思い出の花

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「ねぇ、アヤメ、死ってどんなもの?」  ぼんやりと問うとアヤメはふと息を吐く。 「神のみもとに行くこと。魂の救済や休息である。この国ではそう信じられていますね」  彼女はそう言いながら刺繍糸を切る。先日本棚で引っ掛けてできてしまったカギ裂きを刺繍で隠してくれたらしい。 「アヤメは違うの?」  逡巡するそぶりを見せたが、彼女は口を開く。 「洗礼を受け、お嬢様同様の信仰を持っておりますが、祖父は違う考えを持っていました。私は祖父の教えてくれた死の方がなじみ深いと言えるかと。大っぴらに話せば異端とそしりを受けかねない。あまりお話しするべきことではありません」 「知りたいわ。誰にも話さないから教えて」  アヤメは目を伏せ、裁縫道具を片付ける。 「祖父はアシハラの武士でした。この国で言うなれば騎士。その中でも身分が高かったようです。アシハラでは神道が主な信仰でした」 「シントー?」 「この国においては異教の神。太陽神を主神とし、ありとあらゆるものに神が宿ると考え、それらを貴ぶ生き方です。朝には太陽を拝し、食事となれば命の恵みに感謝する。こちらの信仰に比べればひどく幼稚で原始的に思われるかもしれませんが、私はそうした祖父の振る舞いと信仰を好ましく思っていました。父母はあらぬ疑いを避けるため、私が祖父を真似ることを嫌いましたが、心の奥深くに刻まれたものはそうそう変えられぬものです」  アヤメは祖父の代にこの地に移住した。すでに結婚していた息子夫婦を伴い、この地に来た彼らはかつての信仰を捨てざるを得なかったのだろう。この地の神は他を許さない。異端を嫌う。それでもアヤメの祖父は己が身に沁みついた信仰を捨てきれなかった。こっそりと隠れて続けた祈りや願いの仕方は自然とアヤメに受け継がれたのだろう。 「そんな祖父にとって死は自然に帰るものであり、巡り巡るものであったようです。祖父は今際の際にやっと帰れると言いました。祖父は死して故郷に帰ったのだと思ったのです。そう思ったら悲しみが少しだけ和らぎました」  敗戦し、属国のようになってしまった祖国に絶望し、脱出した彼女の祖父はきっと故郷を捨てきれてなどいなかったのだ。遠い異国の地で足場を築いてなお帰りたかったから信仰を捨てることもできず、密かに祈り続けていたのかもしれない。 「アヤメのお祖父様のお考え、わたし好きよ。命が廻るなら寂しくないもの」  アヤメは少し驚いた顔をしてふと笑う。 「そうですね。寂しくないかもしれませんね」 「なんの話してるの?」  のんびりとした声が聞こえて視線を移すと、ディオンがそこに立っていた。いつの間にか日が沈んだらしい。彼は母の日記を持っていた。 「死ってどんなものかってお話。おじいじ様は一度死んだのでしょう?」 「死んだといえばそうね。死んだよ。世界が真っ暗になったと思ったら身体が軽くなって、痛みも消えて、死んだんだってわかった。目を開けたらきれいなお花畑にいたよ。それは果てのない花畑だった。歩くとそこに花が咲くんだ。懐かしい色をしたやさしい花が……お花を見るほどにうれしい気持ちと悲しい気持ち、悔しい気持ち、これまで感じた全部の気持ちが溢れて泣いてしまった。なんでこんなに早く死ななきゃいけなかったんだろうって。マリアンヌのそばにもっといたかったのにって。で、声を聞いて答えたら蘇ってた。あれが死後の世界ならそう。あの花はなんだったんだろうってたまに考えるけど、わからない。というか、エリーナ、こんなこと考えるのはもっとおばあちゃんになってからでいいんだよ。君は年頃なんだから恋とはどんなものかしら? とか考えようよ」  ディオンは手を組んで夢を見るような顔で目をぱちぱちさせる。エリーナは思わず吹き出す。 「なに言ってるのよ、おじいじ様」 「いや、つい。あんまり暗い話題でびっくりしちゃって」 ディオンは軽く肩をすくめる。 「いろいろ考える年ごろなのはわかってる。僕みたいのが側にいたら余計に考えちゃうだろうなってことも……」  ディオンは日記を机に置く。 「母が僕をどう思ってたか、見たままのことしか知ろうとしなかった僕には驚くことばかりで、考えてもわからないことなんてごまんとある。死は誰にでもやってくるものだから考えるなっていうのはおかしいのもわかるんだけどさ、もっと、なんていうか、明るいこと考えてほしいんだよ。君はまだ十二だもの」 「おじいじ様説教臭い」 「年寄りだからね」  彼は肩をすくめて笑って見せる。 「君のおかげで母の本当の気持ちを知ることができてうれしかった。ありがとう、エリーナ」  頭を撫でられてエリーナは複雑な気持ちになる。 「おじいじ様は奥様に会いたい?」 「急だね?」  ディオンは目を泳がせる。 「聞かなきゃいけないって気がしたの。おじいじ様が死にたい本当の理由」  彼は泣きそうな顔でへにゃりと笑う。 「会いたいよ。見合い結婚だったけど、彼女を誰より愛してた。なのに僕はマリアンヌのためになにもできなくて、迷惑ばかりかけてしまった。早く死んで、同じところに逝けなくても謝りたい。苦痛ばかり抱えた身体を早く捨て去りたいというのも事実だけど、マリアンヌに会いたいんだ。子供たちにも……」  彼はずっと独りでさ迷っている。力を持った子孫を導くのは自分自身を自分に繋ぎとめるためでもあるのかもしれない。 「手掛かりがまた途切れたんだ。母の愛と僕に魔術を施した魔術師の存在を知れただけ。