思い出の花

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 翌日、エリーナは日記が並べられた棚からディオンの父の日記を引っ張り出した。十年分ずつ三冊。おおよそ三十年の記録。それがディオンの父が当主だった期間なのだろう。それが長いのか短いのかエリーナにはわからなかった。  ディオンの一年が短いのはわかるのだが。 「手掛かりってどの年のあたりかしら?」  アヤメは困ったように笑う。 「大旦那様を待たれた方がいいのでは?」 「おじいじ様、来てものらりくらりで逃げそうだもの」  彼女は苦笑いを浮かべた。昨日の様子を見たら否定できないのだろう。アヤメは咳払いをして真ん中の日記を指さす。 「大旦那様の父君は大旦那様が二十二歳のころにお亡くなりですので、大旦那様の出生以降ということで、こちらの日記に手がかりがある可能性が高いかと」  彼女の言い分はもっともだ。エリーナはその日記を開く。 「おじいじ様って末っ子なのね。待望の嫡男って書いてある。六人目ですって」 「確かにご姉弟は姉君ばかりだったとは仰ってました」 「特別なことは書いてないけど」  エリーナはページをめくっていく。 「あら? ここのページがないわ」 「切り取られたように見えますね」  アヤメはページ手を滑らせる。明らかに数ページ失われている。 「おじいじ様が五歳のころみたい」 「大旦那様が記憶がないと仰っていたのも五歳以前。やはり何かあるのでしょうね」 「やっぱりないんだ」  不意に彼の声が聞こえて二人は顔を上げる。 「やっぱりとは?」  アヤメはかまわず問う。彼女は彼が来ていたことに気付いていたのかもしれない。 「薄々そんな気はしてたんだ。父とヘンリー・ベイユ……当時の執事は僕に何か隠してた。それが徹底的に隠さなきゃいけないことなのは確かで僕が死んだとき彼が繰り返し謝っていたのも覚えてる。自分のせいだって。彼の日記は確認したことがあるんだ。同じようにページがなかった。それに何度も僕に謝るような、神に許しを請うような文言が書かれていたんだ。僕が早世したのも自分のせいだって。なにかあったのは確かだけど、手掛かりは途切れてる。やっぱりたどり着けないんだよ」  ディオンは白い手袋に覆われた左手を抱きしめるように撫でる。その顔は悲しげで、寂しそうだった。 「おじいじ様のお母様の日記はないの?」  彼は複雑そうに目をそらした。 「あるにはあるんだけど、僕は母に疎まれていたから何も書いてないと思うよ」 「確認してみなきゃわからないじゃない。それに待望の嫡男をかわいがらないなんて何かある」  ディオンは目を泳がせながら指をくるくる回す。 「あー、日記思ったより読み込んでるね?」 「わたし、読むのが早いの。六人目でやっと生まれた男の子。おじいじ様のお父様は神様に感謝して教会の大規模な修繕をなさってる。それに病院や孤児院に多額の寄付も。そんなに祝われて愛されて生まれて来たおじいじ様をお母様が愛していないはずがないのよ」 「あー、そうね、そうなんだけど……」  歯切れの悪いディオンの視線がちらと本棚を見る。 「その本棚にあるのですね。母君の御名は?」 「ディアナ・ルーシュ・ポワティエ」  ディオンが観念したように呟いた。アヤメがすぐさま一冊の日記を取り出す。一冊が分厚く、何十年も一冊に書いていたようだ。エリーナはすぐに開いて読み始める。 「おじいじ様が生まれたのって何年?」 「一六一二年だけど、やめない? 母が僕を嫌った理由とか知りたくない」  彼と母の確執は浅いものではないらしい。 「一六一二年七月十日、私のもとに世界で一番かわいらしい天使が来てくれたわ。金の髪で青い目の愛らしい男の子。ちょっと垂れ目なところが旦那様にそっくり。この子に会うために私は生きてきたのね。ああ、なんてかわいいの、私のディオン。お母様が守ってあげますからね」  エリーナは読み上げてディオンに視線を移す。 「おじいじ様、十分に愛されているように思うのだけど?」 「母には触れられた記憶さえないんだ。いつも邪険にされてて、同じテーブルにつくのも拒否されてた。そんなこと書いてたなんて信じられない」  母の気持ちというものはわからないが、こんなことを書いた人がそんなに冷たいのは不自然だ。エリーナは日記を読み進める。 「言葉が遅くて心配していたけれど、近頃はよくおしゃべりするようになった。お姉様たちが毎日たくさん話しかけてくれるおかげね。アデライトは一番お姉様なだけあってディオンを一生懸命相手してくれるの。かわいくてうれしくて泣いてしまいそうになる。けれど、ディオンが話してくれるお友達って誰かしら? まだお外には連れて行っていないのに。  