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県道から分岐した轍の消えかかった林道をしばらく走った行き止まりに車を止めた。巨岩に塞がれ鬱蒼とした沢の入り口からゆっくりと登り始めた博士の上空を小さなhIWaが通り過ぎた。博士はhIWaの発する低音の機械音に気が付き、沢をよじ登る足を止め上空に目をやった。晴れ渡った空を東西に切り裂いたhIWaは紛れもなく「かの国」のものだった。円状の躯体には十数個の小さなプロペラと側面を向いた五台の複眼レンズが設置されていたが沢道を這うように登る博士の姿には気が付かずに、上空を飛び去って行った。辛うじて人一人が通行できるほどの沢路の両側は苔むした岩崖に覆われ、滑りやすく容易によじ登ることはできない。hIWaが去った後、博士はこの場所へ来た目的である活断層調査に取り掛かった。近年、大陸地殻の変動トレンドが顕著になり、それに合わせて活断層の動きが活発化していた。博士は五十歳過ぎの地質学者で専門は全国の活断層調査と電子基準点を用いた地殻変動のリアルタイム観測を行っており、現地調査と電子基準点データの解析の技術を兼ね備えた研究者だった。今回の計画は旧街道であったこの林道を自動車で一時間程進み、そこからはこの沢道に入り、調査道具一式が入った巨大なザックを背負って、山頂にある山小屋を目指しながら、途中に存在するはずのユーラシアプレートと北米プレートの実境界となっている活断層の動きをその場で観察することだった。hIWaの来訪に気が散ってしまっていたが、やっと今回の目的である活断層の調査に取り掛かることができた。この岩崖は白亜紀の海洋堆積物から形成されており、それが無数の断層を介して巨大な集合体となっているような場所だった。つまりここは断層の巣であり、博士はその現地調査によりどちらが先に切られたのかという関係を現地で観察し、次に動く断層を特定していくための調査をおこなっていた。しばらく岩崖の全体像を眺めてから、岩石が露出していて構造を明確に区分できるような箇所を博士は探した。南北方向に走る巨大な断層とそれに斜交する断層群が存在することは事前の文献調査によりわかっているが、その事実を強化するための詳細なエビデンスを求めてこの場所に来ていた。手元にある小さく折りたたんだ地形図と首から下げた高度計を参考にして、当初設定した座標に到着したことを博士は確認した。目的座標の周囲を見渡すと、数メートル先に比較的広範囲に岩石が露出している露頭を発見した。その目前まで行き、博士は改めてそれが状態の良い巨大な露頭であることがわかった。博士は興奮気味に肩にかけていた帆布地の古びた茶色の調査鞄から、緑色の小さな野帳を取り出しスケッチを始めた。そのスケッチは驚く程に精緻美麗で、スケールや細かな必要十分な情報がちりばめられており、一つの写実画のようであった。露頭のスケッチが一段落すると、博士は調査鞄から銀色に光るアルミ製のクリノメーターを取り出し、目前の露頭の亀裂に当てると、走行傾斜を測定し、測定値を野帳のスケッチ画上にテンポよく記入していった。一連の動作は無駄なく、余計なエネルギーを使うことなく空手のタテのように研ぎ澄まされていた。地表にあらわれた無数の亀裂から主節理を見つけ、そして地下深部まで続く大断層の主軸を知るという行為は無数の小川の流れから大いなる川の流れを辿り当てることと似ていると博士はふと思った。ただそんな不毛な思考を瞬時に打ち切り、博士は再び走行傾斜の計測に没頭した。何回目の作業だろうか、目前に見えるほとんどの走行傾斜の測定を終えると、博士はちょうど良い転石を見つけその上に座り一息ついていた。そのとき近くで骨格に響く程の劈く異音が聞こえた。それは何かが崩れるような地響きのようでもあり、巨大な獣の彷徨のようでもあった。後日発行された博士の著述にはこの時、巨大な揺れが生じ、続けて岩崖全体が面として降下したような感覚に陥ったと記述されている。揺れは二分程続き、その後数回の余震の揺れがあったという。その場でうずくまり頭蓋を両手で覆って防御姿勢を取っていた博士は沢沿いのこの場所は上斜面からの土砂崩れが発生し生き埋めになるリスクが高いと考えた。去り際に先程まで観察していた露頭を一瞥するとこれまでなかった新しく深く長い亀裂が入っていた。それは紛れもなく南北方向の亀裂であり、この地震で新たに地表に露出した断層であり、揺れが発生した時に地面が一瞬沈んだように感じたのは逆断層の向かって左側が沈降した結果だった。先程までこの場をすぐにでも離れようと逃げ腰の博士だったが、再び露頭のスケッチを開始した。つい数分前まで入念に観察していた露頭は揺れの影響で大きく崩れ、新しく崩れた転石が周囲に散らばっていた。博士が露頭を見上げると、想像していたとおり顕著な南北方向の亀裂があらわれた。博士は野帳のスケッチにその明確な亀裂の走行傾斜を記載した。そして野帳をザックの外ポケットにしまうと、満足げに今日の宿泊先である山頂の山小屋に向かい歩き出した。歩き出した博士の傍らには真っ赤な幾何学的な模様の曼殊沙華が数株集まって咲いていた。            ✥  その山小屋は南アルプス山中の山頂直下にわずかに存在する平地に立っていた。丸太を切ってくみ上げたような小さな二階建ての山小屋が今夜泊まる宿だった。