Macchiato di tela Vol.2  秘密のヴィーナス 前編

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「この破廉恥写真、どういうことか説明できるんでしょうね?」  CP黒鳥麗子(BB)の詰問がある一室で続いていた。円満退職したはずのBBだったが、教授と私のあの写真のために舞い戻ってきてしまった。 そのことでただでさえ部署のみんなから白い目で見られているのにこの有様。どこかにいいきみだとも思っている社員もいるかもしれない。 「城長、あなたが有給で行けとそそのかしたらしいわね? え? いくら元夫婦だからって、言っていいことと悪いことがあるのよ。わかってるの?」  城長Pも相当小さくなっている。 「公私混同したつもりはないのですが…。今後余計なことは言わないように気をつけます。」 「部下の管理も大切な仕事だってこと。改めて肝に銘じなさい。」  BBが顎で行けと合図すると城長Pは深々と頭を下げこちらも見ずに部屋を退出した。 「で、あんたたち、こんな格好をして何をしていたの? 言いなさい。」  閑散とした部屋。窓のブラインドのスリットを通した光が後光よろしくBBの後頭部を照らしている。  一言が生死を分ける。 「それよりも、教えてください!」  私は彼女に対して何も悪いことをしてはないない。  責められた時は、こちらから攻め返してみるのも手だ。ギュッと真面目な表情で声を上げた。 「教授にはなんで娘さんがいるんですか?」  一瞬だが彼女が怯んだように感じられた。 「零。あなた…、どこまで知っているの?」 「CPが知っていることを教えてください!」  自分がどんな表情をしているのかよくわからなかった。 「それは…、あなた自身が聞くべきよ。なんであたしが教えなきゃいけないの⁉︎」  だって、メッセージを送ってきたじゃないですか!と言いそうになったところでノックをして入ってきたのは教授だった。 「あ。」  一見でわかるシチュエーション。 「まさか、出戻ってくるとは思っていなかったなぁ。若い子をいじめるのはやめたほうがいい。」  いきなり来てそんなことを言うなんて、火に油を注ぐようなもんだ。 「若い? お年寄りのあんたから見りゃそうだけど、いいかげんこの子も年増よ。それなのに許せない! こんな写真!」  教授はバツが悪そうに頭をかきむしった。 「楽しそうだからだろ?」  は? なんだそりゃ。 「誘ったのは俺の方なんだよ。彼女は断ってきた。まぁ、正確に言えば彼女は巻き込まれちまったってことになるが。」  BBは教授の言葉にくるっと向きを変えてため息をついた。 「そう、私も行きたかった。」  小さくそう漏らしながら向き直って見せた表情は不思議と美しかった。 「今回の収穫はなんだったの?」 「あぁ、残念ながら…。」  教授は私を見ながらしょうがないと両手を広げた。 「そうか、やっぱりシモネッタにやられたのね。あいつは結構要領がいいからね。どうせ、美味しいところを持って行かれたんでしょ。」  なんでそんなことがわかるんだ。 「おまけにこの写真。確かに面白い記念写真よね。ばか。だいたい詰めが甘いのよ。」  完璧なんてあり得ない。ただ、BBのいうこともわかる気がする。 「俺たちは頑張ったよなぁ?」  ちょっと待って。ええ、頑張りましたなんて口が裂けてもこの場では言えないだろう?   同意を求めるな! もう。 「いい? 番組のネタになるようなことをゲットしてくるんだったらまだ許せるけれど、残ったのはこの写真だけなんて!」 「結構好きだけどなこの決定的瞬間。」  私も嫌いじゃないけど。   BBはダンとテーブルを叩いた。声の出ない口が空回りしている。 「失敗があるからこそ、成功があるんだよ。あんたが一番知ってるはずだろ?」 「うるさい! いい歳をしてこの恥知らず!」  BBは鬼瓦の表情なのに何故か瞳は潤んでいる。  ふぅ、という彼女の軽いため息が聞こえた。 「でも、確かにわかったことが1つあるんです。」  彼女は私を睨みつけながらゆっくり「何?」と瞬きをしている。 「それは、サスキアがレンブラントを心から愛していたと言うことです。そして、きっと彼も。」  教授と私の間にある暖かい空気がBBの方に流れ出している。 「残念ね。それが伝えられないなんて。」  ピピっとBBの携帯がメッセージの音を奏でた。 