傘がない

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傘がない

もしかしたらこの人となら人生をやり直せる、和子はそんな気がした 大都会東京の街の灯も急などしゃ降りに霞み人はみな鞄や上着を傘代わりに近くの軒先や飲食店に逃げ込む様子を、裸足でアスファルトに立ち和子は激しく雨が叩く傘の中から見ていた。傘はあるのに靴はない。他には何もない。帰る家もない。帰れる故郷すらもうない。この透明なビニール傘なら数日前に公園で拾ったものであった。彼岸前の夜の雨は冷たく、和子の足なら黒く汚れ傷だらけでそのアスファルトの冷たさに感覚さえ失いかけていた。もうどのくらいこうして裸足で都会のアスファルトを彷徨っただろうか。激しい雨に逃げ惑う一見幸せそうな連中をみて和子は少し自分が勝った気がしていた。自分は傘を持っているのだ。彼らはみな傘が欲しいだろう。それを自分は手にし勝ち誇った気分であった。やがて通りでは空車のタクシーの奪い合い。いいとこ勤め風のビジネスマンどもが怒声を張り合い互いの胸ぐらやネクタイを掴み合うのを見て少し救われた気がした。あんな人らさえ本性は自分と大して変わりない卑しい心を奥底に隠して会社の看板や肩書きを名乗り強ばった笑顔で行き交っていることを目の当たりにしたのだから。普段人はなかなかに強かで腹の中まで見せぬものだが、いざこうなると本性を表すものなのだろう。そのとき突然和子は後ろから誰かに勢いよくぶつかられ冷たく滝のような雨が排水溝へと流れるアスファルトに叩きつけられた。突然のことに痛みより驚きの方が大きかったがすぐに男の声が和子を抱き起こした。 「すみません、大丈夫ですか、前をよく見ていなかった、すみません」 鞄を傘代わりに駆けてきたいかにもサラリーマンという風な男であった。しばし呆然とした和子はその男に件の拾った傘を黙って差し出すと男は怪訝そうにただ見つめていた。 「怪我などされていませんか」 ずぶ濡れのふたり。そもそも和子の服は着たきりで汚れや臭いが酷かった。ちょうどいい洗濯になった気がしていた。 「私は行く宛もないのでこの傘、どうぞ」 男はあらためて霞む街灯の元の和子を上から下まで眺めた。傷だらけの裸足の足元を容赦なく雨が叩きつける様子も。もうどのくらいこんな暮らしをしているのかさえわからぬほど長いことこうしていた和子を察したのであろう男は言う。 「よければ家に来ませんか、狭いアパートなのですが」 男は丁寧な言葉で和子に話した。和子はあらためて傘を男に突きつけ走り去ろうとしたその手首を男の手が掴んだ。身なりの良い人と接して和子は恥ずかしさに居ても立ってもいられず逃げたくなったのである。 「大丈夫、変な気持ちじゃないです、この雨の中どうするんです?」 和子は必死にその掴まれた手を振りほどこうとした。今夜のこの雨くらいどうってことはなかった。真冬の凍える寒さも和子はどうにか乗り切ったのだ。 「平気ですから離して、こんな汚い私に触れたら手が汚れます」 しかし男の手は和子の手首を離すことはなかった。ふたりの間のアスファルトの上に行き場を失ったビニール傘が転がる。そんなやり取りをどのくらいしただろうか雨足はさらに勢いを伴い雷鳴が響いた。あまりに男が真剣なものだからとうとう和子はまるでライオンに捕まえられこれから捕食される小鹿のように手を引かれ男に着いて行った。 「足は痛いでしょう?あと少しです我慢できますか?おんぶしますよ?」 どしゃ降りの音がひどくどうにか聞こえる程度の男の声にただ和子は大きく頷いた。ずぶ濡れのふたり。和子をおぶった男はずいぶんとその軽さにこれまた和子のこれまでに思いを巡らし少し泣いていたのだがこのとき和子もボロボロと流す涙も声もやはりそれもこのどしゃ降りが全てを隠してしまっていた。