大学3年の夏休み

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

大学3年の夏休み

 教員採用試験を受けると決めて三か月。 大学は夏休みになっていた。大学生になって一番驚いたことは夏休みの長さ。8月の初めから9月の中旬までが休みだ。しかし、意外に全て休みというわけではなく、夏季の集中講義を取ったり、ゼミの先生と面談して卒論の内容を決めたりしている。今絶賛面談中だ。 「それで、卒論でやりたいことは決めた?」 ゼミの先生は国語が専門だ。私自身、本を読むことが好きなので入りたかったゼミだった。 「いや……まだです……」  調べたいことと言われても何があるのか分からない。 「佐々木さんは、教員採用試験を受けるんだよね?だったら来年の夏の試験が終わるまでは何もできないと思っておいて」 頷いて返事をした。言われていることはよくわかる。先生の部屋は小さいが、壁一面本棚だ。びっしりと敷き詰められている本をぼんやり見ていると 「勉強会には行ってるの?」 と聞かれてしまった。 「あ、いえ……」 素直に答える。 「だろうね。ゼミの子からも佐々木さんが来てないって聞いてたけど。大丈夫なの?」 「ど、どうなんでしょうね……。とりあえず一般教養の方は大丈夫だと思うんですけど」  先生の部屋からはお香の匂いがした。おばあちゃん家の仏壇と同じ匂いだ。焚いているのだろうか。 「まあ、佐々木さんは成績いいから大丈夫だと思うけど。二次対策もあるの よ」  そうなのだ。一次は良いとしても二次試験は模擬授業と面接だ。そればかりは自分一人だけではどうしようもない。しかし、今さら勉強会には戻りにくい。 「まあ、うちのゼミでも試験対策しようと思ってるんだけど、それはどうかしら?」  教授のおかげで私は勉強する場所を得た。 帰ろうとしたとき 「佐々木さんって本読むの好きよね?だったら好きな小説家を卒論にしたらいいんじゃない?」 「小説?」 「そう、好きな作家いない?」 「いますね」 「じゃあ、まずはその人の作品全部読んでみて」  笑顔で恐ろしいことを言われた。失礼しました、と先生の部屋を後にした。  好きな小説家はいる。小学生のころから読んでいる小説家だ。読むきっかけは母親から 「中学受験によく出るらしいわよ」 と進めてもらったのがきっかけだ。中学受験はしなかった私だったが、その人の作品は受験だけでなく模試などにもよく使われる。知っている作品がテストに出れば読み解く時間が短くて済むだろう。それに純粋にその人の作品が好きだった。昔からよく読んでいたのでまだ読んでいない作品はそんなにないだろうと思いつつ、大学の図書館に行ってみる。  大学の図書館というのは小説よりも参考文献が多い。いろいろな学部の人たちが利用するので勉強に役立つものばかりだ。だから小説のコーナーは図書館の隅の方にしかない。探していた作家の本は十冊しかなかった。どれも読んだことがあるものばかりだ。仕方がない、と私は自転車に乗った。大学から自転車で五分こいだところにあるのは市の図書館。市内で一番大きい。本当に立地はいいのだ。この大学は。 図書館に入ると大きなエントランス。それを通り抜けると一気に本の匂いがした。 なんというのだろう、このにおいは。古い本がたくさんあるからかカビのような、紙のにおい。 夏休みということもあり、多くの人が訪れていた。小さな子どもからお年寄り まで、そのなかでも私はかなり若い方でどうしても浮いてしまう。まっすぐ進むと検索機があり、その奥が書架だ。大学の図書館と違って小説が一番目立つところにある。あいうえお順になっているのでサ行を眺めていく。すぐに見つけることができた。作家順でまとめてあるところだけでも二十冊はあった。文庫のところにもかなりの冊数があるだろう。 そもそもどれくらいの本があるのか、調べることにした。検索機に戻り、作家の名前を入力する。子どものころはパソコンのキーボードを打ち込むかたちだったが、今はタッチパネルになっている。確かにこっちの方が使いやすい。 検索すると本は百冊以上あった。アンソロジーや純文学でないものを除けば少しは減るだろうか、明らかに読んだことのない本をいくつか選んで印刷ボタンを押す。 ウィンウィンとゆっくり印刷されていくのをじっと待つ。リストをもとに文庫コーナーを探した。書架の奥のコーナーに文庫は並んでいた。文庫ということもあって他の本棚よりも低い。しゃがんで探す。 すると、一人の男性が隣で同じようにじっと本を見ていた。制服だろうか、白い半袖のワイシャツに下は黒い長ズボン。周りの高校の男子生徒の制服は基本的に同じだ。私立高校の制服とは違うから、近くの公立高校の生徒かなと思った。セットされていない無造作な黒髪、長いまつげ、綺麗な耳。おしゃれな茶髪やピアスをつけたがる男性たちばかりここのとこ見てきたので、なんだか懐かしい感覚だ。男子生徒は私の視線に気が付いたのか 「あ、すみません」 と隣にずれてくれた。そう言う意味で見ていたわけではないので申し訳なく思いつつ、頭をぺこりと下げて本を取る。目当てのサ行はちょうど彼がずれてくれたことで見える位置になっていた。その中で一番多く作品が並んでいたのは、探していた作家だった。やはり有名なだけあって作品が多い。