風に誘われた旅

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風に誘われた旅

   私が13歳の誕生日を迎え経堂への出入りを許された日、父と母は、真新しい宵闇色の経服を仕立て針樹で作った筆を用意して祝ってくれた。嬉しくてすぐに経服を纏い、幾度も針樹筆の試し書きをした。その様子をお祖父様も和やかに見つめていた。  それは、私にとって家族がそろった幸せで穏やかなひと時の最後だった。  その日の夜中、私は激しい声を耳にした。  驚いて目が覚め、きゅっと布団を掴んで声を聞いた。お祖父様とお父様が言い争う声だった。怖くて身を縮めているとお母様が来た。 「沙莉、起きてしまったのね。大丈夫よ。お祖父様とは親子ですもの。お父様は何でもまっすぐに伝えてしまうから、感情的になる事があるだけ。大丈夫よ。あなたは安心して眠りなさい。明日からは、経堂での学びが始まるわ。」 お母様は優しく私の髪を撫でた。そして、私が再び寝息を立てるまで側に居たようだった。  翌朝、食卓にはお祖父様だけが居て難しい顔をしていた。経服に着替えた私の顔を見ると 「今日からは、私と二人だ。食べ終わったら一緒に経堂へ行くぞ。」 と固い口調で放ち食事を始めた。 「お父様と・・・」 私は言いかけたが、お祖父様がキュッと厳しい目を向けたので言葉を飲み込んでしまった。 そのまま黙って食事を済ませると、お祖父様と一緒に経堂へ向かった。その経堂までのわずかな道のりで、お祖父様はじっと前を見つめ穏やかに言った。 「沙莉、お前の父は旅に出てしまった。母も連れてな。だから今日からは、私と二人だ。風の声を信じ旅に出てしまったのだ。沙莉、しっかり学びしっかり修業を積むのだぞ。もう四季神官を継ぐ者は、お前しかおらぬのだから。」 「・・・はい。お祖父様。」 私は心を抑え、ぐっと涙を堪えて答えた。お祖父様は、ギュッと私の肩を抱いた。その手は強く大きく温かかった。  19歳になった私は、蒼天色の経服を纏っている。6年かけて学びと修業を積み、蒼天の段まで昇格した。左肩には七本の紐が結ばれている。宵闇、炎紅、桜桃、橙灯、黄、若草、松葉。これまでに学び終えた段の経服から編まれた紐が、修業の証として結ばれているのだ。  今は八段目。あと五つの段を学び終えなければ、四季神官にはなれない。 四季神官とは、文字通り四季を司る神職のこと。各季節、各月の神職たちの話を聞き、なだめ励まし潤滑に四季を巡らせるのが四季神官の務め。  父が居た頃はお祖父様と二人で担っていたが、今はお祖父様が一人で引き受けている。私はその四季神官の修業の真っ最中なのだ。  森の経堂では他に、各季節、各月、大気の神官たちの卵が学んでいる。だけど四季神官になれるのは、私の家の血統だけ。もし、この血統が途絶えた時は、天意により新しい家の血統が経堂に集う神官たちの中から選ばれる。  それは大きな四季と大気の天変を伴う事になる。だから四季神官の家では、この天変を避けることも大事な務め。それは十分に私にも分かっている。だからこそお祖父様はあの日、言葉少なに父の旅立ちを告げたのだ。    幸いな事に私が無事に四季神官に成れれば、この血統での七代目となる。それだけの長きにわたり私の家は代々、四季神官という立場を繋ぎ天変の無い世を守って来たのだ。    蒼天色の経服に身を包み経堂に出かけるように私は今日、家を出た。 私が聞いた銀色の声はきっと、あの日お祖父様が言っていた“風の声”だ。きっとお父様も風の声を聞いたんだわ。だから旅に出た。今の私と同じように胸の高鳴りを抑えられなかったから。    私は歩きながらあの日の事を思い出していた。お父様がいなくなった日の事を。  私は今日、お父様と同じ事をしてしまった。お祖父様一人を森に残して。ごめんなさい。でも私は、必ず戻って来ます。想宮離羅を見つけたら必ず、お祖父様の所へ。ごめんなさい。それまで待っていて。なるべく早く経堂に戻るから。私の旅を許して。    蓮池の修業から戻らぬ沙莉を斗順は案じていた。  いつもならもう戻って来ている頃だ。胸騒ぎがした斗順は、沙莉の部屋に向かう。扉を開けると、心なしか部屋がすっきりと片付いている気がした。机の上には一封の包みがあった。斗順の手は震えている。 「まさか・・・ 草宋(ツァオソン)と同じなのか? 沙莉、まさかお前も・・・」 斗順はこの六年、口にしていなかった息子の名を呼んだ。 体中が震え出す。包みの封を開けると沙莉の手紙が出て来た。 【お祖父様、ごめんなさい。  私やっぱり銀色の声を無視する事は出来ない。蓮池の対岸に浮かぶ黄金の宮殿へ行きます。想宮離羅を見つけます。でも必ず、経堂の森へ戻るとお約束します。だから許して。私を信じて待っていて。お祖父様、元気でいて。】 「あぁ・・・ 沙莉よ。お前も確かに聞いてしまったのだね。繰り返し訪れる風の声を遠ざける事は出来なかったか・・・ 仕方のないこと。この時がやって来てしまったのだね。  まだ四季神官に達していないのに。お前には随分と早くに来てしまったようだ。どうか無事に戻って来ておくれ。父のようにならずにいておくれ。それだけを祈って、待っているぞ。沙莉、どうか早く元気に戻って来ておくれ。」 斗順は、沙莉の手紙を手に泣き崩れた。沙莉の父、草宋があの日、家を出て行ったのも風の声を聞いたからだ。  同じ声を斗順もはるか昔に聞いていたが、彼は旅に出なかった。しかし、草宋は好奇心に抗う事が出来ず娘を祖父に預け旅に出てしまった。そして未だ戻らずにいる。    この日から斗順は毎日、沙莉に代わり蓮池の業を自分に課した。沙莉が無事に戻って来るよう願いを掛けて。森の端の蓮池には、毎朝早くに祈るように対岸へ蓮の葉を渡る斗順がいた。
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