これっておじいじ様が精霊のことを話していたのではない?」 「何歳の時?」 「二歳ころよ」  エリーナはかまわず続きを読み進める。ずっと幸せそうに我が子たちを愛するディアナの日記。子供たちを分け隔てなく愛しているようにも読めるが、ディオンをとりわけ大事にしているようだ。 「ディオンのおもちゃが消えることがある。お気に入りのおもちゃのはずなのに気にする様子はない。どういうことなのかしら」 「この時点で力を発揮されているように読めます」  エリーナの後ろに立って日記を読んでいたアヤメが言った。 「三歳ころですので、お嬢様が力を発揮した時期と同じですね」  ディオンは目を泳がせただけで何も言わなかった。彼の覚えていない五歳までの間になにかがあったのは間違いない。 「ああ、神様、ディオンは何者なのでしょう。わたしたちに与えられた試練なのでしょうか? 私たちには見えないお友達。消えていくあの子のお気に入り。どうしたらいいの?」 「相当手を焼かせたみたいだね。嫌われるのも仕方ないや」  彼は複雑そうに肩をすくめる。 「旦那様が仰るにはガルディーゾ家に生まれやすい力を持った子なのだそう。けれど、今は神秘を許さない時代。どうやってディオンを守ったらいいの? この子が異端審問に連れて行かれたら……  そういう血筋だってことは知られていたのね」 「うん。僕も父に聞かされてはいたよ。ガルディーゾの直系で十数人に一人の割合で生まれるそうだよ。昔は子沢山が当たり前で、一、二代に一人は生まれていたみたい。それが僕だとは知らされずに死んだんだけど」  伝えなければいけない秘密ではあるが、隠す方法は決まっていなかったようだ。彼以前の時代は隠さなくても問題のない時代だったのだろうか。 「これ以上は隠し通せない。旦那様が隠れて暮らす魔術師と連絡を取った。ディオンの力を封じ込める魔術をかけてくださるそう。ああ、これで怯えて隠す必要はなくなる。ディオンを思い切り外で遊ばせてあげられる。お姉様たちも一緒に遊べるわ」 「魔術師?」 「日付がおじいじ様のお父様の日記からなくなっていたところよ。この魔術師がおじいじ様の精霊を封じ込めたのね」 「そう、なるね」  ディオンは泣き黒子をついと撫でる。 「私のディオンは普通の子になって帰って来た。けれど、記憶を失ってしまった。ディオンの力を隠すためにはそうするしかなかった。ディオンを守るため。仕方ないのよ。ああ、ディオン……あなたの記憶が戻ってしまわないようにあなたをこれまでのように愛してあげることはできない。抱きしめるのも撫でるのも禁じられた」  ページがわずかに波打ち、インクが滲んだ跡がある。彼女はディオンを疎んじていたのではない。 「かわいいディオン、私のちっちゃなディオン。あなたは私を恨むでしょうね。悲しく思うでしょうね。でも、お母様はあなたを守りたいの。そのためだったら冷血な母になるわ。ナニーの手を私の手だと思って。ナニーの抱擁がわたしの抱擁よ」  ディオンの頬を透明なしずくが流れ落ちた。愛されていなかったと、疎まれていたと思っていた母は彼を愛するがゆえに遠ざけていた。その事実を知って思いを伝えようにも母はない。エリーナは日記に視線を落とす。 「ねぇ、おじいじ様、愛って難しいわね」 「そうだね」  彼は泣きながらそう答え、胸を押さえた。 「母に愛されていたことを知れてうれしいのに、胸が痛くてたまらないんだ」  エリーナは彼の手にそっと手を触れる。 「おじいじ様、ぎゅってしてくださる?」  ディオンは膝をついてエリーナを抱きしめる。 「君は、本当にやさしい子だね……」  少女は孤独な先祖の背をそっと撫でる。みんなみんな逝ってしまった、独りきりの彼。その孤独を想像することもできない。いつも距離を取るような振る舞いをするのは孤独ゆえなのだろうか。 「おじいじ様をこんなに悲しませることになるなんて思ってなかったの。ごめんなさい」 「謝らなくていいよ。母が僕を愛していたと知れたことはとてもうれしい。でもね、もう母には二度と会えない。誤解したまま逝かせてしまった。葬儀で涙一つ流さなかった僕を母はどう思っただろう……別れのキスもしなかったんだ……」  失われてしまった母子の情。もう一度結ぶことはできない。けれど、母の愛は彼を守ったのだろう。結局は意味をなさなかったのかもしれないが。 「お祈りしたらきっと許してくださるわ。一生懸命お祈りしたら思いが届くってお母様が言っていたもの」 「そうだね。ありがとう、エリーナ」  彼はひとしきり泣いて、日記を持ってどこかに行ってしまった。気持ちの整理の時間が必要なのだろう。
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