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日本は完全に分裂したが、結局東日本は沈まなかった。そして私は博士と結婚した。博士がかつて住んでいた場所にはすでに海水が押し寄せ、水面下に沈んでしまったため、博士は私の家に住むことになった。大学は開店休業状態となり、水没はしなかったがその機能を完全に停止した。学生がいなくなった大学はその教育機関としての能力を失い、インフラを維持するための自治体および国家は教育どころではない状況に陥っていた。インフラのなくなった大学にいて何ができるわけでもなく、私と博士は大学に置いてあった研究設備をすべて私の家に持ち込んだ。大学に残っている教員はいなくなっており、皮肉にも博士と私が最後の二人だった。古民家は広く、だだっ広い広間があり、そこを葦簀でわけて複数の部屋を作っていた。また巨大な屋根裏部屋があり、かつてはそこで蚕を飼っていたことを父から聞いたことがある。私達は北側の囲炉裏がある部屋と、寝室、それと各人の個人スペースを葦簀で新たに仕切り、そこで暮らし始めた。博士は囲炉裏での食事には慣れないようだった。ただ私には幼少期から馴染みの食事風景なのである。そこには三十歳、五十歳にして訪れた甘酸っぱい生活がわずかばかりではあるが紛れもなく存在した。結婚式は特に挙げることはなかったし、届を出すこともできなかった。市役所はもう機能していなかったのだから。  荒れ果てたりんご畑を整備し、私達はそれを一つの収入源とした。それに自分達で食べるための野菜を作り始めた。日中は畑に出て、それが終わると各々の研究に着手した。私の部屋には大量の論文や書籍が並べられ、博士の部屋には巨大なモニターやいくつものPC、そして新たに電子基準点のアンテナが庭に設置された。それは元々大学の屋上に設置してあったものだった。博士が使用している衛星のデータはどこにいたとしても、収集することができたため研究環境は従来となにも変わらなかった。収入は激減したが二人いれば何とかなるものである。そんなことをしているうちに博士と暮らし始めて一年はあっという間に経ち、その間に東日本は太平洋プレートに乗って太平洋を漂うかのように、東へ東へと移動し、西日本は完全にかの国に合体し、かつて存在した日本海は消滅した。  博士の部屋にある巨大モニターには変わり果てた日本列島の姿が映し出されている。外部からほとんどの情報が入ってくることがなくなった現在でも、日本列島の真の姿を知ることができるのはこの電子基準点データのおかげである。博士は深いため息をつく日が増えていった。真実を知ることは、何よりもつらいことであると私は身をもって実感した。             ✥  生活必需品の備蓄に不安を感じ始めた頃、私達は一か月振りに市内の中心部へ繰り出すことにした。そこ向かう道乗りは山道を下る方向だが、時折アスファルトの道が朽ちているために私達は小さなスクーターにそれぞれ乗り込み市内中心へ向かうのが常だった。それは共に住み始めてからの決まり事だった。市内中央までの道のりはスクーターで一時間程である。道は通るたびに劣化が進むのを感じる程で、いつまでこの道を通ることができるのだろうかと前を軽快に走る博士に大声で話かけた。 「おん?」と博士のとぼけた大声が聞こえる。 「だからいつまでこの道を通ることができるんだろうねえ。」と私が大声で前方に叫ぶと、「おん?おん?」と博士の大声が飛び去って行く。  一緒に住んでみてわかったのは、当初想像していたよりも博士にとぼけた一面があるということだった。畑仕事の手際も悪く、私の方が器用なくらいだった。博士のスクーターは赤く点灯し、スピードを静かに落とし停止した。 「どうしたのー?」と私が大声を上げると博士は前方を指さした。指の先の道路が大きく陥没していた。 「これはトラバースしないとな。しょうがない。」 博士はそういいながらも、少しうれしそうな顔をして、スクーターを降りた。博士としては整備された道を何事もなく走るよりもこういったオフロードをなんとか登りきる方が気分が良いのかもしれないなと私は思った。こんなことに備えて私達は登山靴を履いていた。小さなスクーターは私でも持ち上げられる程度の重量だったので、スクーターを持ち上げて少し脇の獣道を歩いて進んだ。無事にトラバースすると、再びスクーターに乗り込み進み、ほどなくして市内中央が見えてきた。