空っぽのシトロン

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空っぽのシトロン

「このサービスエリア、温泉があるんですよ」 「知っています」ジュネが神妙な顔で頷く。「でも、温泉があるのはあっちの……」彼女はさっきとは反対の、喫煙所がある方の通路を指さした。「自動ドアを出た先にある、別の建物でしょう? ここから外に出られないのに、行けるわけがないじゃないの」 「地下で繋がっていたりとかしませんか?」 「しません」 「そうですか……」利玖はつやつやに光っている風呂桶を両手で撫でた。「まあ、買ってしまったものは仕方がありません」 「わたしも、まさか風呂桶を買ってくるとは思わなかった」  利玖の手が止まった。  胡椒の粒を噛んだ時みたいにぴりっと(かぐわ)しい刺激と、かすかな衝撃を伴う計算が彼女の頭の中で走った。 「──それです」  利玖はジュネに向かって、底のロゴマークを見せるようにゆっくりと風呂桶を傾けた。 「ジュネさんは、銭湯や温泉で、風呂桶を買った事がありますか?」 「え?」ジュネは瞬きをし、ちょっと考えてから首を振る。「うーんと……、ないかな」 「わたしもありません。いつも、浴室に入った後、壁際にたくさん積まれている物の中から一つを選んで使わせてもらいます。今は大抵、どの銭湯でもそうなっていますね」  ジュネが、はたと口元に手をやった。 「そっか」くぐもった声でジュネは呟いた。 「そもそも、売店にあるのがおかしいんだ。無料で使える代わりに、他の利用者と共用するのが当たり前という意識が根付いているものを、わざわざ、個々に購入させる仕組みに変える意味がないもの。──百歩譲って、レンタルよね。狭い売店で、場所を取らせておくほどの理由はない……」 「おっしゃる通りです」利玖は頷いた。「レンタルならば、まだ理にかなっています。ここはサービスエリア。利用者のほとんどは本命の目的地が別にあり、そこに向かう途中です。濡れた風呂桶を持ち帰るのは煩わしいと感じるのではないでしょうか」  ジュネは眉をひそめ、椅子に寄りかかった。 「どうして売店にあったのかしら」 「わかりません」利玖は風呂桶をひっくり返して、底の値札を剥ぎにかかる。「ですが、わたしはこれで一つ、試してみたい事があります」 「何をするの?」  ジュネも興味が湧いたようだ。立ち上がってテーブルを回り、利玖の隣に移動してきた。  *  利玖が思いつきを話すと、ジュネは「ええ……、本当かなぁ……」と呟いたが、言葉の割りには抵抗を感じていない足取りでついて来た。 「ね、それよか、マスタ・キーを探そうよ。パスワードやチップは駄目でも、シリンダ・キーならネットワークを経由しないから、どこかが開くかもしれないよ」 「そういう場所は、一般人が入ってはいけないと思います」 「硬い事言うなあ」  ジュネはずっと鍵について考えていたのかもしれない。  通路の末端でドアに行き当たると、 「風呂桶を持っているから温泉に行けるっていうのなら、家の鍵をかざしたら、リビングに出られるようになっていてほしいもんよね」 と言った。 「あ、それ、いいですね」利玖は、ぱっとリュックサックを開け、鍵を取り出した。「先に試してみましょう」  ジュネ、利玖の順で鍵をかざし、しばらく待ってみたが、ドアは反応しなかった。 「ジュネさん、車の鍵は?」利玖は思いついて、訊ねた。 「気になるけど、このドアがそのまま車内に繋がるイメージがわかない。戻れたとしても、ちょっと、怖くて運転出来ないから、やめておく」  こうして風呂桶の順番がやってきた。  利玖は両手で風呂桶を持った。ゆっくりと水平に、胸ぐらいの高さを保ってドアに近づけていく。  