4

1/1

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

4

「hIWaはやはり私ではなくて、亀裂の起点を見ていたんですよ。」  牛伏寺近くの見晴らしのよい集団墓地で私と博士は立ち話をしていた。私と博士は盆地を一望できるこの牛伏寺墓地に来ていた。ここには糸魚川―静岡構造線を成す断層の一つである牛伏寺断層があり、東側には新第三期の火山の溶岩地帯が断層を挟んで東側に広がっている。ここからは盆地の東西を俯瞰することができた。誰の墓なのかわからないが、私達は高台の見晴らしのよい場所まで歩き、そこから盆地全体を眺めていた。先日新潟との県境近くまで一人で出かけた時に起きたことを博士に話したところ、では市内全体はどのような状況なのだろうかという話になり、それが気になるのなら牛伏寺に行けばよいというアドバイスを貰って博士を伴って牛伏寺まで来たという顛末だった。 「hIWaは君ではなく、亀裂の伸展具合を見ていたのだろうね。」 博士はそういうと、はるか北アルプスの麓を眺めた。ここからは北アルプスが一望できる。 「ここには牛伏寺断層という糸魚川―静岡構造線の一部を成す断層が走っている。後ろを見てくれ。墓地の縁の巨大な露頭に断層が露出しているだろう。これが現在のフォッサマグナの西縁だよ。今後どうなるかわからないがね。」  そう言って博士は後ろを振り返り、人差し指で後方の一点を指さした。 「なるほど。」 「あそこだよ。砂岩と泥岩の互層が崩れて小さな石が集まっている箇所があるだろう。あんなに崩れているように見えるけれど、あれはとても固い岩石になっている。近づいてみればわかると思うが、これはこの地域が南東方向の強い圧縮応力場であることを示しているのだよ。」  そういわれてもう一度後方の露頭と呼ばれる岩の壁をよく見ると博士の言う通り、ぐちゃぐちゃに崩れた層が三m程の厚みで存在し、それを挟んだ両側で互層の連なりが断裂していた。 遠く、離れて眺めると安曇野の平地や緩やかな扇状地に広がるわさび田が見えた。何の変り映えもしないこののどかな景色を私は愛していた。穏やかな昼下がりである。 「ここから見る限りでは日本海の水流はまだ市内までは入ってきていないようだね。」 博士がそういったので、私も軽く頷いた。二人で石づくりの階段に腰を下ろし一息ついていると、地面伝いに下腹部に妙な衝撃を感じた。そして何度も聞いた大きな音が聞こえてきた。ふっと立ち上がり音が聞こえて方向を見つめる。博士はすでに双眼鏡を覗いている。そんなものを持ってきていたんだと私は妙に感心した。博士は冷静に双眼鏡で安曇野、大町のあたりを見つめているようだった。 「やはりね。」博士がつぶやいた。 「何があったんでしょうか。」私は状況を理解できなかった。 「もうここまで日本海が拡大したということだよ。私の観測結果ではそろそろここにも亀裂が到達するだろうと想定していたが、ちょうど今だったとはね。」  双眼鏡を覗きながら博士はそう言い、怪訝そうな顔をしている私に双眼鏡を手渡した。双眼鏡の先には大町の平地に光り反射する水面の輝きが見えた。西側斜面に変化はない。 「そろそろ、大町や穂高の方は分断してしまったようだね。この短時間で明確に分離してしまった。」  私はあっけに取られていたが、先日のことを思い出し不思議と驚きはなかった。ぶーんという馴染みの音が聞こえたかと思うと、hIWaが上空に現れた。私はまた来たかという気持ちだになった。hIWaは私達の頭上をホバリングし、大町の方へレンズを向けている。もうhIWaは私達へ注意を向けているのだとは思うことはなかった。 「実は向こうに見えているのは、私の両親と祖父母、曾祖父母の墓だ。皆、この高台からこの地の行く末を見ている。私も死後ずっとこの場所からこの地のそして日本の行く末を見続けていくつもりだ。」 博士はそう言うと再び双眼鏡を覗きこんだ。 「下界はだいぶ騒々しく混乱しているね。そりゃそうか。ここは分断の第一線になったんだもんな。」 博士はそう言ってほのかに笑みを浮かべた。いつの間にかhIWaはどこかに飛び去ってしまった。              ✥  居室で論文を読んでいると、少し開けた窓の隙間から大声が聞こえた。割れたスピーカーの音だったが、何度も同じ文言を繰り返している。三度目のフレーズを聞いてやっと、何を言っているのか聞き取ることができた。それは『この地震は日本を東西に分断した。東側は沈下し現存する陸地部分はすべて水面下に沈んでしまう、だから皆西側へ逃げよう』という趣旨のものだった。なんともない気持ちで外音を聞き流していたのだが、西側はかの国の大陸に近づいていくため、そこを通ってかの国へ逃げるということや、沈みこみ速度の話など博士から聞いた耳馴染みのある話が聞こえてきたので、その整合性に驚いた。直接窓の外を覗きこむと、学生らしき人間が列をなしており、先頭に立っている一人の学生が白いハンドスピーカーを持ち、がなり散らしていた。 「沈みゆく土地を捨て、西側へ行こう。Go West!」  西側を通って大陸側へ逃げるということは考えてもみなかったがそれはそれでありえない話ではなかった。ただ東側のすべてが水面下に沈んでしまうわけではないのに、なぜ西へ行かないといけないのか?スピーカーから聞こえてきた話はやはり納得のいくものではなかった。