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5.暗号と本心
重い体をひきずって家にたどり着き、鍵を開けようとしてカイトははっとした。
鍵が開いていた。閉め忘れていたのだろうかと焦った。が。
「おかえり」
カイトの予想を裏切り、室内から陽気な声が聴こえてきた。
友達とも思えない相手が、玄関の上がり框に正座してこちらを見上げていた。
「なんで……いる?」
「なんでって。あんな態度取られたら、理由を訊きたいと思ってもいいのでは?」
確かにそうだ。しかしどう答えていいかわからない。黙ったままのカイトを見上げ、ユウヒが首を傾げる。その顔を見ていたら収めたはずの憤りが再び湧き上がってきた。
「俺のとこより彼女のとこ行けって思っただけ」
「彼女?」
「青田杏。ネットで噂になってる」
ユウヒは黙ったままだ。図星かよ、と肩を落としつつ、玄関で靴を脱ぐ。ユウヒは小柄とはいえ、狭い玄関に正座されていると部屋にも入れない。どけよ、と言いかけたときだった。
「おなか、すいた」
「……は?」
「その噂の原因。俺の投稿のせい」
言いつつ、ユウヒがスマホをポケットから引っ張り出す。ちょいちょい、と操作し、画面をこちらに向けた。
ONAKASUITA
AOTAAN SUKI
「ネットでさ、俺が、おなかすいた、って連投するの見て、言い出したやつがいたんだよ。これアナグラムで青田杏好き、ってひっそり想いを伝えてたんじゃないか、青田杏さんの事務所は恋愛禁止だとかいろいろ厳しいとこだしって。しかも青田さんもさ、うっかりSNSで俺の演技褒めちゃったらしくて。で……付き合ってるんじゃみたいな話になって、広がっちゃって」
けどさあ、とユウヒは肩をすくめた。
「付き合ってる相手にSNS使ってこんなの言うか? 付き合ってたらもっと直接的な言葉を直に伝えるでしょうに」
第一、と語調荒く呟き、ユウヒはぱたん、とスマホカバーを閉じる。
「おなかすいたって連投したのは……誰かに伝えたかったからじゃない。そう言うと、好きな人の顔、思い出せて……俺が嬉しかったから」
「好き、な人……」
ずくり、と胸が痛む。知らず唇を噛んだカイトの前で、ユウヒが突然立ち上がった。
「おなか、すいたよ。カイト」
「は……え……?」
「だから! おなかすいたんだって! なんか作って食べさせて。いつもみたいに困った顔しながらさ」
言いながらユウヒが手を伸ばす。ぐい、と抱き寄せられ、息が止まる。そのカイトの耳元でユウヒが言った。
「本当はそばにいるべきじゃないって俺だって思うんだ。夢を諦めたカイトの近くに俺がいたらだめだってことくらい。俺なんかよりカイトのほうが何倍も輝いてるのにさ。でも」
ぐすり、と洟をすする音が聴こえてきてぎょっとする。ユウヒはカイトの肩に顔を伏せたまま叫んだ。
「それでも見ていたくて……おなかすいたおなかすいたって言えば……カイトは面倒見がいいから、こっち見てくれる。だから」
おなか、すいた。
あの日、初めて会ったあのとき。青ざめた顔で笑った彼を思い出す。
負けた、と思った。でもそれでも、そんな相手でも、おにぎりを差し出した瞬間見せてくれたあの笑顔がそばにあってくれるなら、もうなにもいらないとなぜか思ってしまったのだ。
そう、思っていたのに。
その彼が言ってくれる。俺なんかより輝いている、と。
必死に演技に向き合ってきた自分の面影が蘇る。
……なんかもう、今、初めて、報われた気が、した。
「食いたいもの言えよ」
かじりついてくるユウヒの体を抱き寄せて言うと、反対にユウヒの腕から力が緩んだ。涙に濡れた大きな瞳がゆらり、と揺らめく。
綺麗だ。見とれているカイトの前で、ふっとユウヒが伸び上がる。
柔らかくカイトの唇を塞いだユウヒは、キスを解くと、はにかんでこう言った。
「もう、もらった」
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