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 私が博士と面識を得たのは理学部棟の一階に入っているコーヒーショップだった。私の在籍する文学部にはその店舗は入っておらず、気分転換のため私は文学部の向かいにある理学部棟のコーヒーショップまで行き、ブレンドコーヒーのトールサイズを購入し、店内でゆっくりと味わうことが多かった。そこで背の高く長いストレートの白長髪を後ろに一つにまとめていた男性が丸椅子に座り、熱心に資料を眺めている姿を頻繁に見かけた。私は毎日同じ時間にそのコーヒーショップに行き、同じブレンドコーヒーを頼んでいたが、その白長髪男性もまたいつも決まった丸椅子に座り、リジェクトされた論文なのか、査読中の論文なのかわからないがA4サイズに印刷されたその資料を熟読しているのである。私はその白長髪男性のことが次第に気になっていった。それは美しい毛並みを持った奇妙なアリクイの横顔のようだった。ただ私から話かけるような用事もなければ、そんな度胸が私にあるはずもない。五十歳を過ぎに見える男性に私が声をかけるための理由を見つけることができなかった。私がその男性に声をかけている姿を知り合いの誰かに見られようものなら、その理由を正確に答えることは到底できないと思った。ただ声をかけてみたいという直情的な理由しか思い浮かばなかったのである。そんなことに思いを馳せている最中に大規模なhIWaの強襲があった。それは従来よりも明らかに大群での襲来だった。不意に西側の空が曇ったかと思うとすぐさまその一つ一つがhIWaであることがわかった。理学部棟の近くにいる人間は誰彼ともわず、理学部棟の地下一階へと逃げ、私もそれに連なった。近年ではhIWaが近づいてくるとその数十m以内にいる人間に対して、スマートフォンでその連絡が来るようなシステムが民間の有志企業により数年前に構築され、それは私達の生活の一部に組み込まれていた。ただ国家としての取り組みが実施されることはなく、あくまで公然の秘密だったのである。 その大規模なhIWa襲来の知らせが来た時、コーヒーショップには私とその白長髪男性と店員の若い男性だけがいた。三人とも慌てる素振りはなく、私と白長髪男性は資料を鞄に片付け、店員はレジに鍵をかけた。私達は後方ドアでつながっている理学部棟の一階から地下へと降りていった。hIWaがどこまで近づいているのか、理学部棟の内部まで入り込んでいるのかわからないが、スマートフォンの画面にはすでに理学部棟がhIWaに取り囲まれていることを示しており、私達はその情報に従い、さらに安全な地下へと降りて息を鎮めるだけなのである。地下へ降りて五分程経過してもhIWaが地下まで飛んできている音はしなかったが、hIWaが去っていったという知らせもスマートフォンには届かなかった。私はリノリウムの壁に背を預け、白い天井の穴の開いたパネルをぼーっと眺めていた。するとふいに横から誰かの声が聞こえてきた。 「hIWaが理学部棟まで飛んで来たのは初めてだな。」  誰が話しているのだろうと横を見るとそれは白長髪男性が発した言葉だった。はっと私は驚いて目を伏せたが、白長髪男性が今度は明らかに私に話かけてきた。 「ここのコーヒーショップは居心地が良いよな。いつも見かけますよ。今日は驚きましたね、ここにまでhIWaが飛んでくるとはね。」  白長髪男性が私に話しかけているのは明らかだった。 「どうもこんにちは。私もよくお見掛けします。理学部の先生ですか?私は理学部ではなく、文学部の歴史学科の私と言います。助手をやっています。」  急な会話の始まりに私は何を話したらよいのかわからず、無防備に自己紹介をしてしまった。すると白長髪男性は、理学部の地質学科で教授をやっていると自己紹介をしてくれた。私は白長髪男性の名前を知る事が出来たことに得も言われぬ満足感を得て、興奮気味に歴史学と地質学とは過去の歴史を解き明かすという意味では似ていますね、なんて瞬時に思い浮かんだことを熱く話し、とても恥ずかしい気持ちになった。白長髪男性は想像していたとおり、理学部の博士だった。なんでそんなに白くて長い髪なんですかと私はこの興奮のまま聞いてしまおうかと思ったが、何とか踏みとどまった。博士は、はあそうですねと冷めた相槌を打った。