経堂の森の少女

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経堂の森の少女

 その森は“経堂の森”と呼ばれ、ごく限られた者しか知らぬ誰でもがたどり着ける場所ではなかった。  人々が住む一番近い町からでも馬車に揺られ半日ほどかかる静かな場所に、その不思議な森はあった。    森の入口には、飛びぬけて大きな針樹が三本立ち門のように境界を作っている。その先には、針樹の木々が立ち並び鬱蒼とした薄暗い森が続く。昼でも暗い森は部外者の立ち入りを拒んでいる。  音も無く湿り気と木々の放つ香気に溢れた森は、経堂の者達の心を安らげるとともに神聖な気持ちに誘ってくれる。  だが、経堂の森と縁のない者には、恐怖を感じる冷たくて静かすぎる場所だった。だから無縁の者は、針樹の立ち並ぶ場所でそれ以上の侵入を諦め町へと引き返してゆくのが常だ。  この薄暗い針樹の森は、云わば経堂の森を守る門番なのだ。  針樹が立ち並ぶ場所から奥へと進むと、大きな蓮池があった。  そこはよく陽が当たり明るい。一年中、蓮の花が次々と開く不思議な池で経堂の学生たちの修業の場にもなっている。  この蓮池を奥へと進むと龍樹が周りに茂る少し開けた場所があり、そこに経堂の学び舎が建っている。この学び舎で学生たちは、四季や大気を守る神官への学びを得て卒業してゆく。  一年に一度の“季の隙間”の頃には、龍樹の花が満開になり甘酸っぱい香に包まれるのだった。 池の蓮の葉を一枚一枚たどり向こう岸へ渡る。沙莉(シャリ)の日課修業だ。師匠から言い渡されて毎日続けている。  池の蓮の葉を半分以上渡り終えた頃、突然、私の耳にかすれた銀色の声がした。 「想宮離羅(シアングリラ)・・・」 驚いて立ち止まる。ぐっと蓮の葉が沈む。 「あっ、いけない。蓮が折れてしまう。集中、集中。」 私は慌ててまた足を前に出す。 私の耳に一瞬だけ確かに聞こえた言葉。 “想宮離羅” 私は無事に対岸に着いてから、銀色の声を繰り返した。 “想宮離羅(シアングリラ)・・・” 「聞き慣れない言葉だわ。どういう意味かしら? 帰ったらお祖父様に聞いてみよう。何か知っているかもしれないわ。」 私は草の上を蓮池をぐるりと回って森へ帰る。 この蓮池は一方通行。決して逆に渡ってはいけないと云われている。そういう掟がある。森から入り対岸へ渡る。この一方通行のみだと。 私は経堂へ駆け込んだ。 「お祖父様、お祖父様。教えて欲しい事があるの。」 まだ学生の集まっていない静かな経堂に、私の声が響き渡る。 「これ、沙莉。いつになったら直るんだ? 経堂では、師匠か先生と呼びなさいと幾度も言ったはずだ。」 「ごめんなさい。つい出てしまうの。師匠、教えて頂きたい事がございます。よろしいでしょうか?」 私は反省の意を込めて、少しかしこまって頭を下げ師匠の許しを待つ。 「どうした、沙莉。何か気付きを得たのか?」 講義の仕度をする手を止め斗順(トシュン)は孫娘の前に立ち、しっかりと向き合った。 「はい、師匠。実は先程、蓮池を渡っておりましたら銀色の声が聞こえ、私の耳に届くようこう言ったのです。“想宮離羅”と。教えてください。想宮離羅とはどういう意味なのでしょうか?」 斗順は顔を歪めた。 一瞬にして固く強張った表情になると、 「沙莉。それは幻の声じゃ。そなたが集中しておらなかった為に聞こえた幻。何の意味もない事じゃ。忘れなさい。」 「ですが師匠、はっきりと聞こえたのです。あれは確かに銀色の声でした。銀色の声には意味がある。大事なをこと告げる声だと教えてくれたのは師匠ですよ。」 「うむ。確かに教えた。銀色の声は、天意の調べから生まれる尊い声だと。だからこそ、今のそなたにはまだ聞こえるはずがない。それ程の神力が備わっているのか? 修業が進んでいるのか? さぁ、早く講義の仕度をして席に付きなさい。」 「師匠・・・ 本当に聞こえたんです。本当に・・・ 想宮離羅と・・・」 斗順は、経本を整え固く口を閉じると背を向け経板に手を伸ばした。  私は仕方なく後ずさり、経堂の机と椅子を整えて回った。心なしか私に背を向けたお祖父様は、小刻みに震えている気がした。 〈ついに沙莉が、銀色の声を聞いてしまった。こんなに早くこの日がやって来るとは・・・ しかも想宮離羅だなんて・・・〉 斗順は沙莉に背を向け、青白い顔で経板に掴まっていた。  翌朝、私はまた、いつものように蓮池を渡る。 するとやはり、中ほどを過ぎたあたりで声がした。 〈想宮離羅・・・〉 ハッとして足が止まり、蓮の葉がぐっと沈む。慌てて足を前に出す。体が少し強張り震えている。  やっぱり聞こえた。銀色の声が。 確かに今、想宮離羅と云ったわ。  私が対岸へ渡り終えると、遠く草原の向こうが明るく輝いている。その中に宮殿と都の姿が浮かんでいる。  あれは何かしら? 宮殿? 都? どこなの? 一体なに・・・ 心の中がぶるぶると震え出した。耳元でまた、銀色の声がする。 〈想宮離羅・・・〉  そして、その声が止むと草原もその向こうに浮かんでいた黄金色の光に包まれた宮殿も消えた。ただ深い針樹の森が見えていた。  その翌日も銀色の声は聞こえ、蓮の葉を渡り切った対岸には黄金色に輝く宮殿と都が見えた。  三日も同じことが続くなんて・・・  それに銀色の声の事を聞いた時、お祖父様の様子もどことなく変だったわ。  きっと何かある。行ってみよう。あの黄金色に輝く宮殿へ。きっとあの場所が“想宮離羅”なんだわ。 私は、その日のうちに身の回りの物をざっと巾着に詰め蓮池の縁へ隠した。  翌朝、いつものように日課修業の蓮池へ。 今日も銀色の声は耳元で囁いた。そして、蓮の葉を渡り対岸へ着くと隠しておいた巾着を肩から下げた。  お祖父様、ごめんなさい。私、どうしても気になるの。黙って出発する事を許してはくれないでしょうね。でも、ちゃんと話しても許してはくれないはず。私、見つけたいの。想宮離羅を。風の声が教えてくれたものを。  私は、部屋にお祖父様宛の手紙を残し黙って出て来た。真正面から話したところで、想宮離羅を探す旅に出る許しが得られるはずなどなかったから。  蓮池の対岸から、まっすぐ黄金の宮殿を目指して歩く。今日はいつまで経っても消えない。行く手にずっと黄金の宮殿がそびえ立っている。まるで私がたどり着く事を待ち望んでいる様に。  祖父から厳しく言い渡されていた沙莉は、森を出たことがなかった。生まれてから今日まで一度も。 「この森から出る事は許さぬ。もし出たら、お前は生きて帰って来られぬだろう。お前の父と母のように。だからお前は、この経堂で学び立派な四季神官となればよい。」 この言い付けを沙莉も固く守っていた。昨日までは。 あの時の悲しい別れが、いまもずっと沙莉の心に重く残り彼女を森に留めていたから。
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