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まあまあ、そう答えると、鷺沢はなにも言わずに自分の本に視線を戻した。
それでなんとなく、場があったまった、そんな気がしたんでーー昨日、なにしてたの、って聞いてみた。
と、鷺沢は、
「……話をしてたの」
って答えた。
「なんの話」
鷺沢は、しばらく黙ったあとで、
「ずーっと、『痴漢させて欲しい』って言われ続けてたの」
って言った。
おれは黙って口を開けてーーまるでその奥の喉から首へと大きな穴が空いちまってーーヒューヒュー風が通り抜けてるような、そんな気がしながら鷺沢を見つめてた。あいつは平然と、両手で手にした文庫に目をさらし続けてる。
このとき、おれはなぜかふと、あの東横線の滝野さんのことを、思い出してた。実は先日、久しぶりに会ったばかりなんだ。
……なあ、鷺沢。
あの男は、たぶんヤバいぞ。
おれはそう言おうか迷ってた。でも、急に滝野さんの顔がまた浮かんできてーーじゃあきっと、その女性もヤバいんじゃない? そう言われる気がしたんで、おれは黙り込んだ。
しばらくお互いに無言になったあとで、唐突に鷺沢が、
「……なにかが、ヘンなの」
そう言った。
「……なにが?」
そう聞いても、鷺沢はなにも答えなかった。
❇︎
寿方健二、って、その人は名乗ってた。そして当然のように、今朝もその寿方さんはいるんだろうと思って電車に乗り込むと、案の定その姿が目に入った。
先日私は、一方的に話を聞かされただけで、なんの返答もしていなかった。なのでまた、強引に痴漢されるのかと思って身構えているとーーその憶測は外れた。
その人は、私になにもしてこなかったのだ。
私はただ、背後にその人の「存在」だけを感じながらーー黙って電車に揺られつつ、先日「自分たちの集まりに来ないか」と言われていたことを、思い返してた。
❇︎
渋谷の街、っていうのは、来るたびにいつもなにかに似てるな、って思う。
でも、それがなんなのか、ってことは、いまだになかなか思いつかない。
鷺沢さんはーーさっきから薄青いような夕闇がプラネタリウムのように包む中、たくさんの人でごった返すスクランブル交差点で、信号待ちしてる。
服装チェック。黒のライダースジャケットに、クリーム色のタートルネックのセーター。プリーツの入った茶色のスカートを履いて、同色のブーツを合わせてる。
メイクもバッチリで、とても自分のイッコ下の学年の子とは思えない。せいぜい女子大生か、なんなら幼顔でそれ以上、と言われても、べつに違和感はないくらいだ。
やがて、信号が青に変わると、それまで信号待ちしてた人々が、いっせいに動き出した。私は、いつもこの瞬間を見るのが好きだ。
この光景は、フシギと何回見ても見飽きないし、じっさいスタバの前あたりで、座ってMacBook開いたまま、ジッ、と眺め続けてることもある。
この感覚をーーなんとかコトバで表現できないかなと思って、いつも頭を巡らせてるんだけど、なかなか出てこないのだ。
それで先日ーーフダン自分の作品を公開してる小説投稿サイトで、ある人の作品を読んでたらーーふいにこんなコトバとぶつかった。
「擦過」
……あ。これじゃん。って思った。
と同時に、このコトバをチョイスした作者さんのそのセンスのよさに、つい感心しつつ嫉妬もしてしまった。
でさっそく、自分の作品でも使おうと思って試してみたんだけど、やっぱりうまくいかない。
安易に他人のコトバを表層だけ真似ても、決してうまくはいかない、ってことだ。
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