隠してある方がよいこと。全てを知らぬからよいこともある。人にはみな事情があるのだ生きていくということは。和子だって最初からこんな風情なわけがなかった。結婚まで約束した男にある日突然裏切られ着の身着のまま放り出された成れの果てがこれだった。 「さあ、着きました」 やがてたどり着いたのは古めかしい二階建てのアパート。見るからに安アパートであり一見身なりの良さそうな人にはあまり似合わない感じがしていた。玄関を開けるとまるで昭和の頃の公衆便所のような臭いがした。しかし和子はそれ以上に自分が悪臭を放っているだろうと思い、入りかけたドアから動けずにいた。薄暗い蛍光灯もまるで昭和の頃のようであった。あの頃は良かった。世の中の景気がよいばかりでなく自分も人並みの幸せなら持ち合わせていたのだから。 「ずいぶん傷がひどいようだ」 男はずぶ濡れのうえに汚い足のまま私を今度は少しカビ臭い風呂場へと連れてゆく。男のひとり暮らしというものはこんなものなのだろう。きっと掃除などまるでしないのだろうから。男は給湯器で湯船に湯を貯めた。あまり大きくないバスタブはやがてすぐに入れるほどの湯量となった。 「何か着るものと足の薬を準備しておきますから」 そう言い男は風呂場のドアを閉めた。お風呂なんて何年ぶりだろう。容易く体を売ることさえすればここまで落ちぶれることもなかったのに。和子は後悔していた。僅かなプライドと良心が咎めたのだ。しかし何度も万引きや窃盗で捕まったくせになぜそこだけは譲れなかったのだろうか。和子は自分でもそれが解らなかった。そしてふと思った。きっと体を洗い綺麗になったらあの男は自分を抱くのだと。シナリオは最初から見え透いていた。やはりこうなるのであればもっと早くに体を売る商売をしていた方がマシだった。わかっていながらのこのこ着いて来た自分が悪いのだ。しかしこんな自分を丁寧に扱ってくれる人があるとは思っていなかった。薄汚れた身なりの悪い自分はこれまで誰からも優しい言葉ひとつかけられたことはなかった。ただそれだけの理由で心が動いたのかもしれない。やはり逃げようかとも思ったがもはやまな板の鯉とはこのことだと観念し綺麗に体を洗った。傷だらけの足にボディソープがとてもしみて痛かった。もう女の足じゃないと和子は思った。以前なら白い足のペディキュアを頻繁に塗り変え、別れた男はその足の指の一本一本を丁寧に舐めるものだった。和子が帰ると玄関で待っていた男は、一日中ハイヒールの中で蒸れたストッキングの足先を舐め自慰をし射精したりそのまま玄関でスカートを捲り上げ激しく犯され興奮したことも思い出された。果たしてあの頃は幸せであったのか。成り行きでなんとなく付き合い結婚の約束もしたが結果追い出されこのザマだ。不思議と死のうとは思わなかった。幼い頃から痛がりの怖がりであった為だろうと和子は思っていた。そしてその頃からすぐに男の人を好きになる悪い癖も思い出された。好きでもない人から告白されると断ることなくすぐにその人を好きになるのだ。そもそもそれが間違いの始まりなのだが今さら省みたところで遅いのだ。和子の家は決して裕福でらなく欲しいものもじゅうぶんに与えられず育ったそのことも恋愛経験に関係しているのか来るもの拒まずだったのは。和子はそんなことを考えながら風呂場で目についたあの人のものであろう髭剃りでこっそり無駄毛を処理した。抱かれることは目に見えている。愛しているとか交際しているという大義名分なしに男に抱かれるのは初めてだが何かお礼をできるでもない。諦め半分と昔の男を思い出しむしろ抱かれることを願いはじめていたのだ。抱かれたらきっとこの人を好きになってしまうことも和子は自分で知っていた。そしてまた飽きたら放り出されるのか。