最終話

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最終話

 足場が消える感覚で目が覚めた。  現実でもびくん、と体が跳ねて膝が何かにぶつかる。それがとても熱く感じて、利玖は呻いて後退した。  近くにいた誰かが立ち上がり、ドアを開けて外に飛び出していった。  誰だろう。背の高い青年だったから、廣岡(ひろおか)(みつる)かと思ったが、違うだろうか。  ひんやりとしたコンクリートに四方を囲まれた、少し埃っぽい空間にいた。足の下は畳敷きだ。温泉同好会の部室は、いつからそうなっているのかわからないが、誰かが畳を敷き、炬燵(こたつ)を持ち込んで、冬でも夜中に麻雀が出来る空間になっている(利玖はやった事がないのだが)。  炬燵布団をめくると、中でヒータが真っ赤になっていた。ここに膝をぶつけたらしい。  幸い、タイツに焦げ穴はなく、すぐに痛みもなくなった。寝ぼけていたせいで、大袈裟に驚いてしまったのだろう。  しかし数秒後には、大容量の缶ジュースを手に持って、廣岡充が部室に飛び込んできた。  缶ジュースの中身は冷たい炭酸飲料だった。冬の早朝に飲むようなものではない。利玖の膝を冷やす為に買ってきてくれた事は明白だった。部室棟には自動販売機がないので、階段を下りて中庭を横切り、食堂前まで行く必要がある。 「ありがとうございます」利玖は缶ジュースを受け取って膝に当てた。「百六十円ですか?」  充は首を振る。だが、正しい値段を教えなかった。金を受け取るつもりがないらしい。 「え、どうして?」利玖はびっくりした。「教えてください。払います。奢ってもらう理由がありません」  利玖だけが一方的に喋る押し問答の末、ついに、利玖が財布を開いて百円玉を二枚取り出すと、ようやく充は口を開いて、 「印税がある」 と言った。  そんな呪文を唱えられては引き下がるしかない。  バッテリみたいな体積を備えた缶ジュースは、なかなか室温に馴染まず、アイス・パックとしての機能を十分に果たした。アパートまで持ち帰ると炭酸が抜けてしまうから、ここで飲み切りたい所だが、今は胃に入りそうにない。七時を少し過ぎた所。ほとんど徹夜明けの利玖である。  兄のアパートを出たのは、まだパン職人も厨房に来ていないのではないか、というくらいの早朝だった。  街頭キャンペーンで登録した動画配信サービスのトライアル期間がもうすぐ終わるから、見に来ないかと誘われたのだ。映画にもアニメにもさほど造詣が深くない利玖だが、それは兄も同じだから、二人の目的は海外で制作されているネイチャー・ドキュメンタリだった。  昼過ぎに兄の車で買い出しに行き、夕方から鍋をつついて見始めた。  二人とも大学では生物学を専攻している。当たり前のように、本編を見るのに費やした時間よりも、参考文献を探して議論している時間の方が長くなった。ブラウザのブックマークに複数の論文検索サイトが登録されている兄妹である。  気づいた時には日付も変わり、それどころか空が白み始めていた。  すぐにでもベッドに入って横になりたかったが、さすがに兄の部屋で寝るのは気が引けて、帰る事にした。だが、道が凍っているかもしれないから自転車は使えない。何より、徹夜をしたのに運転するのは危険である。同様の理由で、兄に送ってもらう事も出来なかった。 『何か食べてから寝なさい』 と別れ際に兄が持たせてくれたのが、タッパに入った煮物だった。  兄は、利玖が自宅に持って帰ってそれを食べると思ったかもしれない。しかし彼女は大学にやって来た。兄のアパートから自宅に帰る道は、北向きの急な上り坂で、気温が氷点下まで下がった夜明けに踏破するには気合が要る。  その点、大学ならまだ近いし、勾配が少ない東側への移動だけで済む。部室に行けば、炬燵だけではなく、親切な誰かが残していったテイク・フリーの割り箸もあるのだ。  