私は急に距離を縮めてしまった自分を恥じたが、申し少し話をしたかった。 「hIWaが飛んで来たら地下に逃げるという生活には慣れたつもりになっていましたが、やはりどうにも落ち着かないものですね。」  私がそういうと、博士もそうですな、ここへ来たのは初めてかもしれない、警戒情報が解かれたから私は職場に戻りますよ、と言って静かに地上階への階段を上り、去って行った。スマートフォンの画面を開くと、hIWaの警戒情報は解かれていた。私の顔は妙に火照っており、頭は熱く、その場を動くことはできなかった。コーヒーショップの店員の姿はすでに見えなくなっていた。              ✥ いつものように私はコーヒーショップに行き、博士と顔を合わせた。これまでと違うのは共に認識しているということだけだが、会話を始めるにはそれで十分だった。 私は博士へ自分の研究分野である日本創世の歴史学を語り、博士は私へ日本列島の地質の成り立ちを語った。私達は共に日本列島という括りで議論ができ、それは私にとって幸せな時間だった。君は若いのに日本列島の成り立ちをよくわかっているね、そう博士に言われたときそれはとても誇らしい気持ちになった。ある時、博士が「私は過去の断層の動きと現在の地形から今後の断層の動きを予測したい。未来を知ることを目的にしなければ過去の地質現象を調べることになんの意味があるのだろう。」と厳しい口調で話した。私もその意見に全く同意していたので、それはその通りだと思いますと返答した。博士はそれを聞き満足そうに肩にかかった白髪を払った。どの時代、どの国を研究対象とするか、学者毎に異なりますが周囲の先生達も博士と同じことを言いますが、結局過去の歴史は歴史でしかないとあきらめているように私にはみえるのです。ただ、博士が今おっしゃっていることはより現実的に実現可能であるように聞こえました、と答えた。博士はまた満足そうに頷いた。さよなら、そう言って私はそこを立ち去ったが、数分後にお気に入りの赤いフェルト地のチューリップ帽をコーヒーショッに置き忘れたことに気が付き、急いで今来た道を戻ると、向こうから博士がチューリップ帽を手に持ってやってくるのが見えた。うつむいて前進する私に博士は帽子を差し出してきた。 「いい帽子だね。大事にしている帽子なんだろう。」 博士はそう言って手渡し、さっと踵を返した。私は恥ずかしくてなにも言い返すことができなかった。 地質学とは何前年、何億年前からの岩石の積み重なりから過去の出来事を緻密に調査し、高精度に未来を推測する学問。歴史学とは過去の人類の営みを記述した資料と今現在の人間の生命活動から人類の未来を推測すること。予測する未来は遠未来の場合もあれば、近未来の場合もある。ただ、重宝されるのは近未来を高精度に予測することに間違いはない。自分が死んでからのことを推測したとしても、それは今生きている人間にとって何の価値もないのだから。私は研究者としては大雑把でずぼらな人間だと思う。直属の上司や周囲の教授から言われたことはないが、それは間違いない。私の母は私が歴史学を専攻し、そのまま大学に残った時、本当にそのまま生活をすることができのか、お前は雑な性格だからこまごまと物事を考える研究者になんてなれるのかい、ととても心配された。今まで研究者として生き残ってきたことは奇跡的なことなのかもしれない。摩訶不思議な事象である。 「君は案外、雑な人間なのかもしれないね。ただ、日本の歴史を研究して未来へ繋げたいと心意気はよく伝わるよ。」  あの時、博士からそう言われたことは心の中に大事に留めている。博士が去った後、手元の赤いチューリップ帽が暖かかった。              ✥ 「二週間前から太平洋プレートの沈み込み速度が急激に上昇していることがわかった。きっかけは先日の巨大地震なのは明らかで、地震発生後に速度が上昇した。地震直後はわずかな変化だったが次第に加速し、現在では二週間前の百倍になった。傾向からはこれ以上速くなることはなさそうだ。」  いつものコーヒーショップで買ったブレンドコーヒーを持って近くのベンチに座って飲んでいたが、何事もなかったかのように話す博士の様子に吹き出しそうになった。 「そんなことが起こっているんですか。これからどうなるんですか?っていうかなんで誰もそのことを報道しないのでしょうか?」 