千明ゆり、というひと

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出向から戻り、初めての金曜日。 せっかくだから、一人懐かしい店に行く。 この身軽さが、やっぱり独身の特権だ。 会社と最寄り駅までの繁華街。 その細長い古めの雑居ビルの地下にあるワインバー「炎」(ほむら)。出向が決まる直前、たまたま見つけた。60代の俺の親父くらいの男性がマスター。カウンターと二人用テーブルが二組だけ。 その時俺は一人だったからカウンターの奥に座り、俺以外の客は男女の二人組だけ。マスターは基本、話しかけてこない。 しかし、つい、聞いてしまった。 「何で店の名前、炎なんですか?」 まさか、鬼退治のあの漫画のファンというわけではないだろうが。 「あの竹咥えた女の子が出る漫画は関係ないですよ。」 と、マスターが微笑んだ。あー、心の声聴かれたか。 「火という言葉は、情熱の火を灯すとか、心に火をつけるとか、人間の内に秘めた感情に用いられる言葉なんですよ。 それが二つ重なる炎と言う文字は、まるで二つの心が重なったように見えて。 誰かと誰かの心が重なる、気持ちを通い合わせる場になれたら、私も役割を果たせる気がして。店の名前にしました。」 店のドアの前に立った、 よかった、あった。 この二年の間に店畳んでいたらどうしようと、道すがら、チラリと不安が掠めたんだ。 暖かい色合いの木製の扉を引く。 「いらっしゃいませ。」 落ち着いたマスターの声が、静かに耳を撫でた。
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