思い出の花

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 数日後、大量の布とインク、筆がエリーナの部屋に運び込まれた。 「すごくたくさんね」  エリーナがぽつりと言うとデイビスが口を開いた。 「予備も多めに用意しましたから。エリーナお嬢様、大旦那様によろしくお伝えください」 「ええ。そういえばおじいじ様が五時になったら墓所の掃除に来て欲しいって言っていらしたの。お掃除なんてデイビスの仕事じゃないわよね?」  彼はふと笑って髪を撫でつける。 「大旦那様の仰せなら従いましょう。伝言ありがとうございます、エリーナお嬢様」  彼は頭を下げて去って行った。 「おじいじ様ってすごく尊重されてるわよね。お掃除なんてデイビスの仕事じゃないはずよ」  アヤメはふと笑ってエリーナの頭を撫でる。 「大旦那様は掃除とおっしゃっただけで二人きりで話されるためにお呼び出しになったのでしょう。それを察したからデイビスもそのように返事をしただけです」 「普通に呼び出すのじゃダメなの?」 「何かしら取り決めがあるのかもしれません。そこまではわかりかねます。大人のやり取りをあまり詮索するものではございませんよ、お嬢様」  エリーナはふうとため息を吐いて、アヤメに寄りかかる。 「大人って秘密ばっかりね」 「知るべきことと、知らなくてよいことに線を引いているだけでございますよ」 「やっぱりわからない。でも、それでいいっておじいじ様も言っていたし、私まだ子供だからわからなくていいわ」  アヤメはくすりと笑う。 「お嬢様は無邪気なままが一番です」 「アヤメ、今日はおじいじ様の書庫で遊ぶわ」 「仰せのままに」  ディオンの書庫の扉はエリーナには開けられなかった。力の問題ではなく、レバーが奥にあるからエリーナでは届かないのだ。本来、エリーナが暮らしている部屋がディオンの私室で、書庫の手前が書斎だったらしい。  ディオンの存在と一緒になかったことにされたガルディーゾ家の屋敷の一部。彼が生きていたころはここがガルディーゾ家の心臓部で華やかな時代にはきっと彫刻だらけの家具で埋め尽くされていたのだろう。  質素な部屋なのに暖炉だけ装飾が多いのは他の部分と違って簡単に削り落とせなかっただけだったのかもしれない。 「ねぇ、お二階にはどうやって上るのかしら?」  書庫に階段らしいものは見当たらない。 「出入り口にしては数が多く、扉もない」  アヤメが示したのは等間隔にある本棚の隙間だった。 「二階にも同様の空間があります」  言われた通りに見上げると、確かに一階と少しズレたところに隙間がある。 「あのどれかが階段なのではないでしょうか」 「そうね。見てみましょ」 「はい」  書庫は少ないながら窓がある。天井近くに明かり取りが並んでいるだけだから、外から見られてしまう心配はなさそうだ。隙間を順に覗いて行くと、椅子があるだけだったり、ランプが置かれているだけだったりしたが、一番奥の隙間には階段があった。  エリーナはうれしくなってアヤメの手を引いて階段を上る。 「天井画とシャンデリアを近くで見てみたかったの」  部屋から出たことのないエリーナには見たことのないものだ。家出の時、劇場で見たものも豪華だったが、ここにあるものは比べ物にならない。煤けてはいるが数多くのクリスタルが煌めき、優雅な腕には宝石が施されている。  ただ星空を描いているのだと思った天井画には星座になぞらえた神々がうっすらと描かれていた。 「すごい、すてきね」 「はい」  夜に来たときにはわからなかったが、本棚の装飾が一階とは違っている。一階は木々の幹や、草花を思わせる装飾だったが、二階は木々の葉や鳥を思わせる装飾が大部分を占めている。 「もっと早くこの部屋を知っていたらきっと退屈しなかったわ」 「そうですね」  アヤメがくすりと笑う。エリーナはシャンデリアと天井画がよく見える場所に座ってしばらく眺めていた。屋敷から出られなくても美しいものや楽しいものはある。ここで守られていれば安全だ。けれど、外にはもっと美しいものや楽しいものがあると知ってしまった。 刺青を消す日、死ぬかもしれない。それでも放っておけば大人になれずに死ぬという。であるなら賭けた方がいい。それはわかっている。 「アヤメ、もしもわたしが死んでもアヤメは生きてね。それで、わたしの代わりにたくさん世界を見て。できるだけきれいでキラキラしたものをたくさん。それでね、季節のお花をわたしのお墓に……」  唐突に抱きしめられてエリーナは言葉を切る。 「死なせません。世界を見るのはお嬢様のお役目です。気弱なことをおっしゃらないでください。アヤメは、アヤメはずっとお嬢様にお仕えすると決めているのですから……」  ぽつりと落ちて来たのはアヤメの涙だった。いつも毅然と顔を上げていて、少し厳しい彼女が泣くことなどないと心のどこかで思っていた。そんな彼女がエリーナを思い泣いている。エリーナも急に泣きたくなった。 「ごめんなさい、アヤメ。わたし死なないわ。おじいじ様とお父様のお許しが出たら、きっと一緒に旅行に行きましょうね。今度は家出じゃなくて、ちゃんと準備して計画を立てて遠くに行くの。おじいじ様の言っていたアーケード、大きなお城、美術館、行ったことのない場所にたくさん……」 「はい。