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翌夕、エリーナはディオンが来るのを待っていた。早く彼に話したいことがある。けれど、彼はなかなか来なかった。
「おじいじ様、どうかなさったのかしら?」
ぽつりと言うと本を読んでいたアヤメが顔を上げた。
「昨夜、かなり無理をなさっている様子でした。元々が丈夫でなく、本来とは在り様が違うお方。今日はお加減が悪いのかもしれませんね」
「そうね。おじいじ様、いつも顔色が悪いもの」
エリーナはふうと息を吐いて、傘の柄をなぞる。
「おじいじ様のおかげでわたしは精霊と仲直りできたの。おじいじ様も精霊と仲直りしてほしいの。わたしの精霊が手掛かりをくれたからお話ししたいのだけど……」
「もう少し待ってみましょう。それでもおいでにならなければ私が様子を見に行ってきます」
「ええ、そうしましょ」
待ってみてもディオンはやって来ず、アヤメが様子を見に行こうと席を立つ。隠し扉を開けると彼が倒れこんできた。
「大旦那様!」
「おじいじ様、どうしたの?」
呼吸が乱れ、いつもは冷たい彼の身体が熱い。
「大丈夫、大丈夫だよ」
そう繰り返す彼の目は潤み、自力で立つこともできない。アヤメは急いでディオンをベッドに運ぶ。
「心配いらない。たまにあるんだ。薬が、効かなくて」
苦しい息の下から言い募る彼は胸を押さえていた。
「氷をもらえないかな……」
アヤメはすぐさま隠し通路に向かう。
「おじいじ様、大丈夫よ、アヤメがすぐに持ってきてくれるわ」
「ありがとう、リリア」
「おじいじ様? わたしはエリーナよ?」
「そうだね、ごめん」
熱に浮かされて彼は過去の人を呼んだのかもしれない。彼はいつも寂しさに押しつぶされそうになりながら必死に日々を過ごしているのだろう。
「おじいじ様、わたしが側にいるわ」
「君はやさしい、いい子だね。僕みたいになっちゃいけないよ」
苦痛に呻いた彼は意識を失くした。愛する人々のために蘇り、苦しみ続ける彼の手を握ってエリーナは涙を落とす。
いつもやさしい笑顔の下に隠されていた彼の悲しみや苦しみが垣間見えた気がした。
戻ってきたアヤメが氷で彼の身体を冷やす。
「気休めかもしれませんが、薬も持ってきました」
「薬が効かなかったって仰っていたからいつも飲んでいるものの方がいいのではない?」
「それが効かなかったのでしょうから、別の薬を試すのも手でしょう」
アヤメは赤ワインに薬を溶かす。
「なんでワインなの?」
「大旦那様が少量のワイン以外受け付けないと以前仰っていましたもので」
少し不思議には思ったが、彼が妙に赤い飲み物以外口にしているのを見たことがない。あれが薬の溶かされたワインなのだろう。
アヤメはディオンを抱き起して、唇にグラスを宛がう。
「大旦那様、薬です。お飲みになってください」
意識を取り戻したディオンは朦朧とした目でアヤメを見る。
「ありがとう、マリアンヌ……」
彼は熱に浮かされ過去の幻を見ているらしい。
「ごめんね、夫らしいことがなにもできなくて、ごめんね……」
繰り返し謝る彼に薬を飲ませ、そっと横たえる。彼はぽろぽろと涙を流しながら眠りに落ちた。
「休ませて差し上げましょう。大旦那様のご病状は本来良くも悪くもならないはずのもの。何らかの事情で薬が効かなかったにせよ、お休みになれるのなら、その方がいい」
エリーナはアヤメに促されて寝室を出る。良くも悪くもならない。それならば今日の彼の姿が、本来のものなのだろう。ボロボロでいつも苦しんでいる。今日はここに来ない選択もできただろうに、来てしまったのは孤独に苛まれて逝ってしまった家族を探していたのかもしれない。
「おじいじ様、わたしをリリアって呼んだの。リリアがおじいじ様の娘なのかしら?」
「そうでしょうね。マリアンヌが奥様。お寂しいのでしょう」
アヤメはため息交じりに言った。
「アヤメはおじいじ様から何か聞いているの?」
「お嬢様がお眠りになられた後、雑談にはよくお付き合いしておりますもので。大旦那様が左手の手袋を絶対に外されないのは結婚指輪を落としてしまわないようになさっているのだそうです。元気だったころより指も痩せてしまって抜け落ちてしまうのだとか。奥様を深く深く愛しておられたのでしょうね」
彼は時折、左手をそっと撫でる。大切なものを包み込むように愛おしそうに。そしてひどく悲しそうに遠くを見る。彼の抱える孤独と悲しみは癒しがたいものなのだろう。
「おじいじ様はいつからご病気なのかしら? さっき夫らしいことが何もできないって仰っていたけど」
「奥様が二人目のお子様を宿した頃に倒れられたとお聞きしましたよ。身重の妻に幼い子供。死にきれないのも無理はないかと」
「そう……」
彼の幸せな時間はひどく短かったのだろう。
「迷惑、かけちゃったみたいだね」
声のした方に視線を移すとディオンが壁にもたれるように立っていた。どうにか持ち直したが、本調子ではないらしい。
「平気よ。おじいじ様、大丈夫?」
「なんとかね」