たしかあの日もこんなどしゃ降りの夜だった閉め出されたのは。風呂場の扉の向こうから男が声をかけた。 「すみません下着はありませんがスウェットを起きますから、どうぞゆっくりお風呂に浸かってください」 優しい声と言葉。これだけで和子はもう半分以上この男に好意を抱いていた。薄明かりで見た顔も決して悪い人のようではなく男前のように思えた。しかしこの男だって腹の中までわからないとも和子は思いながら丹念に無駄毛の処理をし風呂場から出た。 ブカブカの大きなスウェットを着た和子を散らかり放題の部屋のとりあえず座れるところへ促し座らせたくさんのコンビニの弁当やパンが入った袋をふたつもみだつも男は和子に渡した。 「お腹減ってるでしょう?全部食べてかまいません」 和子が風呂に入っている間に近くで買ってきたという。男の脇には薬局の名前の入った袋もあった。男はそれから消毒や軟膏を取り出した。 「傷が悪くなったらいけないから」 そう言うと足を崩して座っていた和子の足を引き寄せた。 「少ししみるかもしれないけれど我慢してください」 そう言うと、白さを取り戻した和子の素足を手に消毒を吹きかけた。和子は一瞬激しい痛みを感じはしたが昔の男は自分の足を手で撫でやがて口で愛撫されていたことをやはり思い出していた。下着も付けていない秘部が濡れるのを和子ははっきりと覚えた。やがて男は軟膏を塗ると爪切りで伸び放題で割れや欠けのある爪を整えてくれた。やはりこの人も今夜私の足を口に含み弄ぶのだろうか。いや早くそれを、この灯りの下で見れば全くのいい男であるこの人から足を口で愛撫され激しく犯されることを期待していた。やがて和子も弁当などをつまんだ。まともな食事は久しくしたことがなかった。 「こんなものしか準備できなくてすみません」 和子は首を横に振りひと口食べる度に礼を述べるのであった。 「よければ明日は休みなので外へ何か食べに行きましょう、その前に服を買いましょう」 一夜限りでかまわないのに。互いの名前すら知らぬのに。和子は不思議に思うのであった。そのあとも男は和子に名を訪ねもせず自分も名乗りもせず床につくこととなった。 「汚くて申し訳ないのですけれどベッドで寝てください、ボクなら下へ寝ますから。」 そう言い和子は男臭いシーツや毛布に包まれ、男は明かりを消しカーペットのひいてある床に寝転んだ。和子はいつこの人はこのベッドへ入ってくるつもりなのかとそればかり気になり興奮してしかたがなかった。しかし久しぶりの温かい寝床でいつの間にか眠った和子が目を覚ますと既に外の様子は明るく男はカーペットの上でまだ眠っていた。なにごともなかったのだ。自分には魅力がないのかと落胆すらした。男と女それもきっと一夜限りの関係であるはずなのに。少し期待はずれに和子は思ったが男はみな悪い生き物ばかりではないとしみじみと思った。和子は例のブカブカのスウェットを脱ぎ全裸になり男の肩を揺すって起こした。男は大きなアクビをして起き上がり全裸の和子をじっと見つめた。 「何もお礼はできませんから」 すると男は、今和子の脱ぎ捨てたスウェットを押しつけ言った。 「これまでも自分を大事にしていたのでしょう?その気になればいくらでもできたはずです。聞くまでもなくわかります、どうかこれからも自分を大事に」 その言葉に和子は裸のまま思わず男に抱きつき声を出して泣いた。和子はその瞬間にこの紳士との恋に堕ちたことを確信した。 「もしよければずっとここへ居ませんか?嫌でなければ」 あなたとゆっくり恋をしてみたいんです体ならいつでも重ねられるでしょう そう言う男の胸の中で和子はこの人のために爪を綺麗に塗りたいと思った。 こうして和子のセカンドラブは始まった。
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