私は窓から身を乗り出して、しばらく眺めていたが学生達の中にスーツを着た三十歳過ぎの中年男性がいることに気が付いた。あれは誰だろう、もしかしたら大学の教員の誰かではないかと、さらに身を乗り出してよく見ようとするとその中年男性と目が合ってしまった。その男性は私から目をそらすことなく、数秒間、私の方を見つめてきた。私はたまらず目をそらした。その男は私の知っている大学教員ではなかった。             ✥  博士の居室になんだかんだと理由をつけて最近は入り浸っている。いつも貰っているコーヒーのお礼のつもりで今日はコーヒー豆を手土産として持ってきて、居座り続け、すでに十五分が経過した。 「最近よく来るねえ。まあ大学の講義もこの騒ぎで休講になっているからいいけどさ。」 「まあまあ。話を聞いてください。歴史学と地質学は共通点が多いことに気が付いたんですよ。何か共同研究ができたら面白いですね。」 「そんなことだろうと思ったよ。」 窓の外からまたあの騒がしい声が聞こえた。 「またやっていますね。あれは何なんですかねえ。」  しばらくしてその騒々しいスピーカーの音がすっと小さくなり消えた。どこかの建物に入ったかなと思ったさなか、コン、コンと博士の居室のドアを誰かが叩く音が聞こえた。私と博士はぎょっとして顔を見合わせ、ドアの方へゆっくりと視線を注ぐ。 「博士。ご在室でしょうか?少し伺いたいことがあるのですが。お時間よろしいでしょうか?」  有無を言わさぬ存在感がドアの向こう側に鎮座している。  そこからの出来事を私は詳細に覚えており、今でも明確に思い出すことができる。あんな恐怖を感じたのは後にも先にもない。あの時の体験が私と博士の結婚につながった。あれほどのつり橋効果は他に類を見ないものだった。ドアを開けるとそこに立っていたのは紛れもなく瀬尾本人だった。その時の博士の深く氷付いたように固まった顔は今でもはっきりと覚えている。瀬尾の背後には十数人の学生が連なっていた。背後の彼らが声を上げることはなかったが、声ならぬ圧力は瀬尾の言葉一つ一つに多大な力を与えた。そのなかで瀬尾と二人の従者の合計三人だけが博士の居室に入った。私はそっと後ろ手にドアを閉めた。三人は私が存在しないかのように、部屋の奥に座る博士のもとへ進んだ。デスクの前まで来て瀬尾は、窓の方を向いて一度も入り口側に目を向けない博士の背中に向かい、東日本がすべて水没するのだろう、そうだろうと詰め寄った。それは外で大騒ぎしているのと同じ主張だった。博士と話をした時にフォッサマグナを境に分断が起きる、そして大陸は離れ離れになるとおっしゃいましたよね、その結果、東日本は沈み込んでいくと、早口にまくしたてた。人懐っこそうな笑みはそこには微塵もなく、目の前には博士を懐柔し自分の武器として使用しようとしている狂暴な獣のような女性がいるだけだった。何が彼女にそうさせているのか私にはわからなかった。従者の一人は唯一スーツを着て、髪を短く刈り込んでおり、以前に私が自室の窓から偶然目が合った中年男性だった。その中年男性は私には気が付いていないようだった。瀬尾が再び東日本は水面下に沈むのだろう、早くそう言ってくださいと、語彙を強め詰め寄ってきた。その目は血走っている。ただ博士はやっと彼らの方を向くとこう言い放った。 「私は研究者だから嘘はつけない。嘘を付いたら研究者でなくペテン師になってしまうから。東日本が水面下に消えてしまうことはない。たとえフォッサマグナを境にして二本が分裂したとしてもすべてが海面下に沈むことはない。」  彼らは少し後ずさりした。一分程の沈黙が居室を埋めた後、その中年男性が口を開いた。 「わかりました。もうやめましょう。瀬尾さん」 その中年男性がそう言った。 「私は市議会議員の吉田です。」 そう言い、博士に握手を求めてきた。握手する必要なんてないと私は心の中で強く思ったが、博士はその市議会議員の男と握手をした。後に博士から話を聞いたところによるととても冷たくしっとりと汗ばんだ手の平だったという。市議会議員は、市民の生活を守りたい。水没から救って、より安全な場所に市民の方には逃げてもらいたいと思っている。新潟の方から海溝が広がっていることは先生ももちろんご存じの事でしょう。大町の西側、北アルプスは今も巨大な山塊を残しているのに、東側には日本海がすでに流入している。そしてその流入はさらに広がり続けている。東日本はもう海底に沈んでしまうんですよ、と主張したがもはや博士は取り合わなかった。 「私の持っているデータでは今後東日本が消滅するような明確な証拠は得られていない。」 博士はそう言い放った。博士の言葉に瀬尾は市民が死んでもよいのか、と悪態をついたが、市議会議員はもういいでしょう。この人には何を言っても聞く耳を持たない人だからと言い、踵を返した。瀬尾はしぶしぶとそれに従い、研究室を出ていった。私と博士だけが研究室に残され、真の沈黙が訪れた。博士が私にハンカチを渡してきたので、なんだろうと思っていたが、頬に手を当てると私は涙を流していた。私は博士のハンケチを借り、涙をぬぐった。 「Go West」のムーブメントは一定数の人間の支持を得て、西側へ移動する多くの人間が現れた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加