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第4回 I'm the one standing on the moon③
嫌がる人間を俵担ぎにして水簾洞を脱出した石猿は勢いそのままに滝壷目掛けて飛び込んだ。目的は美猴王の躰に巣食う猛毒を神の御業でもって癒やす事。この人間こそが、噂の神仙に違いない。偉そうに四本の尻尾を生やした生き物など見たことがないからだ。ざぶんと水辺から飛び出すと、石猿は山を転げるように駆け降りた。
樹海の様子が、どうにも可怪しい。夜空では紅く染まる下弦の月が、にんまりと此方を嘲笑っていた。夜の住人達が、息遣いすら忘れてしまったのかのように森には静寂が漂っていた。担いた人間が震えているのは寒さのせいか。いつの間にか人間は、白い獣に入れ替わっていた。あの丸っこい奴と隠れていた奴だ。しまった。これは化かされたかと思ったが、尻尾は、やはり四本ある。ならば、と石猿は、また駆け出した。
ふと背後から気配がした。
足音からして同族か。足を止めると石猿の首をめがけて鋭い爪が襲いかかってきた。身を竦めてそれを躱すと、別の猿が全身で覆い被さるように飛び付いてきた。すかさず担いでいた獣の尻尾を大きく横薙ぎに振って叩き落とす。両脚に力を込めて、大きく後ろに跳ぶと、猿が三匹、牙を剝いて立っていた。それは家族、美猴王の群れの仲間だった。担いでいた珍しい獣が気に入らないのかと、白い獣を乱暴に地に降ろしたが、どうやら彼らの目当ては石猿らしかった。
白い獣の尻尾の一本を掴むと、石猿は大きいが、しかし立ち枯れた樹木の一つに飛び付いた。片腕をものともせず、ひょいひょいと、樹皮に爪を喰いたてて、木から木へと、枝から枝へと跳び移る。追手から充分な距離がとれた頃、石猿は美猴王の岩壁。猿の群れの只中に到着した。
「ん」
猿の群れの中心に猿ではない何者かが、立っていた。何者かの隣には美猴王が、頭を垂れて蹲っている。
「おぉ!君かぁ。最近、妙な気配をこの辺りで感じてね。わざわざ北の坎源山から君に逢いにきたよ」
微笑み。またしても人間だ。
身の丈はすらりと伸びて、脚が長い。肩までかかった鏡のように輝く髪の毛。そして、睫毛から下は一切体毛のない、まるで陶磁を思わせる艶艶しい肌。僅かに垂れた眼元は蠱惑的で、少年っぽさを残した笑顔は一度視線を合わせてしまったら、痺れてしまうような美青年である。その彼が、月の淡い光に当てられてもなお黒い、漆黒の着衣を身に着けて佇んでいる姿は、一転して不吉な様相を際立たせていた。一言で表すならば、死神だろうか。
「私の名は混世魔王。今しがた、この群れの主と出逢ってね。お友達になったところさ」
混世魔王は美猴王の頭にそっと手を置いた。優しく。親が我が子にするように。あろうことか、あの美猴王の頭に。混世魔王は、呆然と動かなくなった石猿の様子を見ると、眉間に少し皺を寄せた。腰に差した鞘から、すらりと柳葉刀を抜く。刀の幅は広く、刃に醜悪な表情の髑髏が装飾されている。
「私の一番得意な妖術だよ。こいつで斬り殺されると、みんな私のお友達になるんだ」
石猿の投げた投石を、混世魔王が刀ではじいた。会話の内容は全く通じてないが、石猿の本能が、奴をぶち殺せと警鐘を鳴らす。さらに続けて投げた投石は、他の猿達が混世魔王を庇うように、その身を盾にして受け止めた。
「会話は愉しめそうにないな」
一足跳びで美猴王が石猿に襲いかかってきた。硬く握り込まれた拳が、石猿の顔面に深くめり込む。その剛腕に任せて岩壁目掛けて吹き飛ばした。潰れる果実のような音を立てて壁面に叩きつけられ、石と化した石猿は、即座に石の殻を破り捨てると、身を捩って追撃に備えようとした。しかし、三十貫はあろう巨体が、球体を成して跳んでくる。石猿は、咄嗟に岩壁の表面に生い茂る蔦を掴んで逃げた。
それにしても美猴王の体当たりの破壊力たるや。激突した岩壁が僅かに揺れて見える程の衝撃で、石猿などがそれを真正面から受けていれば躰は四散していただろう。躰がばらばらになった場合、果たして石化して蘇ることが出来ようか。怖気に身を震わせ、動きを止めた石猿を蔦から引き剥がして美猴王が、再び空へ跳んだ。
左の腕を石猿ごとぐるんぐるんと廻し、上空から地面目掛けて投げつける。流れ星となった石猿は他の猿数匹を巻き添えにして樹海の大地に叩きつけられた。護るものの無い美猴王はこんなにも強いのか。二、三度の美猴王の突撃で、巻き添えになった猿達は少なくない。
石から蘇った石猿は、自分の周囲に散らばる家族の死体を見て、哭いた。美猴王の雄叫びが何処で聴こえる。彼も哭いているのだ。家族を盾にとられて、為すすべ無く傀儡と化した暴虐の魔王。それを見て、にたにたと厭らしく微笑む奴がいる。感情の高鳴りは石猿の目から止め処無く流れ出した。断じて悲しいのではない。激しい怒りの迸りが全身で波打っている。強烈な殺意が、混世魔王の姿だけを見ていた。
「その表情」
対照的に、敵意なく混世魔王が石猿に近付いてきた。まるで握手でも求めるように刃を向ける。
「あぁ。堪らないな。そんな表情をした君とこれからお友達になれると思うと、私は堪らないんだよ」
牙を剝いて、石猿が飛びかかる。混世魔王の口元が歪な湾曲を描いた。咄嗟に振り返り、背後から現れた石猿と対峙する。石猿の姿は、白い獣が、混世魔王を欺く為に妖術の氷で造った鏡面に映ったものだった。
「浅はかだ」
混世魔王の素速い横薙ぎが石猿の胴を上下二つに裂いた。しかし、胸から下を失った石猿は、そのまま混世魔王に抱き着いた。首の頸動脈を目掛けて牙を立てる。混世魔王が呻いた。石と化していく。石猿が混世魔王ごと石と化していく。
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