頭の芯に、不自然にしつこく残る痛みに顔をしかめながら、利玖は記憶を辿った。  部室に来た時、蛍光灯も炬燵もついていた。廣岡充がいて、一人でそれを使っていたのだ。ドアを開けた時に正面になる位置、つまり今の利玖と同じ場所に座っていた。  利玖は畳に上がって、奥の棚から割り箸を一つもらった後、再び炬燵のそばまで戻って、ソファに腰掛けて煮物を食べ始めた。  口に入れた時、変わった苦味がして、これはなんの山菜だろう、と思った所までは覚えている。だが、食べられないほどではなかった。  そこまで思い出した所で、違和感に気づく。 「廣岡さん、炬燵を使われていましたよね?」  充は頷き、 「食べ終わったら、眠いって」 と補足した。  つまり、煮物を食べた後、空腹が解消した事による安心の為か、利玖がそのままソファで眠ろうとしたので、充が気を利かせて炬燵を譲ってくれた、という事らしい。ほとんど喋らないから、怖いと思われがちだが、こういう時に、帰って寝ろ、などと言わない辺り、優しいのだよな、と思っていたら、 「ぼんやりしているから、帰って寝た方が良い」 と言われた。  利玖は首をひねりながら立ち上がる。  なぜか、充が場所を代わってくれた事も、タッパを片付けた事もまったく思い出せなかった。  寝不足のせいだろうか。──いや、以前、課題の締め切りに追われて、本当に一睡もせずに夜を明かした事がある。その時の記憶は、さすがに曖昧だが、ちゃんと思い出せる。  釈然としない。  釈然としないのが、当たり前の状況だ。  違う、そうではなくて……。  もっと何か、大きな事を見落としている気がする。  ドアノブを掴んだまま体をひねって、充を見た。  彼の手元を凝視する。  普段なら、そんな無礼な事はしない。だけど今は、なりふり構っていられない、そんな場合ではない、という危機感があった。その焦りも、どんどん薄くなって、感じ取りにくくなっていく。  本のようなもの。  小説ではない。真ん中に銀のリングが並んでいる。充がペンを使って、自分で文字を書き込んでいる。  手帳だ。  革のカバーは、まだ新しい。  利玖は近づき、畳の上に膝をついた。手を伸ばして、紙面に触れると、書き心地の良さそうな柔らかい紙だった。 「見てもいいですか?」  充が頷き、利玖は頁をめくる。  買ったばかりなのだろう。ほとんど白紙だった。  だが、何か書かれていても、内容を読もうとは思わなかっただろう。書かれている事が重要なのではない。  大事なのは。  大事だったのは。  文字では留めておけない、何か。  一番後ろに透明のポケットが綴じられていた。チャックがついており、ぴったりと口を閉じる事が出来る。  写真が入っていた。  利玖は指を止める。  写っている全員の顔に、彼女は見覚えがあった。  それは、去年の十二月に樺鉢温泉村で撮ったものだ。潟杜に帰る日の朝、皆で旅館の前に集まった。〈湯元もちづき〉の支配人・早船(はやふね)鶴真(かくま)、料理長の能見(のうみ)正二郎(しょうじろう)、それにカメラの持ち主である坂城(さかき)清史(きよふみ)も写っている。  (たいら)梓葉(あずは)は、この場にいたが、写っていない。彼女がシャッタを切ったのだ。何やかやと理由を口にしていたが、泣いた後の顔を写真に残される事が嫌だったのかもしれない。  彼女が一緒に写っていたら、別の可能性を考えただろうか。  その写真の中で、女性は利玖だけで、隣に充が立っていた。 「捨てる」  頭上で声がした。 「ごめん」  その一言は、彼にしてはあまりにも饒舌だった。  捨ててほしいと、言うべきなのだろう。  彼がこの写真を誰にも見せずに持っていた気持ちに、自分は応える事が出来ない。  しかし、それは駄目だ、と止める気持ちがあった。  なぜなのか、自分でも理由は説明出来ない。