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第6章
今は一人暮らしをしていたが、彼と知り合った頃の私は親と同居していた。彼との電話は両親が寝入った深夜だった。それで話し声を聞かれまいと頭から布団を被って小声でしていた。すると時々彼の声が聴き取れないことがあった。
「え? 何?」
私はその都度そう言っていた。勿論私の声も彼に届かないことがあった。
「それでね、ふーちゃんが可笑しなことを言うの」
ふーちゃんとは私の幼馴染だった。親と同居していた頃は就職した後も時々一緒に出掛けることがあった。しかしもう7、8年は会っていない。
「何?」
彼が聴き返す時はいつもそうだった。しかしイントネーションが私とは違っていて、「な」ではなく「に」にアクセントが置かれていた。私たちの故郷では確かに彼のアクセントでしゃべっていたが、私は東京に出て来てからそれを努めて修正した。だから今では「に」にアクセントが置かれることはない。しかし彼は故郷と同じ言い方だった。それが私を安心させた。彼と普通に親しくなった理由はそこにもあった。
「信くんは変わらないね」
私がそう言っても彼にはそのことに気がついていないらしく、すっかり東京に感化されたと言っていた。そうかもしれない。でも私は彼の「何?」を聴く度にくすっと笑っていた。そして懐かしいそれを聴きたくて、わざと小さな声で話すこともあったのだ。
ところがさっき隣に座っていた彼が言った「何?」は、あの懐かしい「何?」ではなかったのだ。そして違うと思うと声そのものも彼とは違うように思えた。そしてそうなると彼の横には一瞬たりとも座ってはいられなくなったのだ。それであの場を飛び出して来てしまった。
その後、彼からの連絡はプツリと途絶えた。私からも電話を掛けなかった。そこで彼は誠意をもって私と付き合っていたわけではないと結論したのだ。たぶんSNSで女の子を引掻けて、ある程度仲良くなったところで友達に宛がっていたのだろう。もしかしたら赤の他人に金銭をもらって渡していたのかもしれない。そう思うと私は止めどもない恐怖と怒りが込み上げてきた。そんなことはよくあることで、今更だけどそれでも私がまだかそんなことに引っ掛かるとは夢にも思ってはいなかった。よくTVで振り込め詐欺に引っ掛かったお年寄りのことが報道されるけど、これだけ被害に遭ったことが伝えられているのに、未だに引っ掛かる人がいるなんてどうかしていると思ってた。でも実際に自分がそういう目に遭うと計画的な人たちには言葉巧みに誘導されてしまうんだなと実感した。
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