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第11回 百里魔眼と蛇蝎姫⑤
「やっぱりあんたがそうなのか!俺の弟分が此処に捕まってないか」
「いやぁ、私は存じかねますが。えぇ。数日前に馬喰と交戦した余所者なら、抵抗されたので、喰い殺したと報告を受けております」
心の張りが、途端に崩れた。痛みも音もなく、脚の関節が壊れてしまったように美猴王は、その場に座り込んでしまった。
途端に、美猴王の着ていた黒装束が、ばたばたとはためき出した。黒装束に化けた喬狐が怒声を発して昼隠居の精、百里魔眼の首に巻き付いた。
「苦しい!」
「殺してやる!貴様らを魂魄ごと氷漬けにして頭からゆっくりと削り落としてやる!」
「なぜ私から!おぉぉ、お助けを!」
百里魔眼が、このまま縊死すれば、此処から逃げ出すことはもはや叶うまい。悲鳴を聴いて我に返った美猴王は、自らの首から帯状に延びる喬狐の躰を両手で掴んだ。掌の肉に喰い込む痛みは、焼けた鉄箸を掴むようだった。
「止めろ!狐阿の仇は此奴じゃあない!今!此奴を殺したら、俺達は、もう仇に辿り着くことが出来ないんだぞ!」
やがて喬狐の躰は、くたり、と力を失って地に伏した。百里魔眼は白目を剥いて、陸に揚げられた鮒のように喘いでいた。
畜生、と小さく呟く。思わず口にしたが、此処は敵地の真ん中で、仇討ちなど正気の沙汰ではない。喬狐は沈黙していたが、泣いているようだった。美猴王は立ち上がると、猛烈な勢いで咳き込んでいる百里魔眼の胸元を両手で掴んだ。
「頼む。鰐の妖怪は何処か教えてくれ」
「貴方は、混世魔王さまに、成り代わる為に、此処へいらしたのでは、なかったのですね」
美猴王の眼を見た百里魔眼は、あぁ、あぁ、と、悲しそうな声を譫言のように吐き出した。
「混世魔王さまが貴方に倒されてから、全てを魔眼で見通せる私は、配下達に魔王さまの健在を騙り続けていました。と、云うのも。魔王さまが死んだと為れば、奴原は忽ち諍いを始めるからです。元々が混世魔王さまの威光の元に集った寄せ集め。仲間意識など皆無に等しい」
「魔王の奴もそんな事を云っていた。だからあんたにさえ会えれば、捕虜になった狐阿を連れ出せると云っていたんだ」
ほぅ。と、呆気に囚われた百里魔眼は、見たことの無い、まるで信じられない物を見るように眼を見開いた。そのまま暫くの間、宙を眺めていたが、やがておもむろに口を開く。
「それが、魔王さまのご意向ならば」
百里魔眼が語り始めた瞬間。
鐘を叩くように響く脳髄を振動させる轟音とともに、広間に繋がる赤い扉が、くの字形に折れ曲がり、倒れた。
「ふらっと居なくなって、帰ってくるなり引き籠もりとはよ」
腹立たしさの中から笑みが滲み出した声は嘲笑に似ていた。かつて扉の在った空間には鮮血で染めたかのような朱い脛当具足を装着した蹴り足が未だ浮かんでいた。
「あんた、やっぱり大将にゃ向いてねぇな」
あちゃー、と百里魔眼が鈍痛を堪らえるかのように頭を抱えた。美猴王は、無意識に爪先へと重心を移していた。そして掌の骨が折れんばかりに力が込められている。
緊張かと云えば、それ程品性のある感情ではない。むしろ、これまでの心のわだかまりが解きほぐされてゆくような予感。真っ白な暴力への開放感に思わず口許が緩む。
「一つ。あたいが気合を入れてやるよ」
「気合だぁ。おいおい。てめぇこそ寝惚けた事抜かしてんじゃねぇぞ」
凄むだけで、熱を帯びる程の圧を与える両眼の持ち主は、意外にも華奢な少女だった。
節足動物を想わせる甲冑を身に着けた彼女の本性は蠍の精。名は蛇蝎姫。
左手には、先程、扉の前に居た猫の妖怪の襟を掴んで引き摺り歩いている。哀れな猫の妖怪は彼女の急襲に遭い、気絶させられているようだ。
「はぁ。なんだ大将。ずいぶんと柄が悪くなったじゃねぇか。惚れちまいそうだぜ」
それはどちらからともなく始まった。
風を斬る鋭い鉄拳が交差する。
握手のように交わされたそれは、お互いの顔面で炸裂し、両者を弾き飛ばした。
百里魔眼が、やや遅れた開戦の銅鑼代わりに悲鳴を上げる。すかさず美猴王が黒装束を脱ぎ、百里魔眼へと投げつける。頼む。と、目で合図を送り、再び飛び付いてきた蛇蝎姫を鞠の如く蹴り飛ばした。
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