モータの作動音がした。  外でも問題なく呼吸が出来た。ひとまず酸素は、即座に人体にとって有害にはならない程度に存在しているらしい。背後でドアが閉まった時、それを確かめずにはいられなかったほどの異様な静けさだった。 「ありえない……」  ジュネが一度だけ、震えながらそう呟いたが、その後は手で口を覆って沈黙した。  サイコロみたいな立方体の建物が前方に見えている。それが温泉だった。打ち合わせをしたわけでもないのに、二人は最短距離を駆け抜ける。  こちらのドアは自動ではなく、利玖が引き開けて中に入った。右に女湯、左に男湯の暖簾があり、手前はソファが置かれたラウンジになっている。暖房が効いており、白くて四角いスピーカから数年前に流行ったドラマの主題歌が流れていた。旧型なので音はざらついていたが、知っている曲だというだけで、利玖はずいぶん気が楽になった。  もつれるようにソファに座った後、しばらく口がきけなかった。  息が出来る、と感じた事は覚えているが、走っている間はきっと、ほとんど息を止めていたと思う。測ったように天の頂点にあった満月も、濁ったセピアの外灯に照らされていた足元の煉瓦も、画像としては思い出せるのだが、現実の手ごたえがまったくない。それに、右には確か、広い駐車場があったはずだが、停まっている車の数を二までカウント・アップした所で、それ以上見ていられなくなった。  ここはきっと、さっきまでいた潮蕊湖サービスエリアの延長なのだ。ドアの外に出る事には成功したが、元の世界に戻れたわけではない。 「ねえ、戻ろうよ」ジュネが泣きそうな声で言った。「なんか、おかしいよ。ここ、怖い……」  前半部分には同意できないが、後半部分は、利玖もまったく同じ思いだった。だから、利玖は何も言わなかった。  ジュネもたぶん、史岐や兄──最近では、自分もそうだ──と同じように、普通の人間には見えないものが見え、感じられない世界と接触出来る体質なのだろう。これは、そういった、ヒトの理から外れたモノ達を認識していて、彼らがひと度『魔』としての性質を顕わにすれば、人間など、風前の塵よりたやすく消えうる存在であるとわかっている者の怖がり方だった。  利玖だって恐怖を感じてないわけではない。ここまでは無事に来られたが、この先、油断した所で罠が仕掛けられている可能性もある。  だが、今はそれ以上に、ジュネの事を警戒していた。  彼女は明らかに自分と同じ立場の人間ではない。利玖と違って、サービスエリアに来るまでの記憶があるし、訪れた時期も二日早い。それに、あの一言……。  なぜ、こんな所に自分はいるのか。ジュネと自分の間にはどんな接点があるのか。なぜ、ジュネは自分と一緒にいて、こんなにも外を怖がっているのか。  どうすれば元の世界に戻れるのか……。  一人で考える時間がほしかった。それは、ジュネと一緒にサービスエリアにいてはかなわない。あの場では、行動も思考も、巧みに彼女に誘導されている事に、利玖は薄々気づいていた。 「駐車場が見えました。あの中にジュネさんの車があるかどうか、探し出して、帰るという選択肢もありますが……」 「絶対に嫌」  ジュネは出会ってから聞いた中で一番強い口調で言った。  それから片手を頬に当て、長々と息をついてから顔を上げた。 「わかった。あなたについていくよ。こういう時、疑心暗鬼に陥ってばらばらで行動するのが一番危ないんだよね」 「ジュネさんの風呂桶もあったら良かったですね」 「いや……、わたしは脱衣所で待ってるから」  後で何かご馳走すると約束して、女湯の暖簾をくぐった。  ジュネは眠そうな声で「気にしなくていいよお」と言ったが、脱衣所の隅に置かれているマッサージ・チェアが小銭で動く事がわかると、満更でもない表情になった。  