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第2回 I'm the one standing on the moon①
山の麓に拡がる鬱然たる樹海の道なき道を、空に浮かぶ満円の月の恵みが、煌々と照らして導いてくれている。
産まれて初めて見る全てに目を輝かせて道を行く子猿は、しかし知らなかった。群れからはぐれた弱き者は、すなわち強き者らの餌食になることが下界の掟である事を。例外なく子猿も、樹海に棲む野獣に狙われた。豺狼。それは貪欲さを具現化したかのような裂肉歯を持つ四足獣。樹海の持つ高低差著しい足場に適応する為に長く伸びた狼爪を持つ樹海の狩人達である。
その気配を察した頃には既に逃げ道を失っていた事すら子猿は知らない。苔生した大樹の陰から、大地を乱暴に押しのけて隆起した根の陰から、生暖かい粘り付くような息遣いが、こちらを何処までも追いかけて来る。やがて多数が、子猿を中心に円を囲み、比べて体格の良い豺狼の一匹が距離を詰めてくる。樹海は彼らの狩り場であり、自らが獲物であることを理解すると子猿は、迫りくる豺狼に対して威嚇を始めた。
小さな牙を剝いて唸り声を上げた瞬間、背後から不意討ちで噛みつかれた。右肩から喉元、痛みは未だなく、ただ気道が潰れているせいか呼吸が出来ない。瞬く間に子猿の脆弱な背骨が圧し折られ、吹き出した血液が豺狼の喉を潤した。
ちっぽけで無力な猿一匹に対して、まして大して喰いでの無さそうな子猿に対して数の暴力に頼る豺狼を果たして誰が卑劣などと云えるだろうか。これは営み。彼らの日常だ。
咥えた獲物を顎の力で幾度も振り回し、絶命を確信した豺狼は、もはや肉塊と化した子猿を地面に叩き付けた。さあ、晩飯の時間だ。豺狼達が血肉を求めて獲物に群がる。が、しかし。
石。
彫刻さながらに子猿が石になっていた。
牙を立てようにも、文字通り開いた口が塞がらず、当てのない食欲だけが場に彷徨っていた。殺られる前に入れ替わったとか幻覚とか妖術の類いではない。現に噛みついた豺狼の牙は今も子猿の血で濡れている。生命の殺り獲りは確かに存在した筈である。
石が脈動し始め、ひびが入る。やがて子猿が、否、猿が石から『産まれた』
右肩から喉元、身体のどこにも傷跡はない。それどころか。奇妙なことだが、成長している。もはや子猿と形容するに値しない力強さを有している。漆黒の体毛はそのままに、体格の変貌は明らかである。
得体の知れない異物を相手取るほど愚かではないのだろう。間を置かずに、豺狼の群れは散り散りに気配を消していった。
どれほど歩いたろう。まるで迷宮のように森は次々と新しい姿を魅せつけてくる。かぐわしい匂いを追って進めば、その正体は毒々しい色彩の醜い花であったり、動物の死骸に集まり極彩に光る羽を持つ虫など、樹海は石猿の興味を次々と掻き立てるものに満ちていた。
木々の間、遠くに天高く突き出してそびえ立つ巌が見えた。あれを目標にしようと石猿は大樹に絡みついた蔦に手をかけ登りだした。枝から枝に飛び付いて進めば、歩くよりずっと早そうだ。初めは慎重に。段々と早く、もっと。もっと早く跳べる。と、石猿は自分の身軽さをもって樹海の宙空を支配下においた。
辿り着いた岩壁の傍らに、自分に似た姿を見掛けた。一つではない。数多く、大から小。あれは自分の何だろう。枝に片手でぶら下がり、石猿は遠巻きに、その一群を観察していた。
それは樹海に棲む賢人。猿の集落である。彼らは、そびえ立つ岩壁を背に定住し、一団を成してお互いを守っているのだ。当然、此方を伺う石猿の気配には既に皆が気付いている。似た姿をしたものに多少の警戒はあれど、皆一様にあっさりとしている。他の群れのはぐれ者など、さして珍しくもないからだ。枝から飛び降りて、石猿は集落の端に腰を降ろした。
不意に、全身を震わす程の叫びが岩壁の頂きから響いてきた。他の猿達が崇めるように頭を伏せる。やがて頂きに満月が突き刺さり、猿叫の主が月光に照らし出された。
彼こそは美猴王。傲来国の人間共が彼を畏れ、その名を付けた。曰く、暴虐の魔王。樹海を力で統べる者の名だ。
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