日々

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 突然のことに驚いて、髪の先からお酒を滴らせている僕も、僕の腕を掴んだままのお客様も、体を固まらせて呆然とした。 「おい、毬也。なに粗相してるんだ! この酒がどれだけ高いかわかってんのか?」  この声は。 「……月華……?」  後ろから声がして振り向くと、どうしてこんなところにいるのか、美しく着飾った月華が立っていた。 「粗相? 僕は……」 「花への口答えは許されてないぞ!」  怒鳴られて、お客様に掴まれていた腕をぐいっと掴まれる。お客様に引っ張られたときよりも強い力に、思わず僕は月華の胸に体当たりをして寄りかかってしまう。   すると反射的にそうなってしまったのか、月華は反対の腕を回して僕を抱きとめた。  ……痛い。   月華、怒ってる? すごい力で体を締めてくる。でも僕、なにもしていない。お酒をかけてこぼしたのは月華じゃないか……もしかして、蕾の僕がお客様を誘惑しているように見えて、はしたないケダモノだと怒っているの? 「あの、月華……さん、違うんです、僕は」  釈明しようとするけれどまだ強く体を固定されていて、声が月華の胸に吸収されてしまう。月華の背は日々高くなって、僕の顔は月華の胸に埋もれている。  月華……顔と打ち掛け姿だけを見れば美人で艶やかだけど、肉付きもすごく逞しくなっている。胸が広くて硬い。  気付いてしまうと、筋肉もなく骨も細い自分の体が恥ずかしくなって、月華から離れようと腕の中でもがいた。 「……っ」  どうしたって頬や鼻が月華の胸にこすれてしまうと、月華が小さく唸った。こそばゆかったのかもしれないし、動いたことでお酒で濡れた僕の体が気持ち悪かったのかもしれない。  肩に手がかかり、ぐいっと体を押されて解放された。 「あっ、そうだ。お客様は……!」  お客様の存在を思い出し、月華の顔を見るより先にお客様に振り返る。けれどお客様の姿は消えていた。 「……日向の座敷に戻るよう促したから、戻った。客の心配は必要ない」  低く唸るような声で咎めるように言われて、パッと月華に顔の向きを戻す。途端に月華は打ち掛けの裾を優雅に払って、僕に背を向けてしまった。  促すって、月華はひと言もお客様と話していないじゃないか。どうやって座敷にお戻ししたっていうの? 大丈夫って言うけど、本当にお客様、怒っていないのかな。 「この件、橘に報告するから。多分十日間は座敷の出入り禁止と雪隠の掃除番だな。しっかりやれよな」 「えっ……でも僕はなにもしてない。……です」  雪隠はお手洗いのことだ。もちろん水洗じゃないから、雪隠の当番はとても辛い。無実の罪でそれを十日間も? 「蕾の分際で客に言い寄られたりするからだろ。自分の匂いを自覚して消しとけよ」 「そ、それは……」  やっぱりそうなんだ。僕がお客様を誘惑しているんだと思って蔑んでいるんだね? だから顔も見てくれない。 「これ、持ってろ」 「え?」  うつむいて唇を噛んだときだった。月華が手のひらに乗る小さな巾着袋を床に放り投げた。 「さっき登楼した客にもらったけど、俺は捨てるほどあるから嫌いな匂いのそれ、やる。いつも帯のところにいれとけ」  手に取ったそれは匂い袋だ。 「あ……ありがとうございます?」  ゴミを捨てるみたいにいうけれど、これはありがとうで合っているよね?  だってこれ、月華は嫌いな匂いって言うけど、東雲大輪に教わったからよく覚えている。これは色彩国にしか咲かない、紫の桜の香りの匂い袋だ。僕が住んでいた世界のラベンダーの香りにも少し似ていてとてもいい匂い。  僕がいい匂い、って言うと、月華も「俺もこの匂い好き!」って言っていたもの。 「は? なに勘違いしてるんだよ。ゴミだゴミ。どうでもいいけど自分の匂い、絶対に隠せよな。それから、そこの床掃除、ちゃんとやっとけよ。もう絶対に座敷には戻るな。じゃ」 「え、待って、月華。……さん!」  月華は早口でいろいろ言うと、品を保ちながらも早足で僕から離れていく。  僕はお酒で濡れた床の惨状を放っておくことはできなくて、結局月華の言うとおりに掃除をした。  しばらくすると橘さんが猛烈に怒って飛んできて、やっぱりお座敷仕事の禁止と雪隠当番を十日……ではなく十四日言いつけられた。  だけどね、雪隠掃除は鼻がひん曲がるくらい辛かったけれど、月華がくれた匂い袋があったから、あとで心地のいい香りに包まれて幸せな気分になれた。  僕に冷たくなった月華で、匂い袋をくれたときも怒っているような態度だったけれど、この香りの柔らかさは昔の月華の優しさを思い出させる。   それがとても嬉しくて、僕は十四日間の罰をしっかりと受けたのだった。
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