『改めてご結婚おめでとう。それにあなたが仕事に戻ってきたって、あの写真の効果抜群ね。アムステルダムではあのコンビから素敵なプレゼントをもらったけれど、いつかお返ししないとね。』 「マンチークめ。」  BBはそう呟くとキッと私をみた。 「もういいわ。この件についてはおいおいまた話しましょう。」  教授は私の肩を触って部屋を出ようと促した。 「真治、ちょっと。」   ×  廊下を歩いているとすりガラスのドアの前で城長Pに呼び止められた。 「沢山。」  少しやつれている。 「あ、きょうは私が奢ります。」  例の自販機の並ぶ休憩コーナーに入るとレイアウトが新しくなっていた。 「こいつは最新のAI搭載のなんていったかな、チャットGなんとかと少しやり取りするとその人その時に合った飲み物を出してくれるらしい。」 「なんかめんどくさいですね。」 「まぁ、やってみろ。」  自動販売機の前に立つと目の前にある画面に自分の顔が映し出された。どこか疲れている。 『よろしければ、登録してください。』と表示されている。  はっきり言って登録なんかしたくない。 が、Pがさっと手を伸ばしてポチってしまった。 『お名前をどうぞ。ニックネームでもよろしいです。』  ああ、めんどくさい。レイとカタカナで入力した。 「ねえ、この私の写真の下に表示されている数字は何?」 「さぁ? 今まで何人登録したかじゃないかな?」  本当だろうか。数字は55だ。まさか…。 「まさか見た目の年齢じゃないでしょうね。」  Pがニヤけている。 「もう許せない!」  私はいつも若いって言われているのに、機械ってやつは容赦なし。疲れているだけなのに。冷徹なデーター処理しかできない奴なんだ。彼を怖い顔で睨みつけてプイとその場から逃げ出した。 「おい。」  後ろでゴーっと何か飲み物が出ている音がする。 「あ、出てきたのはコブ茶だ。」  背中でそう叫んでいる。何それ! 「私の奢りよ。」  そう言うのが精一杯だった。ったく。今度一人の時に蹴っ飛ばすか電源抜いてやる、あの自販機。   × 「いい加減にうちの社員をからかうのはやめてちょうだい。」 「そんなつもりはないよ。からかうなんて。若い人から学ぶべきことは沢山ある。」 「そうやってみんなを騙すんでしょ?」 「勘ぐりすぎだ。俺は常に同じ土俵に立つ努力をしている。上から目線などではない。」 「ふん。そんなんだからマンチークの思う壺なのよ。」  教授は軽くため息をついた。 「持ちつ持たれつのところもあるんだよ。」 「いい、あたしが帰ってきたからには好きなようにさせないからね。」  教授は困ったなぁと言う表情をどこかに見せている。 「だいたい、さっきあなたが彼女を誘ったんだって言っていたわよね?」 「いや、これには成り行きってものがあってだな。」 「いったいあんな格好で何をしていたの?」 「まぁ、ちょっとした探偵ごっこだよ。」  教授の眼差しは真剣だがどこかニヤけている。 「呆れた。今更だけど、本当にあんたと一緒にならなくてよかったわ。」 「あ…。」  彼はコートの内ポケットを弄った。 「そういえば、ご婚約おめでとう。今日の宿題はこれだった。」  リボンで包まれた封筒をテーブルの上に置いた。 「今度誘ったら来るか?」 「え?」  BBがその安っぽいリボンに気を取られているとバタンと扉の閉まる音がした。   × 「教授、待ってください!」  スタスタと歩く教授を追いかける私がいた。 「なんだ、今日はもう終わりか?」 「いいんです。あそこにいたくないんです。」  教授に寄り添って少しブスクレ顔をしながら早足で歩いた。と、彼が突然立ち止まった。 「そんな顔するな。いつもよりふけ…」  彼は振り返った私の泣きそうな顔を見て一瞬黙ると両肩を掴んで優しい笑顔を見せた。 「零。いつもの素敵な笑顔でいてくれるか? あのいつもの強い心意気だよ。」  私は彼を見つめた。 「そうするとみんなが元気で幸せになる。」 「教授もですか?」  …優しい真顔だ。 「もちろんだよ。今回は、巻き込んでしまってすまなかった。でもな…。」 「でも?」 「すごく楽しかった。本当にありがとう。」  不思議だ。泣きたい気持ちと共にどこからか力が湧いてくる。わからないけど、無性に教授に抱きつきたい衝動に駆られている自分がいる。もう、スローモーションの世界。 「零。」  ああ 「例のヴィーナスだが。」 「あ?」 