先に靴下だけ脱いで、裸足になってから、浴室内に誰も潜んでいない事を確かめ、服を脱いで戻ってきた。  浴室では音楽が流れていない。湯船は半円形のものが一つだけ窓際に作られており、湯がわき出るぽこぽこという音だけが、湯気にこもって響いている。  残りの壁には、シャワーと鏡と丸いランプが一揃いになって等間隔で取り付けられており、それぞれの鏡の間には石鹸のボトルが三つずつ、平たい白のディッシュに乗せられて並んでいる。壁の下側が手前に出っ張っているので、それが台の代わりになっているのだ。  洋菓子みたいに作り物っぽい、だけど、懐かしい甘さのあるレモンの香りの石鹸で、体と髪を洗った。顔は湯だけを使ってごしごしと手で洗い、湯船に向かった。  ここの湯は、きちんと源泉を引いてあると外のパネルに書いてあった。指先を浸けてみると、じんわりと熱を感じるくらいのちょうど良い湯加減で、爪先から鎖骨の辺りまでそろそろと体を沈めると、嘘のようにこわばりが解けていった。  湯けむり越しに、透明な水滴がびっしりとついた天井を見上げて、利玖は、ほーっと息を吐き出した。 (この温泉は、本物だ……)  ふいに、そんな思いが脳裏をかすめた。  一体、何を本物だと感じたのかはわからなかったが、水を吸って膨らんだ縄のように心身をしめつけている緊張を、原始的な熱で包んで一気に押し流してしまう、地層に刻まれた数億年分の情報を溶かしこんだ熱水の効果は、とてもコンピュータの演算だけで再現出来る物ではない。  利玖は静かに湯をかいて、窓際に近づいた。 (ここは、ジュネさんでも管轄出来ない場所なのかもしれない)  窓の外は暗く、自分の姿が映り込んでいる。確か、ここからは潮蕊湖が一望出来るはずだったが、今は何も見えなかった。潮蕊湖は周りを市街地に囲まれているのだが、その明かりすらも見当たらない。  代わりに、背後の壁についているランプが皓々と反射していた。柔らかな金色の光が、丸くなって等間隔に並んでいる。まるで、満月の子ども達が一列になって夜空に出て行く順番を待っているみたいだ。  微笑んで、利玖は何気なく、窓硝子の中で一番自分に近い満月の子どもに手を伸ばした。  持ち上げた手と、反対側の肩が少し下がって、  さらけ出された首のつけ根を、  誰かの指が、つっと、なぞった。 「笑ったな」少年と青年の(あわい)のような声が耳元で聞こえた。「あれが近くに見えるのが、そんなに心地良いか。ならば、悦ばしいことだ」  利玖は息を止めた。  そのほんの刹那の間に、自分が生きてここを出る為に必要な幾通りもの計算を頭の中で行った。 「ここは女湯ですよ」 「出ていけと、命じぬか」男が笑った。「──良い。己が分を弁えている」  利玖は半眼になって、湯の中でゆらめいている膝頭に目を落とし、気持ちを静めようとした。  そうか……、と合点がいった。──『彼』が望んだから、ここへ至る扉が開いたのだ。  その思考を読んだように『彼』は、すっと利玖から離れ、逃げ場をなくした獲物をいたぶるようにゆったりと周りを泳ぎ始めた。 「口惜しい(かな)、潮蕊の地にかかわる事でも、いまだすべてが思うままにはならぬ。だが、こうして縁をたどれば、おまえの夢に入り、(うつつ)にあるものを招くことなど造作もない。なんと、これはまさに神にふさわしい奇蹟ではないか」  背骨が皮膚を押し上げて作る膨らみをなでさするように、後ろから『彼』の手がふれた。 「まったく人間の作った籠というのは息がつまって仕方がないが、わが妻の慰めになるというのなら、これも甘んじて受けいれよう」 「わたしは誰とも結婚していません」 「まだそうではないというだけだ」尖った爪が皮膚に食い込んだ。