そこは峠道の頂上であり、この頂部から下りが始まる。わかっていることだが、毎度毎度驚いてしまう。まだ一年もたっていないのだから。市内はその半分が海水面下に沈んでしまっているのだから。  私達は大きなスーパーマーケットの前まできた。ここに来ると大概の生鮮食品から生活雑貨などが手に入るため重宝していた。いつもと変わらず私達は一か月分の米や調味料、肉やその他の生活雑貨を購入すると、博士が珍しいものを発見した。 「新聞が置いてある。」 「それは珍しい。新聞なんて一か月以上見てないから。」 博士は買い物籠に一週間分の新聞を入れた。日付は二週間前だった。買い物を終え、スクーターに私は戻ると博士は近くのベンチに座り、新聞を読み始めた。私は「はやく帰ろう」と帰宅を促したが、博士はもうちょっと待ってくれと言いながらベンチから腰を上げることはなかった。手持無沙汰の私は高い建物がなくなり、開けたこの町の風景をぼんやりと眺めていた。遠くに今までは他の新しい建物の影で隠れていた太古の建築物がぼんやりと浮かび上がってくる。かつて隆盛を迎え、そして消えていった過去の建築物が遠くに見える。ただその建築物ですら先の地震の被害を如実に受けている。そしてあの鴉城。城の周囲は断層の近くでいち早く海水流入の影響を受けた。この地域はこれまで感じることのなかったなま物の香りが強い。これが磯の香だということに気付いたのは地震後に市内中央に繰り出してから三回目のことだった。これまでに感じていたような乾燥して、真夏でもひんやりとした一瞬を感じることがあったこの市内からなにか違和感があり、その正体が磯の香とじっとりとした肌感だとわかった。海上に飛び島のようにポツンと立つ真っ黒な城は夕日のシルエットなのかとも見間違う程だったが、まだ午前中の快晴の下でそれは昔と変わらぬ鴉城の天守閣だった。その石垣は海下に沈んで今はもう見ることはできない。まだ見慣れぬ景色に私は過去と現在の景色の幻を私は見ているのかもしれないと錯覚した。なかなか立ち上がらない博士に私はしびれを切らした。 「早く帰ろうよー。肉が傷んじゃうよ。ここから家まで一時間近くかかるんだからー。」 そう私が話かけたが、博士は無心に新聞の紙面を見つめている。新聞にかじりつく博士の背後にこっそりと忍び寄り固まったまま動かない博士の後ろから広げられた新聞をちらりと眺めた。それはとても奇妙な新聞で、開いた紙面の左側には日本語で、右側には見たこともない文字が並んでいた。 「この新聞はなに?」 私は大声を上げずにはいられなかった。ベンチに座っていた博士が真上から聞こえてきた声に驚き、振り返った。 「おお。君か。」 「おお。君かじゃないわよ。何この新聞?右側に見たことない文字が並んでいるけれど。」 「おん?おん?」 【本日西日本全土が「***」となる帰属法案を施行】 「何この記事は?それにこの文字は何?」 「おん?やっと気が付いたね。この判読不能な文字はかの国のことを示しているのだろう。それに見たことがない文字はかの国の文字なのだろうね。左側に日本語、右側にかの国の文字で記事が書いてある。初めて見る文字群だよ。」 それは驚きだったが、最も驚いたのは西日本がかの国に併合されたということだった。 「一週間分の新聞を読んでみてわかったのは、半年くらい前に西日本の議会にてかの国の解放を求めるように主張する会派が現れたらしい。その会派が主張するにはかつてかの国の一部分が分離して離れていったのが日本であり、元々はかの国の一部だったのだと。そして現在になって西日本が分離して再びかの国に戻ってきた。西日本ではかの国に戻りたいという世論になっていて、その会派は西日本においてかの国に戻りたいと思っている人間を解放するために作られた集まりらしい。そんなことを望む日本人が本当に存在するのか謎だけれど。議会で一か月前に決まったのは元々西日本に住んでいたすべての人間を解放し、かの国への帰属を認めるといった大陸帰属宣言だったわけだ。もう西日本は日本じゃないってことだ。」 博士は一気にまくしたてた。 「なんか、かの国からのhIWaが飛んでこなくなったのはこの帰属宣言を出すためにそんなことをしている暇がなかったのかもしれないな。」博士がそうつぶやいた。私はなんとも薄ら寒い気持ちになり、襟元を正した             ✥  博士の横に座り、私は再び遠くを眺める。