だよ」
小さな手は何度も何度も私の頭を撫でる。
その動作に、触れるあたたかな手に、ぶわっと何か熱い感情が湧き上がってきた。
こんな感情を浮かべてる余裕なんてないはずなのに。
「白姫っ。今は……今はあなたの方が、危険なんだよ」
言いながら、声が涙ぐんできた。
完全に予想外の行動をとられ、心に油断ができてしまった。
今、あなたは殺されそうなのに。
人の心配なんかしてる暇ないのに。
それなのに私なんかの心配をしてくれる白姫に涙が止まらない。
「あいちゃん泣かないで」
「誰のせいだと思ってるの」
私は涙目で思わず笑う。
白姫は不思議そうな顔で首を傾げた。
「随分と余裕みたいだね」
様子見をやめたのか、躊躇なく白姫に向かって手を伸ばす。
距離が近付き、彼が左手に持つ銃に手を伸ばせば届く距離。
———考えるより先に動いていた。
私は課長の左手に向かって、思いっきり足を振り上げる!
足は彼の手首に命中し、その反動で銃が宙に舞う。
意識が白姫に向いていた課長は、油断していたのか咄嗟に手首を押さえ目を見開いた。
銃は大きく弧を描き私たちの真後ろに落ちる。
グッと眉をしかめる課長。
「……藍下さん。仕事を裏切ったら、どうなるか分かってるよね?」
聞いたことのないような低い声をあげる課長。
私は課長から目を逸らさずに浅く息をする。涙はもう、乾いた。
「分かってます。きっと、課長は私ごと銃で撃ち抜きますよね」
課長は容赦しない。一瞬でも油断すれば本当に殺される。
「でも、それが白姫を守らない理由になんてならないです。彼女を守り通して、私も一緒に生き抜きたい。私は、この仕事に賛成する気はありません」
言葉にして、それが強く私を奮い立たせる。
だけど……やっぱりこれが私の本音だ。
白姫を見殺しにしたら、私は絶対に後悔してもしきれない。
だから私は、自分の命が危なくても彼女を守り切ると決めた。
もう信念は揺らがない!
「……はぁ。藍下さん、戦うのか。本社の人間なら、こちらに予備があることも分かっているはずなのに」
課長はため息をつき、もう一丁銃を抜き出す。
やはり予備を持っていた。
だけど私も応戦できる武器を手に入れられたのは大きい。
白姫を下ろして後ろに隠し、後ろに落ちた拳銃を拾う。
この仕事は時に黒の仕事も任せられて危ないから、武術や銃撃の基礎は心得ている。
だけど課長相手に銃撃戦なんて、死ににいくのと同じ———。
思考で一瞬目の前が見えなくなったその瞬間、課長の撃った一発が私の胸めがけて飛んてくる。
「……っ!」
間一髪、姿勢を低くして避ける。
私の頭上と後ろの白姫の頭上の上をヒュッと飛んでいく銃弾。
呼吸が浅くなる。心臓が激しく太鼓を打つ。
わざと致命傷の位置を狙ってきたなんて、もう課長は本気だ!
私も素早く銃を構える。
だけど後ろの白姫を守りながらの対戦はキツい。
自分が避けても白姫が避けきれなかったら彼女が危ない。
私の目的は自分が助かることじゃない。白姫と一緒に生き延びることだ。
私は銃口を、課長の手首あたりに向ける。
狙って撃つけど課長はそれを軽く避けてしまう。
短く舌を打つ。
やはり銃撃戦は勝てない。このまま永遠に銃を向け合っていても、事態はなにも解決しない。
だったら勝負に出るしかない。
「白姫。今から、絶対に私の後ろから離れないで。それで私が合図したら、さっきの小屋まで走って中に隠れられる?」
真後ろの白姫に話しかける。
「うん。できるよ」
白姫はすぐに返してくれる。
よく考えずにできると返してくるところが、本当に彼女らしい。
私は大きく頷いた。
ここから白い小屋までは、課長の真横を通らなければいけない。
だから小屋を背に向ける位置まで移動して、私を盾に白姫に走ってもらう。
うまくいくか分からないけど……いや、うまくいかせないと!
覚悟を決めて、息を吐く。
「いくよ」
「うん」
低く合図して、私は銃を構えながら少しずつ足を動かした。
真後ろで、白姫もちゃんとついてきてくれてる。
「移動したって変わらないよ。先に、彼女を狙えばいい」
課長は弾を放つ。
軌道は、私の脇腹あたり。真後ろの白姫を狙うつもりだ!
咄嗟に反応した私は、左に避けてそのまま小屋に背を向ける位置まで走る。
白姫も素早い動きに反応してる!
その大移動で、白小屋を背に向ける位置まで移動できた!
「今!走って!」
合図すると同時に、地面を蹴る音。
白姫が、小屋に向かって走ってる!
彼女が歩いたところが、七色のピアノのように色が変化していく。
課長が、思わぬ行動をとる白姫に目を見開いた。
慌てて彼女を狙おうとするけど、させない!
私は完全に白姫の前に立って、課長から白姫を守る位置につく。
これで、あとは白姫が小屋に入ってくれたら……!