「あれを描いたのは誰だ?」 「えっと…。」 「彼女の目の色を知っているか?」 「え? 青かな?」 「彼女がどうやって生まれてきたか知ってるか?」 「ホタテ貝から…。」  教授は大きくゆっくりと首を横に振っている。どこか嬉しそう…だ。 「ヴィーナスはな、ポコチンの泡から生まれたんだ。」  このすけべジジイ。またそんな話を。意味がわからん。人の気持ちをすっ飛ばしている。 「何それ、おかしいんじゃないの?」 「いや、生物学的にいえばだな…、」  私は思わず彼の胸に飛び込んだ。 「おい。」  そう言いながら彼もぎゅっと私を抱きしめている。 「こ ん に ち は。」  どこかで聞いたこととのある透き通った声。 「ミア。」  彼の胸元から振り返るとあの爽やかな娘さんがそこにいた。 「お父さん訳のわからないことばかり言うんです。ごめんなさい。」 「なんだそりゃ。お前が謝ってどうする?」  って嬉しそうな教授。 「零さんって呼んでもいいですか?」  私は目をパチクリした。 「お母さんって呼んでもみたいけれど…。それは。」  確かに私の年齢であれば、これくらいの娘がいてもいいかもしれない。でも、そう呼ばれるとなんだかすごく現実的で、こんなオヤジと夫婦ってどうなのっても思ってしまう。  私は彼からスッと離れた。そして彼女にスッと手を差し出した。 「改めて、零です。」  すると彼女はその手を掴んで引き寄せ私をぎゅっと抱きしめた。  まるで、私の方が子供のように。  顔が日照っている自分がいる。 「ミア、昼ごはんでもどうだ。」 「ええ、私も話したいことがあるの。いいところがあるわ。最近行ってないけど私のお気に入り。」 「じゃ、みんなで行こうか。」 「賛成!」  ミアも教授も子供のようにはしゃいでいる。なんだ?   ×  ビル群から少し外れた住宅街の中にある一見それとはわからない佇まい。ちょっとした石畳を歩いて南欧風の扉をチリンと鳴らして店内に入ると長いカウンター席がある。 「いらっしゃい!」 「こんにちは。」 「あぁ、ミアちゃん久しぶりだね。ちょうどよかった。」  茶色い無地のエプロンをかけたマスターの笑顔はどこか懐かしい感じで癒される。 「お、今日はご家族で?」  ミアはクスッと微笑んでいる。 「こっちこっち。」  マスターはカウンター奥から手招きをしている。ダークな壁にはところどころモディリアーニのコピー絵がかかっている。 「おー。」  教授はキョロキョロしながらミアの後をついていく。もちろん私も。 「実はね、昨日から中庭を開放したんだよ。ま、広いわけではないけど。」  そこはパッと明るいオアシスのよう。 「まるでモネの絵みたい。」 「さすが、お若いのにわかってらっしゃる。」  確かに絵画のような瀟洒なお庭。パステルなそよ風が漂っている。 「零さん、好き嫌いは何かありますか?」  笑顔のミアに私は首を横に振った。 「マスター、じゃ三人分の本日のパニーニセットで。えーと飲み物は?」 「おとう、実はね…。」 「なんだ?」 「これ。」  ミアは教授に携帯を見せた。アルファベットが並んでいる。何語だろう? 「この前のアムスの件で私のことを思い出したんだって。」  アムス? 私たちのこと? 「何か言っておいた方がいいかな?」  ミアは首を横に振った。 「大丈夫。私子供じゃないんだから。」 「ま、そうだな。」  就職のことだろうか。  ミアが私の理解していない表情を感じたのかこちらをみて口を開いた。 「実は、シモネッタさんのところに研修に行こうと思うんです。」 「って?」 「ええ、フィレンツェに。」  思わず飲んでいたモヒートを吹き出した。  教授はポーカーフェイスだ。何も動じていない。彼は優しく私に目配せをしている。 「あ、有名なポンテベッキオがあって、あのタイムリーな裸のダビデがいるところでしょ?」  美しいトスカーナの街フィレンツェだけど、私の口から出たのは最近のニュースイメージだった。 「あぁ、あれをポルノだって言うやつの気が知れないな。そうなると、全てのものがポルノになりかねない。」 「ホント。宗教画だって建物の像だって色々露出しているものはたくさんあるわ。」  ミアはそう言いながらうなづいているが、実際にはTV放送的には微妙なところがあるのも事実だ。 「メルカート・ヌォーボにある像を知ってるか?」 「ポルチェッリーノ噴水にある青銅製のイノシシでしょ。」 