消された男

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消された男

『不必要な記憶を消してさしあげます』  これは今やネット上のあらゆる画面で見かける広告の宣伝文句だった。  突如として現れたイレース社と名のる会社。  ネット上ではもちろん話題になり、当初は馬鹿げてる、ふざけるな、などと散々炎上したものの徐々にその火は鎮火していった。  それは怖いもの見たさ、あるいは興味本位でイレース社を利用した者による口コミが広まったからであった。 『本当にありがとうございました! 今まで悩んでいたようですが、それが嘘のようです』 『私はいじめられていたあの頃の記憶を消してもらったみたいです。記憶にないですけどw』 『俺には仲の悪かった父親がいたらしい。父親? 毎日一緒に飲んでるよ!』  様々な喜びの声が広まり、今では都内六ヶ所にあるイレース社の前には全国各地から集まってくる者たちが毎日長蛇の列を作っていた。 「くだらねえ」  競馬場で新聞を見ながら缶ビールを片手にくわえ煙草をしている男が舌打ちをした。  テレビをつけても街を歩いても、競馬場にも競馬新聞にも、今ではどこを見てもイレース社の広告であふれている。  男はそんな状況にうんざりしているようだった。 「くそっ!」  煙草を地面に投げつけ足で踏みつぶすとポケットから取り出した馬券をぐしゃりと握り潰した。  空になった缶ビール、馬券と新聞をゴミ箱に捨て男はイライラした様子で競馬場を後にした。 「おい、帰ったぞ」  自宅のアパートのドアを開け中に入ると男の妻と四歳の息子がリビングに座っていた。 「ヒィィッ……」  妻は男を見るなり顔を恐怖でひきつらせながら声にならない声をあげていた。 「はあ? なんなんだよその態度は! おらぁ!」  男はそんな妻に怒りを見せ今にも殴りかかろうとしていた。 「だ、誰ですか!? け、警察……」  妻は立ち上がり息子を守るように抱き抱えると震える手でスマホを耳に当てた。 「オイ! 何やってんだ!」  男が怒鳴るも妻は震えるばかりだ。 「お前俺のことバカにしてんのか? あぁ!?」  男は妻の手をつかんだ。 「いゃ、助けてっ!! 誰か!」  妻は怯えながら男の手をふりほどき泣き出した息子を抱えたまま部屋の隅で男を睨み付けた。 「真由美……お前……まさか……」  男は全てを理解したようだった。 「お前……まさか俺の記憶を消したのか?」  妻は泣きながら部屋の隅でただ震えていた。  その様子を見た男は愕然としながらゆっくりと自宅のアパートから出ていった。  階段を降りると妻の通報でたった今駆け付けたパトカーが男の目の前に停まった。 「大丈夫ですか?」  車からおりてきた警察官は精気のない暗い顔をした男を見て声をかけた。 「通報したのは妻です。俺のことを忘れたみたいで……通報されました」 「そうでしたか」  もう一人の警察官も車からおりてきて二人は顔を見合わせていた。 「最近よくあるんですよ。妻が夫の記憶を消す。夫が家に帰ると記憶のない妻が泥棒だ強盗だと通報する。イレース社のおかげで我々は大忙しです」 「はあ……」 「まあ、我々にはどうすることも出来ませんので、そう落ち込まないように、としか言えませんが」  警察官二人が去り、男はふらふらと歩いて近所の公園のベンチに腰をおろした。  今思えば妻が自分の記憶を消すのも仕方のないことかもしれない。  男はよく妻に手をあげていたし定職にもついていなかった。  ほとんどが家族、友人、知人からの借金で、自分は酒とギャンブルざんまいの日々だった。  男はスマホを取り出しアドレス帳を眺めた。  とりあえずその場しのぎで寝床を探さなければならない。  最初に頭に浮かんだのはたまに泊めてもらっていた浮気相手の千鶴だった。 「もしもし、千鶴?」  男はそれ以上は何も言わないまま耳にあてていたスマホをそっと下ろした。  現在使われておりませんとの音声案内が流れるだけだったのだ。 「……アイツは」  次に思いついたのは男の唯一の友人である同級生の田代だった。 「もしもし、俺だけど」 『は? どちら様?』 「田代? 俺だよ俺、藤崎」 『藤崎ぃ?』 「なんだよ、ついこの間も飲みに行ったじゃねえか、どうしたん……だよ」 『すみません、人違いだと思います』  電話は切られてしまった。 「くそっ! アイツもかよ!」  男はスマホに向かって怒りをあらわにしていた。  確かに田代にも散々金を借りていたが、自分の記憶を消されるほどのことだとは思ってもいなかった。 「ああもう……仕方ねえ」  男はしぶしぶアドレス帳の父親と書かれた文字をタップした。  中学生で悪さばかりやって男手ひとつで育ててもらった父親には迷惑ばかりかけてきた。  補導され警察署に迎えにきてもらったりと、思えば何度も頭を下げさせてしまった。  大人になってからも父親からの借金は当たり前のように続いていた。 「あ、もしもしオヤジ? 俺だけど」 『……なんだ、オレオレ詐欺か。懐かしいな。残念だが俺には息子はおらん』 「はあ!? オヤジっ……」  電話はいとも簡単に切られた。 「なんなんだよぉっ」  家族、友人、知人から自分の記憶を消されてしまった男。  男は泣きながらしばらく公園のベンチで項垂れていた。  街はイレース社の広告であふれていた。  連日記憶を消してもらいに訪れる人々でイレース社の前には長い列が出来ていた。  その列にあの男が姿を現したのはそれからすぐのことだった。 『今までの記憶を消して新しく生まれ変わってみませんか』  イレース社の宣伝文句はいつの間にかそう変わっていた。            完
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