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月華の水揚げ
翌日、月華と僕はお互いに謝った。
ただ月華はとても気にしている様子で、「ごめんな、びっくりした?」と笑って抱きついてくるかと思ったのに、指一本僕に触れようとせず、目さえ合わせようとしない。
さらにそのすぐ後、月華は蕾部屋から花の一人部屋に変わり、水揚げの準備に入ったから話す時間もなくなって……。
それからあっという間に日は過ぎて、大輪が去り、月華の水揚げの日がやってきた。
水揚げの花がいるときは、お客様が登楼される前に廓の皆でお祝いを伝える慣習がある。
僕も十六夜と日向と共に、月華の部屋に向かった。
「うわぁ、月華、綺麗!」
先頭を歩いていた十六夜が感動の声を上げて部屋に入り、日向も「おお!」と目を丸くして後に続く。
僕はさっきから胸がドキドキして、手足を小刻みに震わせていた。月華を見るのが怖かった。
「毬也ー? 早くおいでよ。月華が引き出物の金平糖をくれるよ!」
十六夜の声にどきっとする。橘さんが扉の前にいて「早くしろよ、ケダモノ」と尻尾を上下に動かした。
身を縮めて、おずおずと足を進める。
「……!」
息が止まった。
磨き上げられた肌は抜けるように白く、どうしたのか銀灰色だった髪もほぼ真っ白で、黒色の毛が筋状にいくつか混ざっている。それを丹念に梳かれて結われているため、深く抜かれた襟から覗くうなじが艶めかしく光っていた。
濃い赤の、大きな薔薇の模様の打ち掛けも魅惑的な猫顔によく映えている。着こなしの難しい仕掛けが似合ってしまうのは月華だけだと、上位の花が褒めていた。
僕もそう思う。今まで見てきたどの花よりも大輪よりも綺麗だ。これだけ美しければ、月華は多くのお客様に買い求められるだろう。
「……嫌。嫌だ!」
無自覚に言ってしまうと、賑わっていた部屋がしーんとなり、皆が僕を見た。
「毬也……」
月華も僕の方を見る。キュッと上がった目尻と口角がさらに婀娜っぽく見えるように、朱く縁取られている。
──嫌だ。こんなの、月華じゃない。
「やめて、月華。お願い、水揚げをやめて!」
月華にすがりつき、綺麗な打ち掛けを握ってぐいぐいと引っ張る。
こんなもの、脱いでよ月華。そのお化粧も、取ってよ。いつもの月華に戻ってよ。
「このケダモノめ! なにをやってるんだ。月華さんに触るんじゃない!」
月華「さん」? ……花になったからだ。もう、呼ばれ方も違う。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。僕だけの、ただの「月華」でいてよ……!
「月華、月華!」
腕を回して月華に抱きつこうとすると、橘さんに腕を掴まれ、後ろ手にして床に押し付けられた。東雲大輪の目がなくなった今、橘さんの力加減に容赦はない。
「どう仕置きしてやろうか、ケダモノめ」
「月華ぁ!」
痛いけれど、僕は月華の名を必死に呼び続けた。
「毬也……」
甲まで真っ白で、黒い縞が入った月華の足が僕の頭の先に来る。
月華は僕を助けるために、橘さんに刃向かってくれるつもりだ。
「橘、出て行け」
ほらやっぱり。月華は僕を守ってくれる優しい月華のままだ。
そう思って泣き笑いの顔を月華に向けた瞬間。
「早くこの行儀知らずのケダモノを連れて部屋を出て行け」
「え……」
驚きで固まった。ねじ伏せられた体の痛みも感じないほどの緊張が走る。
「言ったよな、毬也。俺はここで大輪になるんだ。今日はその門出だぞ。それなのに水を差して、どういうつもりだ」
月華の冷たい言葉に部屋の中がざわついた。十六夜と日向は「月華!」と咎めるような口調で言ったけれど、橘さんに「月華さんと呼べ!」と一蹴されて押し黙った。
「橘、ケダモノを仕置き部屋に入れておいて。仕事が終わったら俺が直接指導するから」
月華が僕を「ケダモノ」だと言った。橘さんはたまらずと言うように吹き出して、にやついたまま「はいよ」と返事をする。
僕はもう、月華の名前さえも口から出なくなった。呆然として力をなくした体を橘さんに引きずられ、月華の背が遠くなるのをぼんやりと目に映すだけだった。
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