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未明。王妃が、花池を訪れた。
身に纏うは純白の薄衣。祈祷の際に身につける装束だ。だが、祈りを開始するには、常よりも随分と早い時刻である。
「……トゥト、様?」
小鳥のように軽やかな響きは鳴りを潜め、夫の名を呼ぶ妃の声はひどく掠れている。優美なその手にあるのは、青き睡蓮。
朝に花開き、夕になれば睡るように閉じていく、高雅な花。死と来世の象徴として、冥界への供とするべく死者へ手向けられる青紫の花を胸に捧げ持ち、妃はまた口を開く。
トゥト様。私の、トゥト様。この世でたったひとり、私が心から愛する御方。本当に、亡くなられてしまわれたのですか?
「……っ、あの男」
嗄れた妃の声音が、憎々しげに場に響く。清浄な睡蓮の花香が満つる空間には不釣り合いな、怨嗟の呟きだ。
「あの男がっ」
青みを帯びた茶瞳に、憎悪とともに黒い輪郭が浮かび上がる。それは、出来ることなら忘れたかった、忌まわしい過去の記憶。
『あの脆弱な王では、駄目だ。我を選べ。さすれば、この王国をさらに繁栄させることが出来る』
妃に、夫を裏切れと迫り、脅していた神官の幻覚が彼女の眼前でゆらゆらと揺れている。
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