「おまえの魂は、熟れきる前の無花果(いちじく)に似て、滴るようなみずみずしさの中に、ほんの一匙、えも言われぬ官能が混じっている。その真価を見出したのはおれだ。おまえの魂も、(からだ)も、おれのものとして収まるのが最も具合が良い」  利玖は、ひとつ息を吸うと、勢いよく振り返って自分にふれている男の手を掴んだ。  獣のように瞳孔が窄まった翡翠色の目を睨み付けながら、指に力を込めると、『彼』の手は張りぼてのようにぐしゃっとつぶれ、いくつもの破片になって湯に落ちた。 「こんなに脆い手では、わたしを押さえつけておく事など出来ませんよ」  まがい物の月のような瞳が、面白がっているような光を浮かべて歪んだ。 「──抗えよ。おまえを囲い、守ろうとする者を、おれに殺されながら逃げ続け、いつか怨みを抱いておれを殺しに来い。……そうして足掻く、おまえのすべてが、愛おしい……」  *  何か濡れたものを高い所から叩き付けるような音がして、ジュネはびくっと顔を上げた。  本当は、もっと前から、脱衣所と浴室を隔てている戸が動く音がしていたのだが、マッサージ・チェアにすっぽりと座って読書に没頭していた彼女は、周囲の物音に気づくどころか、自分が誰かを待っている事すら半ば忘れていた。  利玖が脱衣所の床に倒れている。  うつぶせで、息をしているのかどうかもわからなかった。 「……ちょっと!」  裏返った声で叫びながら、ジュネはそこまで走っていった。  傍らに膝をつき、抱きかかえて起こそうとしたが、ジュネの手が肌にふれた瞬間、利玖は獣が唸るような声をもらしてそれを振り払った。  拒絶された手を呆然と宙に浮かせたまま、ジュネは利玖の(からだ)を見下ろした。  濡れ髪がほどけて、藻のようにうねりながら至る所に絡みついている。肩にも、手足にも。腰の方にも。  絶対にあってほしくない一つの可能性が頭をよぎり、ジュネは思わず目をつぶった。  しかし、息を吸い込み、再び目を開いた時には、彼女の顔はしんと引き締まって、迷いも躊躇いも浮かんでいなかった。 「ごめんなさい」ジュネは低い声で話しかけた。「あなたの体を拭いて、服を着るのを手伝いたいの。少しだけ、体にさわっても大丈夫?」  利玖が頷くと、ジュネは彼女の服が入っている籠からバスタオルを出してきて、それで上半身を覆ってそっと抱き起こした。  立ち上がった利玖は、少しふらついたが、一人で籠まで歩いて行き、服を着た。ジュネは洗面台の前へ移動して、ドライヤが使える事を確かめる。  やがて、服を着終えた利玖が虚ろな足取りで歩いてきた。  スカートから伸びた素足を守るものは、何もなく、真っ白で血の気が感じられない。彼女の為に柔らかい寝間着と毛布を用意してあげたい、とジュネは思った。 「こっちに来て。乾かしてあげる」  ジュネがそう言って籐椅子を引くと、利玖は黙って腰掛けた。  腰まで伸ばされたつややかな髪を乾かすのは根気のいる作業で、気遣ってやらねばならないと思いつつも、つい集中して無言になってしまったが、そのおかげで髪が乾く頃には、ジュネだけではなく、利玖の顔にも血色が戻っていた。 「あのね、話したくなかったら、何も言わなくていいんだけど……」ドライヤを壁に戻している自分の手元を見つめながら、ジュネは訊ねた。「中に誰かいたの?」  鏡の中で、利玖が首を振った。 「いえ。湯あたりです」利玖はジュネを見上げて微笑んだ。「わたしは、湯あたりを治してくれた方と仲良くなるご縁があるみたいなんです。ジュネさんともお友達になれるかもしれませんね」  ジュネは一瞬、手を止めた。 「どうかな……」利玖の顔を見る事が出来なかった。「わたし、話を合わせるのが苦手だから、難しいかも」
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