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またきて明日
そう言った時には憂いはなくなっていて、彼はいつもの柔和な笑みを浮かべていた。そこで少しだけ冷静さが戻った。
彼から投げかけられた言葉がじわりと染み込んでくる。そうだ、わざわざ苦しい思いを抱き続けている必要はないのだ。まだ肩が震え、涙は止めどもなく溢れてくる。
それでも、捨て断つことができるのなら。消してしまえるのなら、そうしたいと願った。
「……して、みようかな……」
「じゃあ、早速。まずはそうですね、携帯にある彼の写真、全部消しちゃいましょうか?」
「え、ぜ……全部?」
「はい、全部です」
井深くんは臆面もなくにこりと笑った。流れる涙もそのままに私は閉口してしまう。促されるままに写真のフォルダを開け、並んでいる写真を眺める。スクロールしていけば、旅行の写真やたわいもない飲み会の風景、友達と無邪気にはしゃいでいる写真などがたくさん並んでいた。涙がぽたりぽたりと落ちる。
「あ、これ……懐かしいな……。これも……」
「……朝倉さん。整理整頓するつもりがアルバムとか見ちゃって、いつの間にか時間経っているタイプですね?」
「うう、そうです……。これ、全部……?」
「はい」
私の問いに対して井深くんは一寸の迷いなく言い放つ。
彼が言う通り、私はいわゆる捨てられない人だ。思い出があるから捨てられない。誰かからもらったものだから捨てられない。記念だから捨てられない。そんなものが重なって、どんどんと積み上がってしまう。
「大丈夫ですよ」
井深くんは優しく笑う。背を押すように。
きっと必要なのは。変わりたいがための、ほんの少しの勇気。
元恋人との思い出を集めたフォルダ。私はそれを選択してゴミ箱のアイコンをタッチする。表示された〈本当に“思い出”を削除していいですか?〉という問いに対して〈OK〉を押せば消える。
一息ついて〈OK〉を押した。しばらく沈黙が続いたのち、読み込みを挟んで〈“思い出”は削除されました〉というメッセージが表示された。
「……消えた」
呆気ないものだなと思う。積み重ねてきた三年という思い出がほんの十数秒で消えてしまったのだ。あの人にとってもこんなものだったのかなあと、私はぼんやりと思う。
「お疲れ様です」
井深くんが私の目の前に差し出してきたのはミニパフェだった。いつの間に頼んでいたのだろう。店員さんが来たのもまったく気づいていなかった。正直、感情の波が激しくて苦しくて、頭が糖分を欲していた。遠慮がちにお礼を言い、私はてっぺんに乗る生クリームをスプーンで掬う。一口含むと滑らかな甘さが口の中に広がった。
「今日はここまでですね」
井深くんの発言に思わず咳き込みそうになる。私は急いで手元にある水を飲み込んで、恐る恐る目の前で微笑む青年を見た。
「え、ってことは……」
「家に何かあるんじゃないですか? そういうのも捨ててしまいましょう」
つまり元恋人にまつわるものをすべて捨てようということだ。普段では絶対に考えられない言動にさすがの私も絶句した。にこにこと笑い続ける井深くんに対して、ようやく返せたのは拙い一言。
「井深くん、鬼だ……」
「こういう時こそ徹底的に。ただ、捨てるも捨てないも、朝倉さん次第です」
そう告げられて、今までふわついていた感情がストンと落ち着いた。
彼は何一つ強制していない。ただ提案してくれるのみだ。その良し悪しを、実行するかしないかを判断するのは紛れもなく自分だ。
「徹底的に」
「はい」
反芻した言葉に対して返ってきたのは、いたく簡潔な言葉。それはさらに思考をクリアにしてくれる。
「……ありがとう、井深くん」
「誰かさんのことを考える隙間もないぐらい、楽しく笑っていきましょう」
そう言いながら笑った彼の笑顔は少年のようにあどけなかった。
* * *
井深くんとの飲み会から一週間。
私はホーム上を通り過ぎる風に身を縮こませた。今年は嫌に暖かいといっても風は冷たい。待ち合わせのカフェに着いて、本を読みながら人を待つ。
「舞」
私の名前を呼んだのは、短く整えられた髪の男性。精悍な顔立ちでスポーツマンの空気を感じさせる。元恋人の姿を見て、そんなに経ってもいないのに懐かしいと思ってしまった。
「恭介、来てくれてありがとう」
「いや、別に」
恭介は席に着いてコーヒーを頼んだ。お気に入りの店でコーヒー豆を買っていたなと思い出す。私はあまりコーヒーを飲まなかったので、話を曖昧に聞いて機嫌を損ねてしまった。それが少し心残りだ。
「……それで、話って何?」
居心地悪そうに尋ねる恭介に向かって、私はシックな藍色の小箱を差し出した。すっと彼が息を飲んだ気配を感じながら箱を開ける。
そこに鎮座するのはゴールドカラーのリングにダイヤモンドが一つ嵌め込まれている指輪。誕生日にもらったもので、婚約指輪でも結婚指輪でもない。けれど、もらった当時は大切にしてくれているのだと思えて、本当に嬉しかった。
「これ、返すそうと思って。もう必要ないから」
私の言葉に恭介はぴくりと肩を揺らす。しばらく沈黙を続けていたが、やがて恭介はポツリと零した。
「別に、返さなくても」
「ごめん、最後まで迷惑かけて。でも、こういうのはきちんとしないとダメだと思って。私、抜けてるところがあるし、頼りないし。恭介にいっぱい弱音を吐いたよね。頼りきってたし、面倒だって思われても仕方ないと思う」
