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あんまりあからさまに、すぐに振り向いたりしちゃ、たぶんダメなんだと思った。この手の動きから想像して、相手はたぶん、私の背後らへんにいる。
さっきこの電車に乗り込んだとき、それとこれまでの停車駅でも、乗車してきた人たちをできる限りチェックはしていたけど、その中に先日の朝の三人はいなかった。それは間違いない。
でも、この手の感触は、間違いなく昨日と同じなのだ。
てことはやっぱり、私はこの人のことを見逃していたのか。
さっきから男の人の手は、私のお尻をゆっくりと撫ぜまわしたり、そのワレメ(あ、なんかエッチな言い方ですいません)を指でそわせたりしてる。
この種の嫌悪感って、たぶん私たち女にしか、ゼッタイに感じられないものだろう。私たち女は、そのカラダで、っていうか、そのカラダを構成する、その細胞一つぶ一つぶでーー全力である種の価値判断をする。
その価値判断は、ものすごく絶対的で、明晰で、揺るがなく、かつ方向、みたいなものも持ってる。
その方向はーーただまっすぐに、相手の男の人をまなざしているのだ。
そして私たちは、その細胞一つぶ一つぶの発する声を民主的に寄せ集めて、あるジャッジを下す。
そのうち男の人の手が、私のお尻からだんだんと上の方へと上がってきた。
ちょうど背中にあるブラの留め具あたりに移動し始めている。
私は、これからさらに自分の胸にまで手を伸ばしてきたら、大声をあげよう、と決めていた。
こういうせっぱつまったタイヘンなときに、たぶん超ヘンなんだと思うんだけどさーー私には、この当該のせっぱつまった状況、っていうのはつまるところ、いったいどういうことなんだろう、とかって妙に客観的に、他人事みたいに見て考えてしまう、そんなヘンなクセがむかしからある。
たとえば、いまのこの状況だったら、なぜ私は、胸まできたら声をあげよう、とかって判断したのか、と考えてしまうのだ。
さっきも言った、私の兄貴の譲はいま、茨城にある大学で、民俗学の勉強をしてる。でーーなんだっけ、哲学、っていうの? それとかなにーー思想? とかなんか、まあよくわからないけどそんな小難しい本を、もうたっくさん死ぬほど読んでいる。
で、ある日そんな譲に、私はこう質問してみたことがある。
私たち女ってーーなんでこう、おっぱい、とかお尻、とかっていうふうに、分かれてるんだろう、って。
とたんに譲は苦笑いしたまま、頭を抱えて考え込んでしまった。でーー苦しまぎれに、フランスのなんとか、って人がこんなことを言っていた、って私に教えてくれた。
そういう、分かれてることを「領土」っていうんだ、って。
「領土」とかっていきなり言われても、なんのことだか私にはさっぱりだ。でも、その言葉ですぐに思いつくイメージ、というものが、私にはあった。
それは、私たちのカラダはーー地球儀のようなものだ、っていうものだ。
それは、常々思っていた。
で、いまのこの状況で例えるとするならーー私はお尻ならなんとか耐えられるけど、胸までこられるともうムリだ、って判断したワケだ。
つまり、その行為は、私の「領土」を侵食するのだ。
地球儀で例えるなら、私という国の、この地域に戦争を仕掛けられてもまだなんとか耐えられるけど、次のこの地域に攻め込まれれば、もう我慢はできない、ってことだ。
だったら、どうするか?
……であるなら私は、全力で反撃を開始しなければならない。
私は男の人の手がもう一度下の方に下がっていったのを見計らって、その手をそっと握った。一瞬、その手が二秒くらい止まったあとで、ぐっと握り返してくる。
私はーーその手の握りしめそのものでもって、考えられる限りの「愛」を表現してみた。
あなたは、もう何も心配しなくてもいい。私は、あなたのすべてを許しーーあなたを包み込んで、癒してあげる。
そう、完全に思い込むようなーーそんな「愛」だ。
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