ディオンは勧められた椅子にどさりと座る。
「もう少し休まれたら?」
「休んでも変わらないんだ。エリーナ、その後、変調はない?」
「ないわ。おじいじ様のおかげで精霊と仲直りできたの」
「それはよかった」
ディオンはやさしくほほ笑む。
「それでね、精霊がおじいじ様の精霊は最初のお願いを聞いて守り続けてるって教えてくれたの。だから」
ディオンが唐突に机に伏し、耳を塞ぐ。
「聞きたくない……確証はあるの? 僕は死ねるの? 確実に? そうじゃないならそれ以上話さないで」
「確証はないわ。でも、可能性があるなら賭けた方がいい。おじいじ様もそう仰ったじゃない!」
「君の場合は勝算があった。僕は何度も、何度も、数えきれないほど失敗した。その度傷ついて苦しんで! もう期待したくない……」
彼の細い肩が震える。アヤメが彼の肩をがしりと掴み、顔を上げさせる。
「聞きもせずにいじけるのは子供のすることではございませんか? 大旦那様。エーテルの精霊を宿した子孫はお嬢様以外におられましたか?」
「いない」
「自らの精霊が大旦那様の精霊と話したと仰った子孫は?」
「いない。でも!」
「ご自身の精霊の状況を知ったことは!」
「ない……」
アヤメの追及にディオンは項垂れる。エリーナは彼がかわいそうになり、口を挟もうとしたが、アヤメが先に口を開いた。
「ショウエモンの子孫がここにたどり着いた奇跡が起きたのです。奇跡を信じてみませんか、大旦那様」
彼の目から大粒の涙が零れ落ちる。
「信じたいんだ、本当は……でも、怖いんだ。心も、身体も痛くないところなんてないはずなのに、傷つくともっと痛くなる。エリーナ、僕、途中で逃げだすかもしれない。それでも、聞かせてもらっていいかな?」
エリーナは彼の薄い手を取る。
「おじいじ様、わたし、おじいじ様が大好きよ。だから、おじいじ様を助けたいの」
「ありがとう、エリーナ」
彼は泣きそうな顔で笑う。
「おじいじ様の精霊は最初のお願いをずっと守っているのですって。おじいじ様と精霊が話す方法がわかればいいのですって」
「僕が自分の精霊と話す……自分の精霊と話したのは一度きりなんだ。それ以前に聞いた記憶もないし」
「刺青が消えて精霊と話せるようになったら、小さいころのことを思い出したの。あの傘のこと。傘を開くと必ず精霊が姿を見せてくれたからお母様の傘を持ち出してた。おじいじ様も同じように何かしらの術をかけられている可能性はない? 五歳より前の記憶がないと仰っていたじゃない」
彼は考えるように泣き黒子をなぞる。
「そうか……確かに。僕以前にも力のある子どもが生まれていないはずがないんだ。ガルディーゾ家に生まれる頻度はかなり高いのだもの。僕が生まれたころから魔女狩りが始まった。それ以前は隠さなかったものを隠そうとするのは自然な流れだ。父の日記を確認してみるのも手かもしれないな」
「日記?」
「うん。大貴族の当主は必ず日記を残すものなんだよ。今は違うかもしれないけど。僕のころはそうだった。子孫に残す指針とか、備忘録としてね」
「おじいじ様の日記もあるの?」
「君が見つけた仕掛け箱付きの本がそう。生きてた頃の日記はない。当主になった時点ですでに死にかけだったから執事に丸投げしててね。だから、同時代の執事の日記は残ってる。でも、明日にしよ。今日は調子悪いし、遅くなっちゃったし」
時計は一時を指していた。
「そう言われれば、眠たいわ」
エリーナはあくびをする。
「今日はありがとう。おやすみ、エリーナ」
「おやすみなさい、おじいじ様」
エリーナはベッドに倒れこむ。かすかにディオンの香水の香りがした。
「大旦那様」
こっそり出て行こうとしたディオンをアヤメが呼び止める。彼はびくりと肩を震わせた。
「明日、お逃げにならないでくださいね」
「えっと、その、今日は本当にごめん……」
「事情は察するに余りあると思いますが、態度を急変されてお嬢様を傷つけるような振る舞いはお控えください」
彼は泣きそうな顔をしたが、へにゃりと笑う。
「君がエリーナ第一でうれしく思うよ」
「当然でございます。お体の具合がよくない場合、そのまま柩にいらしてください。日没から二時間が過ぎたら様子を伺いに参りますので」
「ありがと。君って本当にやさしいね」
アヤメは思わず視線を逸らす。
「務めを果たしているだけでございます。ご自身のためと思うと身動きが取れなくなると仰せならお嬢様のわがままに付き合うだけと思し召しください」
「そう、そうだね。そうするよ。ありがとう、アヤメ」
「礼ならお嬢様と遊んでくだされば十分です」
「うん。それでもありがと」
ディオンはひらりと手を振って去って行った。少しは彼の気持ちを軽くできただろうか。弱っている彼に恫喝するような真似をしたことをアヤメは悔いていた。けれど、留まり続ける彼をこのままにしていいとも思えなかった。手掛かりを追えば、彼は命の環に戻れるのだろうか。
答えは誰も知らない。
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