安曇野、大町、さらにその先の平地が水の底に沈み、かつての盆地底部が巨大な海峡になり、市内から見ると直立した二千五百~三千m級の延々とした壁が続いているように見える。その海峡は断崖絶壁となっており、決して立ち入ることを許さない壁となって立ち塞がっている。これまで山間に生まれた盆地で暮らしてきた我々にとってここはもはや海岸べりの港町になるのかもしれない。磯の香りがなお強く感じる。スーパーマーケットに新鮮な海産物が並ぶ日もそう遠くはないのかもしれない。対岸はもはや日本ではない。目に見える物理的な境界が目に見えぬ境界を生み出している。遠くからは久方ぶりの馴染みの低音が聞こえてきた。 「久しぶりにやってきたな」 博士が新聞から顔を上げてつぶやいた。 「一年半ぶりくらいだね。やはり大陸帰属宣言がなされて国が分かれたことが影響しているのかな」 私は博士に反応した。最初に見えてきたのは三羽程で、天守閣の上空を通り、小連隊を組んでいた。これまでに見たこともないような姿で以前のものよりも明らかに大きかった。 「斥候かもしれないな。市内に現れるhIWaとして三羽とは少なすぎる。」 博士が新聞を畳みスクーターのハンドルを握り、静かにヘルメットをかぶった。私もそれに習いビニール袋をスクーターの座席に入れるとヘルメットをかぶった。二人してひっそりとスクーターを押してビルの隙間の吹き溜まりのようなところに身を隠した。身を縮めてhIWaが通りすぎるのを待つことにした。スクーターをビルの壁に寄りかけ、隙間にもたれかかって上空を眺める。 「この先どうなるんだろうね。」 私がつぶやくと博士は何とかなるさ半分国土が残っているんだから、と相変わらず呑気なことを言ったので私は吹き出してしまった。しばらくしてブーンと複数の音が聞こえてきたので私達は顔を見合わせた。すると西の空が暗くなってきた。 「なんか来たかな。」 博士は地面に座り込むと、想像していた通りに上空に無数のhIWaが飛来してきた。それと共に道から人々の叫び声が聞こえた。皆地下や建物の中へ逃げ込んでいる最中ので、数人がこのビルの隙間に逃げ込んで来た。hIWaが通りすぎるのを待ち望んでいたが、あの不気味な音が消えることはなく、逆に増えていった。何か声が聞こえないか?とビルの隙間に集まってきた人の一人が小声で話した。耳を澄ましてみると無数の回転音の中で誰かの声が聞こえた。 【解放戦線です。解放戦線です。皆様を本土へ救出します】 と繰り返し聞こえた。 「あれは何だろう。」 博士が訝しんでいた。私はあの言葉は口先三寸の大嘘だろうと思った。 【解放戦線です。どうぞ安心してください】  hIWaからのアナウンスは続いた。 「あれ?もしかして先生かい?」「おお、玉原さん、久しぶりだねえ。元気にしていたかい?」  後方で博士が誰かと話をしている声が聞こえた。一瞥するとそれは私の知らない老人で、博士よりも年上のようにみえた。深く刻まれた顔の皺でおそらくこの人は山男だろうとわかった。 「実は年甲斐もなく昨年結婚してね。今日は妻と買い物で来ているんだ。」  急に私に話題がふられたので私は小さく会釈すると妻ですと小声で言った。慣れない言葉に違和感で満たされた。 「どうも初めまして。玉原です。山屋をやっていまして、北アルプスの山小屋の小屋番だったんです。今年はもう登っていないんですけどね。三十年以上北アルプスの蓮華岳で山小屋の主人をしていました。先生の調査地域だったのでよく来てくれて、その時に良くしてもらいましてね。先生には感謝しています。」 「そうなんだよ。いや懐かしい。こんな所で会うとはね。もう二年ぶりくらいかな。色々あったから僕もまともに調査に行けなかったし。山小屋はどうだい?」 博士がそう言うと、玉原はいやあ…と口ごもった。 「あの後また大きな地震があったでしょう。やっぱり山小屋にいたんだけどね。それで市内で暮らす娘と連絡が取れなくなって、それで下山することにしたんですよ。ただ下山したのはいいが娘は見つからないし、娘が暮らしていたアパートに今は住んでいて、娘が帰ってくるのを待っているんですよ。」  呑気な様子で話をしている玉原の話からその悲惨な状況を感じさせなかった。 「それは初めて聞いたよ。君、娘さんがいたんだね。早く会えるといいんだがね。」 「ありがとうございます。まあ、どっかからぽっと出てくるような気がしているのですよ。冬眠明けの子熊みたいにね。」 