僕はまだ死ねないらしい」  ディオンは深いため息を吐く。彼は諦めることに慣れている。これでおしまいだと感じているようだった。 「ねぇ、おじいじ様、わたし、精霊とお話したの。精霊はおじいじ様の魂が肉体に結び付けられているって言っていたわ。それが解ければもしかしたら精霊と話せるかもしれないって」 「肉体と魂の結びつきか。死ねないってそういう意味だからね。解く方法がわからないんだ。君みたいに魔術を施した痕跡がないかって探してみたけど、見つからないし」 「愛の印のその裏側って精霊は言うのだけど、意味がわかる?」 「え……」  彼の目が驚きに揺れる。 「なんで君の精霊がその言葉を知ってるの?」 「わからないわ」 「そか」  彼はふと息を吐く。 「妻がおまじないと言ってよくうなじにキスをくれたんだ。その時に愛の印のその裏側にって言ってた。意味は聞いても教えてくれなかったから知らないんだけど、何か意味のある言葉なんだろうね」 「うなじ見せて」 「なにもないよ?」  そう言いつつも彼はかがんでうなじを見せてくれた。 「黒子しかないわ」 「黒子あったんだ」  ディオンはついとうなじをなぞる。 「黒子? そう言えばうなじを見せるような髪型にすると執事や父がすっ飛んできたんだよね。首はしっかり隠しなさいって。当時から変だとは思ってたけど、なにかある?」 「もう一度見せて」  彼のうなじを覗き込む。男にしては白く細い首にその黒子が目立って見える。黒子にしては少し大きい気がしてじっと見つめると何か模様があるように見えた。 「アヤメ、虫眼鏡をちょうだい。この黒子おかしい」 「え、うそ」  アヤメがすぐに虫眼鏡を出してくれた。拡大してみるとやはり模様がある。 「ねぇ、魔法陣じゃない? これ」  アヤメもその黒子をじっと見て頷く。 「魔法陣によく似ているように見えますね」 「そんなところにあったとはね」  ディオンは乾いた笑いを漏らす。 「妻は黒子にキスしてたと思っていたのかもしれないけど、魔法陣だったわけだ。できるだけ完璧に書き写せる? 君の刺青を消したみたいに消せれば、状況が変わるかも」  エリーナはアヤメと協力してできるだけ正確に魔法陣を書き写した。だが、書かれた文字が小さすぎてうまく読み取れない。 「おじいじ様、これが限界。これ以上は無理そう」  ディオンは書き写した魔法陣を見て口笛を吹く。 「黒子くらいの大きさにこんなに複雑なのが書かれてるんだ。びっくり」 「だから拡大しなきゃ黒子に見えたのよ。おじいじ様の力を封じ込めた魔術師は器用だったのね」  エリーナはふうとため息を吐く。 「そうだね。読み取れなかった文字は調べれば補えると思うよ。ありがとう、エリーナ」  ディオンはその紙を持って書庫に入ると、大きな机の引き出しの底を開けた。そこには魔法陣の描かれた本が入っていた。 「これまで教えるのに使っていたのとは比べ物にならないくらい魔術の根幹にかかわるものだから隠してたんだ。似た魔法陣が見つかればいいんだけど」  ディオンは本をぺらぺらとめくっていく。 「これかな。一番似てる。力を封じ込めるというより、精霊自体を閉じ込める魔法陣みたいだ。昔はそここに息づく精霊を捕らえて使役するなんてこともされていたそうだから、その応用になるのかな」 「閉じ込めるなんてかわいそう」 「そうだね」  ディオンはふとため息を吐く。 「精霊はもう三百年近く閉じ込められていたことになる。かなり怒っているかもね」 「おじいじ様が死んだときは話せたのよね?」 「そうね。その時は哀れまれたって感じだった。とにかく、話せなかった原因がわかったからかなり前進した。ありがとう、エリーナ」 「まだ解決したわけじゃないわ。わたしおじいじ様の力になりたいの」  彼はエリーナの頭をやさしく撫でる。 「気持ちだけで十分だよ。ここから先は君の命を脅かすかもしれない。だから、これ以上はダメ。たくさんがんばってくれてうれしかった。君のおかげでずいぶんと進めた。ありがとう、エリーナ。大好きだよ」  やさしくやさしくほほ笑まれて、エリーナは泣きたくなった。彼とはもう会えない気がする。色々なことを教えてくれて助けてくれたやさしい先祖。エリーナは思わず彼の袖口からこぼれるレースを掴む。 「わたしも大好きよ、おじいじ様」 「いい子だね、かわいいエリーナ」  ふわと頭を撫でてくれた彼はエリーナの手をそっと握ってアヤメの手に託す。 「君にはすばらしい騎士がいる。君は僕のようになっちゃいけないよ」 「わたし、後悔のないように生きるわ。おじいじ様が教えてくれたことずっとずっと大切にする」  彼はゆっくりと頷いた。彼とはもう二度と会えない。それだけがはっきりとわかった。死に身を委ねることが彼の本来あるべき姿。引き留めることはできない。死への道筋が見つかったことを喜ぶべきなのはわかっている。けれど、胸が詰まって、涙が溢れそうだった。 「さようなら、エリーナ」  彼はエリーナの手に口づけを落とし、ゆっくりと去って行った。 「さようなら……おじいじ様」  彼の長い金の髪がさらりと揺れた。彼が終わりを切望し、精霊にヒントを与えられたときから知っていたはずの別れが叫び出したくなるほど切ない。 「お嬢様、ホットミルクをお持ちいたしましょうね」  アヤメはすぐに砂糖の入ったホットミルクをくれた。彼女はいつもわかってくれる。  
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