「なぜこのことが表沙汰にならないのか私にはわからない。ただ周りの地質学の研究者達は認識しているよ。間違いなく。ただそのことに声を上げる人はいないようだね。」 「先生はなぜ気が付いたのですか。」 バカみたいに私がそう質問すると、博士は丁寧に説明してくれた。 「私は毎日列島全土の電子基準点データを収集解析しているのだけれど、先日の地震の後に太平プレートの沈みこみ方向が変わってきたことに気が付いた。巨大地震後にベクトルが変わり、電子基準点が太平洋側に動き始め、次第に加速度的に上がった。電子基準点では地表における位置の変化を把握することができるが、地下のプレート間の動きについては想像することしかできない。ただ観測から得られた事実は今回の地震で今まで北米プレートおよびユーラシアプレートの地下へ向かって沈み込んでいた太平洋プレートが逆に日本列島から離れていくようなベクトルに変わったということだ。そしてその沈みこみ速度は今までこの島弧が体感したことのないほど高速度だった。私の想定は北米プレートが逆に太平洋プレートに沈みこみを開始したのではないかということだ。」  博士の話は俄かに理解できなかったが、次第に私にも事の重大さがわかった。博士は言葉を続けた。 「つまり西日本は大陸に近づき、東日本は大陸から離れていく方向に動きが変化してきたということだ。知っているとは思うが、背弧海盆の拡大に伴い、日本列島はかの国から分離したのが日本列島の始まりであり、その過程で発生したのが日本列島の臍と言われているフォッサマグナだ。」  それは初めて聞いた言葉で理解できなかった。 「フォッサマグナってなんですか。」 私の質問を博士は無視してどこか遠くの方を眺めながら持論を披露し続けた。 「東日本が大陸から離れる方向に移動しているのに対し、一方西日本弧がユーラシアプレートへ沈みこむ速度は先ほどの話の通り急速に上昇している。」  博士の話はまだまだ続いているが、私にはほとんど理解できなかったが、博士は独り言のように言葉を続けている。 「西日本で沈み込み速度が上昇したことの影響はすでに地上に現出している。西日本、特に九州の火山活動が活発化し、西日本の地殻が拡大するとともに、かの国南端と日本列島との海峡の距離が短くなっていることが電子基準点のデータから確認されている。このことが何を表しているかわかるかね。日本とかの国との地政学的な均衡が崩れるということだよ。その地質学的な影響によってね。これは前代未聞のことだろう。地殻の変化が人類の歴史に影響を与えた事例が今ここで見られているということだよ。」  ふいに私にも理解できる文脈が現れた。 「今回の変化は地政学や歴史にも影響を与えるような規模の変化なのですか?」  私の質問に博士はもちろんそうだと回答した。日本列島が東西に分断されるのだと博士は言った。私にはそんなことが起こるのか微塵も理解できなかったが、国家間の関係をも変化させる程の地質学的な変化なのだということを理解した。 「歴史学者として語りますが、博士の話が現実に起きるのであれば、そのような地理的にドラスティックな変化は東アジアにおける国家間のパワーバランスを間違いなく変えるでしょう。」  私にはそう答えることしかできなかった。博士はにやりと笑い、ベンチを離れた。 私は文学部棟の自室の狭い研究室に戻り、論文と無数の書籍に埋もれた空間に戻ると、博士から聞いた話を落ち着いて反芻した。そのうちになんとなく事態がわかった気になり、背中には冷たい汗水が一滴落ちていくのがわかった。  一か月程の間で日常が劇的に変わり始めた。hIWaの襲来頻度は増え、東日本の太平洋側への移動速度は上昇し、十m/年程の速度となった。とりわけ顕著なのは博士の言っていた東日本と西日本の分断である。それは巨大な溝、フォッサマグナ(Vossa magna)の出現である。これまで地下に隠されていたフォッサマグナが地表に現れた瞬間である。これにより一般人ですら、日本列島に何か地質学的に劇的な変化が起きたことに気が付いた。フォッサマグナの出現により日本は列島誕生時の本来の姿を見せたわけである。日本列島に混乱期が訪れようとしていた。そんな時、博士の研究室に一人の一人の女性生徒がやってきた。
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