約束ですよ、お嬢様」 「ええ、約束」  二人は小指をきゅと絡める。 「こんなところにいたんだ。探したよ」  階段をゆっくり登って来たのはディオンだった。いつの間にか日没が過ぎたらしい。 「おじいじ様、御用事は済んだの?」 「うん。伝言ありがとう、エリーナ」  ディオンはエリーナの隣に腰を下ろした。 「僕も子供のころこの天井画が好きでよくここで見上げたよ。懐かしいな」  彼はふと笑う。やつれていても若く見える彼が急に年老いて見えた。 「このお部屋、おじいじ様が作らせたのではないの?」 「僕の祖父が作ったんだ。十七代目当主。祖父がガルディーゾ家を大貴族たらしめた人。その権力の象徴として建てられたのがこの屋敷。なのに僕が台無しにした。その頃にはもう亡くなってたから何も言われなかったけど、申し訳なくは思ったよ。曲がりなりにも僕は十九代目当主だったから。この大図書館も壁の中。せっかくこんなに素敵なのにね」  ディオンはふうとため息を吐いて、エリーナの頭を撫でる。 「立派な人間にならなくてもいい。ただ生きていてくれるだけで十分だ。我が子や君たち子孫にはそう思えても、自分にはそう思えなくてね。後悔のないように生きるってとても難しいことだと思う。生きれば生きただけ、後悔が増えるから。それでもそれなりに生きることだってできるはず。エリーナは上手に生きるんだよ」  彼のやさしい垂れ目で見つめられて、エリーナはなにも言えなくなった。長い時を越えて生きてきた彼の抱える後悔は数多く、もはや取り返しのつかないものなのだろう。謝りたい人は死に絶え、やり直すこともできない。 「年を取ると説教臭くてよくないや。エリーナ、特別な仕掛けを見せてあげる」  彼に手を取られてついて行くと、本棚の陰にハンドルがあった。 「回してごらん」 「回すの?」 「うん」  最初は硬くて回りにくかったが、回り始めるとだんだん軽くなった。ハンドルからではなく天井からもカタカタと音がし始めた。エリーナが疲れたのに気付いたアヤメが手伝って勢い良く回すと天井に違う模様が現れた。 「あっ」  思わず声を発するとディオンが得意げに笑う。 「いつものが夜の天井。これは昼の天井」  星と神々ではなく、太陽と花々が描かれた華やかな天井画が姿を現した。 「すごいわ、素敵」 「ここにいても空が見えたら楽しいだろって祖父が言っていたのを覚えてるよ。君がここを気に入ってくれたなら好きなだけ冒険して、他の仕掛けも見つけてくれてかまわないよ」 「他にも仕掛けがあるの?」 「うん。最近確認したけど、壊れてないのもいくつかあるから探してごらん」 「ええ、おじいじ様が来る前に探すことにするわ。そういえば、デイビスがおじいじ様の頼んだ物を持ってきてくれてあるわ。あれはどうするの?」 「金のインクでたくさん魔法陣を描くんだ。君を守るためのね。だから魔法陣の勉強もしてもらったんだ。メインのものは僕が描くから、君にはアヤメを守る魔法陣を描いてもらう」 「アヤメが側にいてくれるの?」 「うん。アヤメがいた方がいろいろ安心だから。一緒に勉強してくれたし」  エリーナは思わずアヤメに抱きつく。 「うれしい。そばにいてくれるなら安心ね」 「お嬢様を一人にするわけがないではありませんか」  エリーナはうふふと笑って、撫でてくれた大きな手に頬を寄せる。 「さ、大仕事だよ」  ディオンは伸びをして階段に向かう。 「あ、その前に二人には筆を使う練習してもらわないと」  あるかどうかわからないと言われていた筆が手に入ったのだという。二人が渡された筆は弾力があり、使い方に癖がある。 「どうしてもこの筆でないとダメなの?」  うまくできずにエリーナが音を上げるとディオンが困ったように笑う。 「そうね。これじゃなくてもいいんだけど、インクの含みがいいのと布に描きやすいんだ。線が少しでもかすれると魔法陣は意味をなさない」 「言いたいことはわかるのだけど、黙っているだけでアヤメも大惨事よ?」  アヤメの手元を見たディオンが目を泳がせる。 「あー、これはー、すごいね? アヤメ、字はきれいに書いてたよね?」  アヤメの文字はいつも丁寧で読みやすく、アナマリアが代筆を頼むことも多い。 「力加減が難しくて……ここまでできないとは思わず、納得いきません。できるまで努力しますのでお待ちください」  アヤメはわき目もふらず練習を繰り返す。 「あ、いや、別に普通の羽ペンでもどうにか」 「遅いわ、おじいじ様。こうなったらアヤメは完璧に使いこなすまで練習をやめないもの。アヤメがなんでもできるのは努力の天才だからよ」 「努力はいいものですよ。答えてくれますから」  そう言いつつも彼女は手を止めない。 「答えてくれるまでやめないだけよ。こうなったアヤメは誰にも止められないわ。わたしももう少し練習する」 「うん、そうね。僕も使いこなすのに結構練習したもの。手首じゃなくてもっと腕全体で描くようにするといいかも」  エリーナはしばらく頑張って練習したが、眠くなってベッドに入った。けれど、アヤメはそのまま練習を続け、エリーナが目覚めるころには使いこなしていた。  努力はこうするのだと手本を見せられているのを感じるが、彼女ほどはできないとエリーナは思うのだった。
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