三冊見つけ手に取って立ち上がる。男子生徒はまだ本を選んでいるようだ。ありがとうございます、と小さな声で言うと、こちらを見て会釈をしてくれた。行儀のいい子だなと思った。  最近は、本を借りるのも全自動だ。重ねたままで機械の上に乗せれば何の本を借りたかが分かる。不思議な仕組みだ。カバンに本を入れて、図書館を後にした。  高校生は夏休みと言っても、授業がある。私が通っていた高校では夏季補講と呼んでいた。ほぼ毎日授業があった気がする。補講なのだから、来なくてもいいと先生たちは言うが、実際は普通に授業を進め、三年生になれば過去問を解かされる。あんなに勉強していたのが遠い昔のようで、大学生になって勉強をしていない自分を高校生の自分が見たらどう思うだろう。  自転車で大学に行く途中、いつも高校生に会う。きゃっきゃと楽しそうに並んで自転車をこいでいる。  私も数年前までは、こうだったなと思い出す。高校で仲が良かった友達は東京や国立大学に行ってしまった。文系ばかりの私立大に行く私はあの高校からしたら落ちこぼれなのだ。  高校生がそうであるように、大学生にも夏の授業がある。集中講義と呼ばれるもので、数か月かけて二単位を取るのとは違い、短期集中で単位が取れるというお買い得商品のようなものだ。今回は司書教諭の免許を取るための講座だ。そもそも司書教諭が何か分からないが、採用試験を受ける人はぜひ取るべきだ、履歴書の資格の欄にも書けて、採用に有利になるといろいろな授業で教授たちに言われて、取ることにした。それに五日間で十単位を取れるのはかなりお得だ。  紗子も一緒に取ると言ったので、講座の最初の日からいつも隣に座った。学校でも一番大きな教室にかなりの人数が座っている。顔を見たことのない人もいる。もしかして他学部の人たちだろうか。中学校や高校の免許を取ろうとしている人たちも来ているのかもしれない。教授は本の大切さや司書教諭という仕事について話している。話を聞くだけで単位がもらえるなんて、やっぱりお得だなと思ってしまった。同じ学科の人たちもたくさんいる。その中には勉強会のメンバーもいた。 「そう言えば、あれから勉強会行ってる?」 「行ってない。バイトもあるし、サークルもあるから。ちょうど来週大会なんだよね」 紗子はスマホをぽちぽちしながら話した。結局、三年の夏から始めても、みんながやる気になるのは、もう少し後らしい。  特に課題があるわけではないので、だらだらと授業を聞いていた。何か内職できるものを持ってくればよかったと思ったが、何もないので、紗子とこそこそとおしゃべりしていると、前の席に座っている人がこちらを振り向いた。前田くんだった。 「やっぱり、声聞いたことあるなって思ったんだよね」  うげ、と心の中で舌を出す。気まずいと思いながらも 「久しぶり」 と返す。 「そういや、最近二人勉強会で見ないね?」 最近というか最初の一回しか行っていないので、これは前田くんの嫌味なのだろうか。二人して困ってように顔を見合わせて笑う。 「まあ、いいや、九月になったら合宿しようと思うんだけど、よかったら来ない?模擬授業の練習もするからいいと思うよ」 そこまで仲良くない人と何日か寝食を共にすると考えるとぞっとした。 「私はバイトあるから行けないかな」 「私も……」  紗子が断ったのに乗って話す。前田君の顔には、もうこの二人を誘っても無駄だなとわかったようで興味のなさそうな顔をしていた。 「ゼミで対策してもらえそうだから、いいかな。ごめんね」 「分かった。あんまり人が来てくれなくて、もしかしたらって思ったんだけど、残念」  それでもいい人だ。もしかしたら今まで何人もの人に断わられてきたのだろうかと思うと、少し気の毒になってしまった。 「では、課題を発表します」 教授の声が聞こえて、前田くんはさっと前に向きなおした。五日目にして初めての課題だ。 「皆さんは司書教諭の免許取得を目指していますよね。司書教諭は本のスペシャリスト。特に、子どもたちが手に取る絵本には、詳しくなってほしいと思っています。そこで、絵本を五十冊読んで、百文字程度の感想を書くことを、この授業の単位取得条件にします」 「えー」 ざわざわと学生たちの声。五十冊?さすがにおおすぎないか。 「大丈夫、絵本一冊は短いし、百文字なんてあっという間よ」  絵本の題名が書かれた一覧が前から配られた。知らない本も多い。図書館にあるといいのだが。 「これを来週までに私にメールしてください。送ってこないと単位はないですよ」  送らないともらえない単位は二単位だが、全ての単位がそろわないと司書教諭の免許はもらえない。つまり五日間の努力が泡になってしまうということだ。 「うわあ、来週までずっとバイトとサークルなんだけど……絶対間に合わないよ。もう諦めようかなあ」 「でも、もったいなくない?」 「ううん、そもそも採用試験受けるかどうか悩んでいるから、司書教諭の免許なくてもいいかもしれない」  教室から出て、階段を下りながら話す。前のグループはこれから大学の図書館に向かうようだ。しかし、大学の図書館にそんなに絵本があっただろうか。小説でさえ少ないのだ。あったとしても、他のグループと取り合いになるのは困る。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!