彼がそばにいたから忙しい仕事も頑張れた。たわいない日々を楽しく過ごせた。支えてくれた彼にとって代え難い存在でありたかったから、できることは自分なりに頑張ったつもりだ。思い出が花開く。
料理はそこそこ得意で、休日に張り切って作ったご飯を美味しいと言ってくれたのを思い出す。たわいもない日常だけど大切だった。恭介が熱を出した時は、心配から自宅へ行ってお粥を作ったりもした。
二人で計画して西伊豆を旅行した時のこと。本島でも沖縄に負けない綺麗な海を見て、恥ずかしいぐらいはしゃいでしまったことを今でも覚えている。
しかし、こうして離れてみて、井深くんにいらないものは捨ててしまおうと提案されて気がついた。
恋人へ執着して得られた存在価値と肯定感は私を保証してくれものではないのだと。執着することの苦しさを知り、すべては変わりゆく関係性なのだと気気づかされた。
「そんなことは……」
「でも、彼女を選んだということは、そういうことなんでしょ?」
私の問いに恭介は口を噤んだ。
「責めてるわけじゃないよ。……私が恭介に頼りきってただけ。だから、これは返したいの」
彼に縋っていた自分を受け入れ、変えたいと思った。だから、きちんとけじめをつけたかった。私は有無を言わさずに彼の手に箱を握らせる。
「今までありがとう。彼女と幸せにね」
「舞、ごめん。その、また――」
恭介の言葉は途切れ、それ以上続くことはなかった。私は笑みを浮かべて、ただ一言を残した。
「さようなら」
伝票を持って、私はその場を後にする。外に出ると冷たい風が身に吹きつけたが、あまり気にならなかった。携帯電話を取り出す。
心の中でもう一度別れを告げながら、私は最後まで残していた恭介の連絡先を残らず消し去った。
* * *
年が明けて一月は慌ただしく終わり、二月も半ばになった。けれど、それがちょうどよかったのかもしれない。余計なことを考える時間もなかったのだから。
私は定時を三十分ほど過ぎたところでパソコンの電源を切る。凝り固まってしまった体を伸ばすとひどく体が痛んだ。私は少しだけ腰を浮かせて辺りを見渡す。目的の人がまだいることに安堵して席を立った。
向かったのは井深くんのデスク。改めて見ると彼のデスク周りは余計なものはなくこざっぱりしていて、几帳面だなと思う。
「井深さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「今日、よかったら飲ご飯に行きませんか? あの、前に言ってたやつ……」
「ぬる燗?」
「そう、それ。井深くんのお勧め、飲んでみたくて」
私の思いがけないであろう提案に井深くんは目を見張った。それからふっと笑った。とても優しい笑い方だった。
「ぜひ」
「おー。それ、俺も混ぜてよ。俺もちょうど仕事終わったのよー」
井深くんの肩が不意に傾く。彼の肩に腕を乗せたのは映像デザイン担当の金井さんだ。
井深くんはやや迷惑そうに金井さんを半眼で見据えた。しかし、金井さんはまったく怯まないどころか、満面の笑みを浮かべる。
「先輩が奢るからさぁ」
「……それはまぁ、嬉しいですけど」
井深くんは金井さんの提案に不承不承ながら承諾する。それでいいんだと思った時だった。
「終わったならもう上がって。せっかくの金曜日なんだから」
そんな言葉が聞こえてきて、三人は声がしてきた方向へ視線を向ける。そこには私の上司、アートディレクターの高木さんが立っていた。ピシッとした空気と丁寧な仕事ぶりで、入社当時からの私の憧れだ。
「あ、何か手伝えることは……」
「大丈夫よ、もう終わるから。いつもありがとう」
高木さんは微笑を浮かべると自分のデスクに向かっていく。年末に残業続きだった私を大分気にかけてくれて、今は甘えさせてもらっている。高木さんの後ろ姿を見届けると金井さんはへにゃりと顔を崩した。
「あー。何食おうかな。っていうか店どこがいい?」
「ぬる燗飲みたいんで、あそこがいいです。っていうか、いつまで腕乗せてるんですか」
えー別にいいんじゃん、と金井さんはやや不貞腐れた声を上げる。井深くんに寄りかかった格好のまま器用に携帯電話をいじりはじめた。
「ちょっと空き確認するから待っててなー」
そう言い残して金井さんは颯爽と廊下に出ていく。井深くんが疲れ切った顔でため息をついた。二人のやり取りが面白くて、心の中で私は笑う。
井深くんが姿勢を直したところで私も居住まいを正す。真剣な空気が伝わったのか、彼は不思議そうに私を見た。
「井深くん。改めてだけど、あの時は本当にありがとう。あれからいろいろと吹っ切れたんだ」
今思い返しても恥ずかしいような醜態。けれど、あの時のおかげで今がある。
相手を糾弾するでもなく、見返しするのでもなく、復讐するのでもない。ただ忘れようと言った彼には感謝しかない。きっとそんな負の感情を持ってしまったら、私は私を顧みることができなかった。 今の穏やかな時間と優しい周りの人たちを失っていた。人に不幸を与える側にならなくてよかったと心から思う。
私の言葉に井深くんは淡く笑っただけだった。もう十分だと言われているようで、それ以上の言葉は続かなかった。
その時だった。金井さんが廊下から戻って来きた。
「店、席取っておいた。早速行こうか!」
「はい」
先導する金井さんのあとを追う。外に出ると冬にしては温かい空気が辺りを包んでいた。
早く春にならないだろうか。今は明日が待ち遠しい。そんなことを思いながら、私たちは光に照らされる街へ吸い込まれていった。
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