夢からもぎ離された瞬間は、石英の粒みたいに鋭く光る断片的な情報が、頭のどこかに残っていた気がするのに、それはもう、覚醒した意識の、砂浜みたいにとめどない思考に紛れて、撹拌され、見つける事が出来ない。 「捨てないでください」  その言葉は、大丈夫だ、と思いながら言う事が出来た。 「……寂しいではないですか。普通ではない感覚を分かち合える友人に、そんな事を言われたら」  充は黙って手帳を閉じようとする。  利玖は思わず、その手を握った。 「本当に、捨てないでくださいね」こんな事をしている自分がどうしようもなく恐ろしくて、体が震えた。「お願いです」 「持っていると良い事がある?」  充が皮肉めいた口調で言った途端、額の内側で、白い光が弾けた。 「──そう。……それです。それを言いたかった」  すっとする匂いが──なんだっただろう、アルコールのような、だけど、甘くはない──幻のように一瞬、体を通り抜ける。植物の名前は思い出せなかった。 「トニックウォーター」最初に思い付いた事を、利玖は口にする。理屈は後回しにした。 「トニックウォーター」充がくり返す。語尾が上がらなかったが、明らかに疑問系だった。 「いえ、違います。そっちじゃなくて……」  話す相手が充で良かった。常識的な頻度で相槌を打たれていたら、このわずかな手がかりさえ、完全に見失っていただろう。 「良い事……、そう、お守りを持って行ってくださいって、言いたかったんです」 「どこに?」 「どこかへ」利玖は目をつむったまま言う。「たぶん、遠く……」  しかし、視覚を遮断しても、それ以上のインスピレーションは訪れてくれなかった。  ため息をついて、立ち上がる。  もう自分は、現実の世界を認識してしまった、と感じる。どうして、後悔するようなトーンで思ったのかは、わからないが。 「佐倉川さんが、そのお守りを持っている?」 「いえ。廣岡さんが、自分で参拝して、頒布所で頂くんです。そうしないと意味がありませんから」  当たり前だ。自分はなぜ、こんなに当たり前の事を充に説いているのか。  苛立ちが、やがてどろっとした不快な脱力感に変わり、利玖は壁に背をもたせかけた。  目を閉じると、視界の縁で銀の光が舞った。急に動いたわけでもないのに、不思議だ。どこか、ひどく疲れる場所にずっといて、今し方そこから戻ってきたばかりのような気がする。 「どこのお守りが良い?」  充がそう訊いた時、利玖の瞼の裏には湖の姿が浮かんでいた。なぜか、それは何度か目にした事のある昼間の姿ではなく、山間にひしめく街明かりを穿つように黒々と口を開いた歪な菱形だった。 「潮蕊湖……」  利玖の呟きを聞いて、充は頷いた。手帳を閉じて顔を上げ、両目でまっすぐに利玖を見る。 「写真は捨てない。潮蕊大社でお守りも、もらって来る」  利玖も頷き返した。  信じても良いかと問う必要など、まったくない。  言葉と向き合い、文章を紡いで世界を作る彼が、自らの肉声で誓ってくれたのだ。それ以上に確かな事なんてないのではないか、と思った。  充も部室を去る事にしたようだ。手帳を鞄に入れて立ち上がり、靴を履く。  別れの挨拶もなかったが、利玖の横を通り抜けて外に出る時、ふと、思い出したようにこちらを向いた。 「眠っている間に何か見た?」 「さあ、何でしょう……」利玖は苦笑する。「潮蕊湖とトニックウォーターって、どんな関係があると思います?」 「わからない。全然思いつかない。その二つを結びつけるだけで、話が一本書けそうだ」  利玖は思わず微笑んだ。自覚があるかはわからないが、彼は今、ファンタジィ作家として、これ以上はないというくらい贅沢な賛辞の言葉を贈ったのだ。  それを教えてあげたい誰かが、自分にはいるような気がした。
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