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2.おにぎりと太陽
日向ユウヒと出会ったのは、とある芸能事務所のオーディション会場だった。所属している者の多くが業界でも売れっ子と呼ばれるタレント、俳優、モデルばかりのこの事務所では五年に一度、公開オーディションが開催される。合格者には例外なく、映画出演など華々しい活躍が約束されていることから、このオーディションは芸能界を目指す若者にとって、登竜門と呼ばれていた。
応募総数12,060人。日本全国で行われた予選会を突破し、最終審査まで進んだのはたったの12人。千倍の倍率を突破した12人の中にカイトと、そしてユウヒがいた。
「はあ、おなか、すいたあ」
みんな思い思いに本番への集中を高めようとしている、そんな中で、その声はあまりにも平和ボケして聞こえて、カイトは思わず声の主を振り返った。
声を発した人物は、カイトがオーディション前のルーティーンとして行うストレッチをしているすぐそばの壁にもたれて座り、ぐったりとうなだれていた。本当に行き倒れてでもいるかのようなその力ない様子に、カイトはストレッチをやめ、彼の傍に歩み寄った。
「大丈夫か? 具合、悪いか?」
「あ〜……いや、寝坊して……昨日の夜もバイト忙しくてあんまり食べてなくて……そのまま寝てここ来ちゃったから……」
声が真実であることを示すように、ぐうう、と間の抜けた音が聴こえてくる。まさか最終審査という大事な日に空腹でふらふらになって会場入りするやつがいるなんて思いもしなかった。呆れたが、落ちかかる薄茶色の髪の隙間から覗く頬の青さに驚き、カイトは自分の鞄から昼飯用にと買っておいたおにぎりを慌てて取り出した。
「食えよ。そんなんじゃ倒れる」
「えええ……悪いよ……」
「いいから」
強引に彼の手におにぎりを押し付けると、ふうっと顔が上がった。
「ありがとう……あの……良かったら、名前教えてくれる? 命の恩人よ」
弱々しい声でそう言って微笑んだ彼の顔を、正面から見たカイトは、絶句し……そしてその瞬間、敗北を確信した。
それくらいユウヒは周りの誰とも違って見えた。
千倍の倍率をかいくぐってここまできたのだ。容姿が優れているのは当たり前かもしれない。だが、ユウヒには外見の美しさを越える華があった。
その場に佇んでいるだけで周りの視線を吸い寄せてしまう、圧倒的な魅力があった。
空腹で真っ青になりながらも……それでも、そんな顔でさえ、見ていたいと思わせる引力が存在した。
カイトだって、子どものころから俳優に憧れて児童劇団に所属するなど、経験を積んで来た人間だ。決して見目で劣っているということはないだろう。それでも彼と目を合わせた瞬間、負けた、と思った。
事実、その後の審査によって、ユウヒは他の候補者を圧倒する完全なる優勝を果たし、大手芸能事務所の所属俳優となった。
一方カイトは、そのオーディションを節目に、夢を追いかけることをやめた。
もともと、オーディションを受けては落ち、落ちては受けるの生活に疲れていたのもある。だが一番の理由は、あの日味わった絶対的な敗北感をどうしても払拭できなかったからだった。
悔しかった。苦しかった。
子どものときから演技の研鑽を積み続けていたカイトにとって、俳優になる道を諦めることは命を絶たれるに等しいことだと思ってもいた。
でも、もう、無理だった。
忘れようとしても忘れられない。命の恩人だ、と笑った彼のまっさらな笑顔が繰り返し繰り返し瞼の裏に蘇ってきて、夢への道を霞ませる。
寝ても覚めても目の前に面影がちらつく。
あんな才能の塊を目前にしたらあてられるのも仕方ない。夢を失ったのは辛い。でも、日光めいたオーラを直視したら、ずっとしがみついていたものにだって諦めがつく。きっと彼のことを思い出すのも、一時のことだ。そう思っていた矢先だった。
「わ! わ! カイトじゃん!」
中華料理屋のカウンターの中でラーメンをゆでていたカイトの名前を大声で呼ぶ者があった。もうもうと上がる湯気の向こうを透かし見、思考が完全に消えた。
ユウヒだった。
初めて見たときと同じ、飾らない、花丸をつけたくなるような笑顔がまっすぐにこちらに向けられているのを見た瞬間、カイトは悟った。
自分は、彼の才能にあてられていたんじゃない。この笑顔に完全に魅せられ、見ていたい、と思ってしまっていたのだ、と。
「え、え、ちょっと! カイト、泣いてる? どした? なにかあった?」
ぽろり、と零れだしてしまった涙をユウヒに見とがめられ、カイトは慌てた。
「湯気が目にしみたんだよ!」
できるだけ乱暴に響くように言い、ごしごしとTシャツの肩口で頬を拭うカイトに、そっか、とユウヒは笑ってこう言った。
「ああ、それにしてもおなかすいた。チャーシューメン、お願いします」
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