玉原は少し寂しそうな顔をしていた。                        ✥  hIWaからの音声がさらに大きくなった。この地域に住んでいる人々を解放します、そのためにやってきました、ということだった。 【すべて準備は整っていますので、西へ行きたい方は出てきてください。そして申し入れて頂きたい】  そう繰り返していた。ビルの隙間から私はhIWaに見つからないように覗き見ていたが、数人の男女が表通りに出ていった。とても貧しそうな身なりをしていた。それは地震により生活がままならなくなった人々なのだと容易に想像がついた。するとhIWaはその若い男女の顔面数mの距離まですーっと高度を下げ、空中で停止し、ホバリングをした。降下してきたhIWaは遠くから見るよりも大きかった。直径二m程の平坦な円状のボディとその周囲に小さな無数の回転体が付いている。この羽が不気味な音の正体だった。何やらhIWaにはモニターが付いているようで、そこに向かって若い男女が話かけている。しばらくしてもう一羽のhIWaが現れた。そして若い男がhIWaの平坦な肩部に乗り込むとそれを真似して若い女性ももう一羽のhIWaに乗り込んだ。二人が乗り込んだのを見計らって二羽のhIWaは高く舞い上がり西方へと飛び去って行った。唖然としてその様子を眺めていたが、背後に同じようにその様子をじっと見ている博士と玉原がいた。 「なんだあ。ありゃ。初めて見た。あんな大きいhIWaがいるんだな。それに人が乗れるとは。」  玉原の声が漏れた。博士も驚いた顔を隠さずに、ただ無言だった。 「ああやって、かの国に日本の人間を連れていくのだな。他にも多数が連れていかれているんじゃないのか。」 博士がやっと口を開いた。驚きを隠せなかった三人はビルの隙間から隠していたはずの身を乗り出してしまったらしい。ムーンという音がして気がついた時には目の前にhIWaが来ていた。近くで見るとその姿は巨大だった。なんと最初から三羽が飛来した。私達に身を隠す暇などなかった。 【驚かないでください。あなた方を救いに来たのです】 三羽のhIWaから同時に同じ声が響いて聞こえた。玉原は前に出てhIWaに何やら話かけている。モニターに誰かの顔が映し出されているみたいだった。背後から覗きこむとと若い女性のかわいらしい顔が映っていた。 「もしかして娘さん?」 私が恐る恐る問うものの、玉原にはその声は届いていなかった。長い間探していた娘が画面の中にいるのかもしれないのだから。しかしなぜ娘の姿が映ったのだろうという疑問に答えが出る前に私の一番近くに飛来したhIWaがムーンという音と共に私に近づいてきた。私は少し想像していたのかもしれない。ただあの人の顔が映ると私は年甲斐もなく悲鳴に似た小さな声を上げた。こみ上げる何かは涙なのか、それとも怒りなのかわからないが、その画面には年老いた母が映っていた。日に焼けて、ガサガサになった堅そうな髪を後ろに乱雑に束ねたくせ毛の母の顔がそこには映っていた。               ✥ 玉原は娘と話が付いたようで、スクーターの前で立っている私と博士の前にやってきた。 「娘がかの国に渡ったらしい。俺もかの国に渡るよ。あっちはインフラも充実していて不自由なく生活も遅れるらしい。俺の山小屋もあっち側になってしまったし。俺は行くよ。」  玉原の決断は早かった。悩む必要などないのかもしれない。 「さっき話していたのは娘さんかい?」 博士が聞くと、玉原は強く頷いた。 「そうです。こっちに来なよと言うんです。一緒に暮らそうって。こんな俺にそう言ってくれたんです。」 玉原はそういって、涙ぐんでいた。 「ああ、そうかい。幸せになれそうでよかった。あっちでも頑張って。」 「ありがとうございます。」 そういって玉原と博士は強く握手をすると、玉原はhIWaの肩に乗り込んだ。 「蓮の花の上に座ったお釈迦様みたいだろ?それではまたどこかで会いましょう。」 そう言うと、玉原を乗せたhIWaは上空に上がり、西側の海峡へと消えていった。私と博士の前に飛来した二羽のhIWaはいつの間にか姿を消していた。私と博士は何か、取り残されたかのような気持ちでスクーターにまたがり帰路についた。私達は決して彼らにはついていかないという道を選んだ。私達の住むべき場所はここなのだから。
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