平日の午後三時ということもあり、山小屋には他の登山客の姿は見えず、わずかに開いた引き戸の向こうに受付奥の色褪せた百名山の暖簾だけが静かに揺れているのが見える。博士は山小屋の入り口隣にある木製のベンチに座り、背負ってきたザックをベンチの下に置いた。この山の頂が山小屋の背後に鎮座していることを思いながら、博士はやっと一息をついた。空は澄み、山ガラスの鳴き声が遠くに小さく聞こえる。落ち着いて見つめた先の眼下に広がる景色に、先程の地震の傷跡が明確に刻まれているのが博士にはわかった。南北に深く延びる断層がこの地震であらわれた。あの露頭で見た断層は地表に見えているほんの一部でこれまで見たこともない規模の大断層が地下に隠されており、それがこの地震で眼下に現出したのである。それは調査前の博士の描像と類似していた。博士は息を飲み、考えをめぐらし始めたが、一瞬でそれをあきらめ今は山小屋で冷えた缶ビールを飲むことだけを考えることに決めた。ザックをベンチに置いたまま、博士は建付けが悪い重い木製扉を開き、山小屋の中に入った。入り口近くの雑然とした靴置き場には数足のサンダルだけが置いてあった。その向かいに小さな受付がある。博士が受付を覗きこむと、どこに隠れていたのかふいに小柄な老人が顔を出した。 「はい。お疲れさん。あれ?先生かい。お久しぶりですな。」  博士に親し気に話かけてきたのは山小屋の小屋番で、この老人が一人で切り盛りしていた。 「外から見た感じだとさっきの地震でもこの山小屋は被害を受けていないようですね。さすが玉原さんが作った山だけありますね。」 博士がそう話しかけると、玉原はそりゃそうさ、俺が作ったんだからさ、と誇らしげに笑った。ただ、受付前に置いてあるカップ麺や缶ビールは倒れており、地震の影響があったことは確かだった。博士は玉原に一万円を一枚渡した。それは今日の宿泊代と食事代、そして缶ビール代である。玉原は小さな寝床となる二段ベッドの番号を教え、缶ビールを手渡した。え―46、それが今日の博士の寝場所である。博士は小さな二段ベッドの前に大きなザックを置き、ザックから今日採取したサンプルを取り出し、ナンバリングをし、軽く整理すると身支度を整え食堂に向かった。食堂は登山者に開放されており、食事時以外でも休憩できるようになっていた。食堂のテレビを見ながら、登山者達は次の日の山行工程を決めることができたが、薄暗い食堂はがらんとしていた。博士は無料で振舞われている暖かい麦茶をすすりながら、テレビの画面をぼーっと眺めていた。デジタルレンズで撮った写真を確認し、野帳に墨入れを済ませたら、今日は店じまいだった。麦茶を飲み終えたら、購入した缶ビールと僅かなつまみで一人一日の労をねぎらう。テレビ画面には時報のニュースが映っており、今日の巨大地震の被害を伝えてた。南アルプス山腹、地下五十㎞を震源とし、巨大地震が発生したということをニュースは伝えていた。 「さっきの地震の震源地はすぐ近くだったみたいだね。」  玉原が背後から聞こえた。食堂の入り口に玉島が立っていた。夕食までは数時間間があり、登山客も博士しかいないようで、玉島は時間を持て余しているようだった。 「そうみたいですね。地震が起きたとき私はちょうど露頭で断層を観察していましてね。地震と同時に目の前の断層が動いたのでとても驚いたんですよ。こんな経験は三十年近く現地調査に出ていて初めての経験ですよ。」  玉島はなるほどというような物知り顔をして、深く頷いていた。 「もちろん地震もあったんだけど、その時にhIWaが私の頭上を飛んで行ったんですよ。hIWaは私に気が付かなかったみたいですがね。上空を通り過ぎて行きましたよ。」 「先生そりゃあそうさ。そんな土色の作業着に土色のキャップを被っていたらあいつらも気が付かないよ。『かの国』の連中はなにをやりたいんだろうね。こんな山奥までぶんぶん飛んできてさ。馬鹿な俺にはわかんないよ。教えてくれよ。先生。」 玉原に聞かれたところで、博士も『かの国』の目的なんて知るはずもない。博士は苦笑いをして、明日の天気予報を確認しようとテレビの方を向いたが、玉原がまだ何か話をしたそうな顔をしている。三時過ぎになり、沈み始めた太陽からの鈍角の穏やかな陽光が暗い食堂の奥まで入ってきて、博士の次の言葉を誘っている。 「『かの国』が何を考えているのかわからないから恐ろしい。わからないことは大きな脅威です。誰が『かの国』のトップなのか、法治国家なのか、他国のことをどう思っているのか、皆目見当がつかない。時折飛んでくる無人の偵察機、いわゆるhIWaだけが『かの国』との接点ですからね。hIWaは常に飛んできては、ふいに攻撃してきたり、何もせずに偵察だけをして去っていきます。私も詳しいことはわかりませんが、『かの国』には広大な国土があり、そして資源があるらしいです。私が知っているのはそれくらいで、皆が知っている情報しかありません。」 「そうなんだな。」 「ただ、『かの国』がhIWaを飛ばしたり、攻撃を仕掛けてくることに対して、日本の報道は沈黙しているため、公然の秘密となっています。我が国への領空侵犯が始まったからすでに五年がたっているというのに。」 博士がそうやって一思いに話すと、玉原はもう五年もたっているのかと感慨深そうに話し、夕飯の準備のため静かに食堂を去っていった。
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