「全てうまくなんていかせない」
普段ほとんど表情を浮かべない課長が、ニヤリと笑った。
その視線が、何やら支社の建物の方に向いている。
初めて見る不吉なほどの笑みに、私はすごく嫌な予感がした。
課長のことも警戒しつつ、建物に目をやる。
一目散に小屋に走っていく白姫。
そんな彼女の真横に、唐突に気配が。
「……山ノ井氏っ」
私は心の中で舌打ちを打つ。
マーブルなスーツがよく目立つ、山ノ井氏。
この騒ぎを聞きつけて、中庭に出てきたんだ!
彼は走りながら白姫に向かって手を伸ばそうとする。
「「白姫!」」
私の警告の声と、捕まえようとする山ノ井氏の声が被った。
白姫は声に気付いてこちらを振り返る。
そこで、自分を捕まえようとする山ノ井氏の姿も目に入ったみたい。
急に怯えたような表情になって慌てて私の方へ駆けてこようと進路を変える。
でも、走れば小屋の方が近い!
「白姫行って!小屋に走って!早く!」
私の叫び声に、白姫は一瞬だけ動きを止める。
だけどすぐに小屋に向かって走り出した。
「藍下くん!?」
山ノ井氏の、裏切ったのかという悲鳴の声。
私はそれを無視して、自分も小屋を守ろうと走る。
「藍下さん!俺のこと、忘れてないかなぁ」
背後で、不気味な声で課長が叫んだ。
チャキッと銃の音。
山ノ井氏は走って追い越した。今は私の方が小屋に近い!
バンッと銃声が響く。
私の頭を狙う銃の軌道。
小屋に到着してドアを開けようとしてた白姫が、音に気が付いた。
「あいちゃん!!」
必死に叫ぶ声。
でも、大丈夫。———ちゃんと分かってる!
即座に振り返り、危ないところで頭を下に下げる。
「ドア閉めて!」
私が叫ぶと、白姫は覚悟の顔で私を一瞬見た。
その直後、バタンッとドアを閉める。
それを見届けて、私は小屋の前に立ちふさがった。
ハァハァと上がった息を整える。
これで、一旦は彼女の心配をする必要はない。
ただ私がこの小屋を守ればいいだけ……!
荒く息をしながら、課長たちを見やる。
「藍下くん!」
怒気を膨らませる山ノ井氏。
課長はあからさまに不機嫌そうに髪をかき混ぜる。
「ラチが開かないな。藍下さん、そんなに仕事できない人だったっけ」
課長が一歩ずつこちらに近付いてくる。
私は銃を構えながら、小屋を背後に下がれない。
「藍下くん、きみは本社の人間だろう!仕事はどうした!白姫を早く殺さないか!」
私を怒鳴りつける山ノ井氏。
彼は武器を持っていない。こちらに近付いてこないけど、あの体ではがいじめにでもされたらおしまいだ。
私は無闇に銃を撃ちたくはないから、ギッと彼らを睨みつける。
「二人とも、いい加減目を覚ましてください!六歳の少女を殺して欲しいなんて依頼、おかしいに決まってる!」
少しでも時間を稼ごうと、私はとにかく説得する。
でもこんなので説得できたら最初から苦労してない。
「でもこれが仕事。今回の黒の仕事。あなただって、今までこなしてきたでしょう?密輸の補助に強盗のバックアップ、最近は違法な文書の改ざんまで」
課長の言葉がズサズサと胸に刺さる。
……そうだ。今までそれだけのことをしてきた。
全部、警察に見つかったら一発で逮捕されるようなものばかり。
でも仕事だから。仕事だから、しょうがないって引き受けてきた。
「今回も同じ。内容が殺人なだけ」
課長の言葉は私の胸に鋭く突き刺さる。
だけれど言葉に流されてたまるかと、私は一瞬も気を抜けない。
「……でもおかしい。なんで六歳の少女が殺されなきゃいけないの。一体彼女が何をしたの」
腹から低く声を絞り出して、山ノ井氏を見やる。
すると彼は、フンと鼻を鳴らした。
「見ての通り、彼女は白い。この世界で白い人間は、災いをもたらす。駆除して当然だ」
思っていた通りの返答が返ってきて、私は心底呆れる。
「だからって……バカなの!?白いのが何よ!白姫はあんなに綺麗じゃない!」
この山ノ井氏の悪口、きっと白姫にも聞こえてる。
だから余計に辛い。彼女を可哀想に思って心が痛む。
だけど悲しんでる暇はなかった。
「いい加減にして欲しいのは藍下さんの方。もう散々猶予はあげた。時間切れです」
課長が目の前に来て、私の眉間に銃口を向けた。
私も、両手で銃を構える。
山ノ井氏は近距離で銃を向け合う私たちに驚いて、さっきの威勢はどこへやら被害に遭わないように走って逃げていった。
私たちの間は一メートル。
その距離で互いに銃口を向け合う。
こんな距離じゃ、避けられない。
撃つ軌道では課長の持つ銃を取り落とすことも可能だけど……。
そんな高難度なことできるわけない。
生き延びたいなら、白姫と一緒に生き抜きたいなら———やられるより先に、やるしかない。
課長と睨み合う。賑やかだった視界が、一瞬で狭くなる。
見えるのは、真っ黒な色の課長だけ。
狙うは一発で動きを止められる、頭。
ホルバーに手を添える。
もう後戻りはできない。狙いを定めた。
しかし…………その時。
「———やめなさい」
静かに響いた男の人の声。
私と課長は、一気に背筋が伸び上がった。
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