知らぬが仏 言わぬが花

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「な、結構ええ部屋やろ」  何やら得意げな夫の言葉に明子は曖昧に頷いた。確かに独りで暮らすには2LDKは十分すぎるほどの広さだし、内装もスッキリとしていてセンスが良い。 (ただ……この感じ……)  3月から静岡に単身赴任することになったと夫の「良夫」に聞かされた時、一般的な会社勤めの経験がない看護師の明子はびっくりした。55歳になる良夫の年齢になってもまだそんな遠くへ転勤することがあるのだなと驚いたのだ。  明子は結婚してからも看護師として働き続けていたので、良夫は大抵の家事は自分で出来る。独り暮らしになってもその点で困ることはないだろう。むしろ自由にのびのびとシングルライフを満喫するに違いない。  明子は人生で久方ぶりに独りの自由を手に入れた夫を少しうらやましく思った。  2月の終わり。良夫は独り静岡にある会社の用意してくれたマンションへと旅立った。必要最低限の電化製品や家具は備え付けられているとのことで、その他に必要であろう引越しの荷物は明子が準備して事前に送っていた。  勤務先の病院に事情を話し3日間の連休を貰った明子が、良夫の独り暮らしの部屋を訪れたのは3月に入って間もない今この時が初めてである。まだ段ボールが積み上がっているものだと思っていた明子だったが、良夫は思いのほか自分で片付けに精を出していたようだ。 「わざわざ来てくれんでも良かったのに。結構片付いてるやろ」   「せやけど3年も住むんやから一応どんなとこか見ときたかったし……何よ、折角の独り暮らしの邪魔すんなやってこと?」 「そんなん思てへんわ、なんやねんお前その言い草は。そうか、やっぱりアレか、ちょっとは心配してるんか?」  ニヤニヤと聞いてくる夫を明子は呆れたように見つめた。 「何を心配すんねんな」 「その、ほれ、アレ、浮気とか不倫とかあるやろ」 「アホくさ。どこの物好きが50過ぎのくたびれたオッサン相手にしてくれんねん。大金持ちならいざ知らず」  明子の悪態に良夫は更にニヤニヤした。 (知らぬが仏や、オバハン。俺かって捨てたモンやないんやど)  転勤そうそう良夫は、静岡の社内で20代半ばの綺麗な女性社員に声を掛けられた。何でもその女性は良夫の前にこの部屋に住んでいたのだという。独りでこの部屋に住んで居て何か困ったことはないかと妙に真剣な表情で話しかけてきたその女性に良夫は調子よく笑って見せた。 「いや~。嫁はんが看護師やってるもんで家事は若い頃から折半してやってきたんですわ。炊事も洗濯も独りやからって特に難儀することもないし、子供らももう大きなってまともに話もしてくれへんしねぇ。どっちか言うたら久々の独り暮らしにワクワクしてますねん」  女性社員は、そうですか……と神妙な面持ちのまま、何かあったら相談に乗りますのでいつでも声を掛けて下さい、と良夫の目を見つめてそう呟くと去って行った。   (なんや、アレ)  あんな若い女性に相談するような事があるとも思えないが悪い気はしない。後になって何やら胸がドキドキしてきた。 (どーゆうこっちゃ。ひょっとして……いやいやまさかまさか。せやけどわからんど、世の中にはマニアっちゅうのもおるからなぁ……)  都合良く夢想する自分を半ばおちょくりながら、この先の静岡シングルライフに密かに胸をときめかせた良夫なのであった。  そして今、嫁の明子を見ながら良夫は思う。  別に明子を裏切るつもりも家族を困らせるつもりもさらさらないが、やはり人生には潤いが必要なのだ。こっそり夢を見るぐらい赦されるだろう。まぁ明子には言わぬが花だが。  良夫はいそいそとまだ片付け切れていなかった段ボールを開け始めた。  何やらご機嫌な様子の夫を見て明子はため息を付いた。 (知らぬが仏やな……)  この部屋に入った途端、明子は肩甲骨がぎゅっと引っ付いたような気がしたのだ。 (この部屋は、ヤバい……)  明子は自分に霊感があるとは思っていないし、実際幽霊を見たことも無い。しかしときどきこうして「嫌な気配」を感じることがあった。まさに今この瞬間のように。  結婚して新居を探していたときもそうだった。不動産屋で紹介され内見に行った先でも一度こういう感覚を味わったことがある。  立地も良く内装も申し分ない上に小さな庭まで付いていた物件だったが、明子はその家に入った途端に寒気がした。何がどうと言われても説明のしようが無い。ただここはダメだ止めておけと言われている気がした。とにかく早くこの家から出なければと震える自分を抑えるのに精一杯だった。その物件を相当気に入っていた良夫から「どこが気に入らんねん」と聞かれても上手く答えられず「嫌なモンは嫌やからや!」とわがままを通してその家を諦めさせた。    まさに今その時と同じような感覚が明子を襲っている。いや、その時よりも更に激しい。  この部屋から感じるのは「悪意」のようなもの。出て行けと言われている気がする。不思議なことにそれは明子に対してだけのようで、良夫にはその悪意が向けられていないように思えた。何故だろう……女性が嫌いな何かがいるのだろうか。  霊媒師でもない自分の感覚など当てにはならないし、何より明子自身説明が付かないただの「嫌な感じ」としか言えないものである。良夫には言わぬが花だろう。  夫の身に何か危険があるような感じはしなかった。むしろこの部屋は良夫には好意的であるような気さえする。ならば大丈夫だろう……多分、知らんけど。  どんな分不相応な夢を見ているのやら、ニヤニヤとうれしそうに新生活に期待している様子の夫を見て明子はもう一度ため息を付いた。  とりあえずこれ以上夫の新しい同居人(?)を怒らせないためにもとっととこの部屋を出て行こう。泊まるつもりで来ていたがそれは止めた方が良さそうだ。 (せっかく休み取ったし、私も久々に独りで遊びに行こうかな……うん、そうしよう!)  明子はいそいそとまだ片付け切れていなかった段ボールを開け始めた。
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