4.噂と喧嘩

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4.噂と喧嘩

「それじゃあ、俺、仕事だから。またね」  翌朝、いつも通りの爽やかそのものの表情でユウヒは出かけていった。  きいいぱたん、とそっけない音を立てて閉じるドアをカイトは仏頂面で眺める。  ぽつねんと残されたカイトの中に響くのは、声。 ──カイト、好きだよ。  放っておくとリフレインしてしまう言葉を振り払おうと、カイトは洗面台を平手で叩く。じじん、と掌がしびれた。思った以上に痛かった。 「あいつ、一体どんな夢を……」  問いただしてみようか。ちらと思ったけれど、その思い付きをカイトは勢いよく首を振って否定した。 ──え? なんのこと? ってかなんでそんなの気になるの? 寝言の話だろ。  ユウヒならそう言って一笑に伏しそうだ。  こっちの気持ちも知らないで、と言われてもいない彼の言葉に怒りが込み上げてくる。イラつきながら職場である中華料理屋に到着し、鬱憤を晴らす勢いで仕込みに精を出していると、同じ厨房スタッフの川中が話しかけてきた。 「日向ユウヒっているじゃないですか。俳優の。あの人ってうちの常連って本当ですか」  突然飛び出したユウヒの名前に、心臓がびくりと跳ねた。 「川中、知らなかったの? デビュー前から通ってくれてるよ〜、ユウヒくんは」  こう言ったのはマスターだ。ユウヒはあの人懐っこい性格のおかげで、マスターにも可愛がられているのだ。 「えええ〜! 知ってたらサインもらってましたよ。ってかそのユウヒさん、なんか女優の青田杏と噂になってるらしいですよ」 「青田って……え! うそだろ! あのお天気キャスター出身の?!」 「そうそれ! ネットで噂になってて……知ってました? 神崎さん」  川中がマスターからこちらへと目を向けてくる。いや、と答えようとした声が掠れた。  青田杏は……確かに可愛い。ユウヒが眺めていたドラマに彼女が出ていたのを見かけたことだって何度もある。でも、ユウヒが彼女に特別な感情を寄せている気配なんて全く感じなかった。  いや……感じられなくて当然か。四六時中一緒にいるわけでもない。一緒に暮らしているわけでもない。ユウヒは気が向いたらやってくるだけのいわば……通い猫のようなものなのだから。  ユウヒがなにも言わないのはだから、至極当たり前のことで……至極普通の……。 「いらっしゃ……」  ぐるぐるしていると、不自然に途切れた川中のいらっしゃいませが耳に飛び込んで来て、カイトは我に返った。目線を向けると、ぽかん、とした顔で川中が入口を見ている。怪訝に思いながらそちらを確かめたカイトの目に、太陽が飛び込んできた。 「カイト」  きらきらしたいつも通りの笑顔で、ユウヒがひらひらと手を振る。 「え、あれ、ユウヒ、仕事じゃ……」 「なんか共演者が急病とかで、今日スケジュール、飛んじゃってさあ。せっかくだからラーメン食べにきた。ああもう、ほんと、おなかすいたわー」  にこっと笑う。そのユウヒの顔を見ていたら、なぜだか無性に腹が立ってきた。 「暇ならさ……彼女のとこ、行きゃいいじゃん」 「は?」  大きな目がきょとん、と見開かれる。微塵も粘ついたものを含まないさらりとした眼差しに、頭の芯が煮えた。 「こんなところで脂っこい飯なんて食ってねえで、彼女孝行しろって言ってんだよ!」  飛び出した大声に、ユウヒだけではなくカウンターの中にいたマスターも、川中も固まっている。  しまった、仕事中だった、と冷たい汗が背筋を伝う。しかしどう取り繕っていいかわからない。立ち尽くしたカイトの耳に、あっけらかんとした声が飛び込んできたのはそのときだった。 「ああ、ごめんごめん。俺、寄らないといけないとこあったんだった。またね、カイト」  声を発したのは、ユウヒだった。そのまま、ひらり、と手を振り、のれんをからげ、店の外へと出ていく。  こちらに向けられた顔は、笑顔だった。  ちょっと待って、と言おうとして、カイトは唇を噛む。  呼び止めてどうしようと言うのだろう。自分は言うのか? 苛立った理由をユウヒに?  言えるわけがない。 「神崎くーん、お客さん、他にいなかったからまだよかったけど……。常連さんに向かってこんなところって言い方はないだろ〜」  マスターの呆れ声に我に返ると、固まっていたはずの川中もくすくすと肩を震わせていた。 「脂っこい飯ってのもどうなんすか〜。俺、ここの脂っこい飯が好きでバイト入ったのに」 「お前も脂っこい飯って言っちゃってるよ、おい」  マスターの突っ込みに川中が、すんません、と笑う。そのふたりの様子を見ているうちに激しい羞恥が込み上げてきた。  職場で自分はなにをしているのだろう。 「すみません、その……なんか」 「もしかして、青田杏、ファンだったんすか?! そりゃあ腹立ちますよ。わかります」  同情するように川中が肩に手を置いてくる。返事に困って俯くと、マスターが、しかしなあ、と苦い声を出した。 「今のでユウヒくん、来てくれなくなったら寂しいなあ」 「確かに! 俺、サインもらいそびれましたよ!」  どうしてくれるんすか神崎さん、と川中がふざけた調子で言いつつ睨んでくる。その、と口ごもったカイトに向かい、マスターが言った。 「友達なんだよな。ユウヒくんと」  友達。  友達なのだろうか。困惑するカイトの肩をぽん、とマスターが叩く。 「彼女のこととか、言ってもらえなくてショックだったんだろうけど、まあ、さ、ちゃんと仲直りしろよ。友達って結局はさ……他人だから。ちゃんとしておかないとあっという間に縁なんて切れちゃうんだよ?」  この店で雇われ始めて二年。マスターの実年齢も、どんな経緯で店をやることになったのかもカイトは知らない。けれど笑いじわに覆われ、細められたマスターの目を見ていたら、言葉がずんと重く感じられ、頷かずにいられなかった。  友達なんて、思えない相手に……どう言えばいいのか、わからないままに。
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