「ちょうど市場のところにあってね、おばちゃんたちに大人気なんだよ。」  はぁ? それがどう関係あるの? 「みんなに撫でられて、鼻のところなんかピッカピカなんだけど、そこだけじゃないんだ。」  ミアの反応は早かった。 「あ、キャー、タマキンね⁉︎」 「そう、おばちゃんたちに弄られてまさにテッカテカの金の玉。」  ばか、なんてフォローしたらいいの?  「それを撤去したら暴動ものよね〜。」  ミアまで乗ってきている。血は争えない。 「まぁ、あれは動物だからその見地は異なると言えるが、とどのつまり、ポルノかどうかはその当人の心持ちと社会のバランスってことだ。もちろん、どこまでが許容できるか、その境界はその時代によっては変わるだろうが。」  そう言う教授に私はキッと強い視線を投げた。 「確かにそうね。でも、気をつけたほうがいいですよ、特に教授の発言は。男女のモラルバランスは特にここ最近。」  ブフッと彼は飲み物を吹き出した。ミアは私に向かって拍手している。 「ところで、ウフィッチイだっけ、美術館。」 「ええ、あそこに学生を受け入れてくれる研究室があるんです。」 「すごい! そこに研修に行くの? いいなぁ。」 「卒論の題材でも見つかれば儲けもんだな。」  ミアは大学生か。 「変なイタリア男に捕まるなよ。それだけが心配だ。」  どことなく真剣な父親の面持ちだ。 「彼女が気になるとしたら、少なくともあなたよりはしっかりしてる人ばかりでしょ? 」 「はぁ?」  とはいえ、親子ってことは…。いや、きっと真面目な母親の血を受け継いでいるに違いない。  あ、母親がどんな人か知らないんだ。  ミアのクスッという笑顔からは聡明さが溢れている。  きっと大丈夫ね。でも、恋には人を狂わす魔力も隠れている。  熱々のパニーニが新鮮に輝く緑の葉っぱとともにお皿に載ってやってきた。          ×  最新の折りたたみ携帯を90度の角度で机の上に立てて、年甲斐もなくパンプスを交差させながら机の上に両足のせふんぞり返っている。 「で、あなたの見解は?…」  封筒に入っていた写真とメモを見て夕陽を背にシルエットがうなづいている。 「なるほど。…私の、いや私たちの見解は少し違うの。」 「コモ?」 「だから、番組として構成できるかもしれない。それはいいでしょ?」 「アスペータ。私の分析を学会に開示してからよ。」 「わかったわ。それはそうするけど。時間をかけないでちょうだい。」 「勝算があるというの?」 「それはどうかな。ただ、TVはネタが新鮮なうちがいいの。それとタイミングかな。」 と言いながらBBの口元は少し笑っている。 「それに、あいつの考えていることはいつも突拍子もないことだけど、その視点からは物事が立体的に見えてくるっていうか。そういうこともあながちないとも言えないし。」 「日の当たらないアングルから見てるだけにかなり怪しいけどね。それより…。」  おそらく電話の向こうでも同じことを考えているようだ。 「あの女とは妙に息が合っているわね。あの二人長いの?」  BBは目を閉じながら首を横に振った。 「アムスに行く前に仕事で会ったのが初めてみたいよ。」 「気になる二人ね。」 「フン。ちょっと盛り上がってるだけよ。」  画面に映っているマンチークの瞳の奥の意味はわかりかねた。一瞬の沈黙の後彼女の口が開いた。 「ところで、また仕事で海外に来る機会があるかしら?」 「久しぶりにどこかで会いたいわね。お互いくだらない話もあるだろうから。」  電話の向こうで彼女は高らかに笑っている。 「チャオ。」  そう言って画面上の赤いマークに触れた。  BBはなんだか久しぶりにドキドキしてきている自分がいることを否定できなかった。仕事場からの引き際を華麗に決めたつもりだったのに、今再びこの場所でなんだか新しい高揚感を味わっている。  それがあの二人の失態からだったとしてもだ。  等身大の鏡に写る自分が遮光に照らされている。     × 「私たちはいつから行くの?」  駅に向かう歩道を歩きながら教授に聞いた。 「うん、ちょっとそれはだな…。」  答えが濁っている。え?先行きが怪しいってこと? 「零、ヴィーナスのモデルになった女性を知っているか?」  私は首を横に振った。女神なんて想像で描いたのかと思っていたけれど、そのイメージとなる人はやっぱりいたんだ。 「シモネッタという女性だったんだよ。」 「え?」 「いや、もちろんマンチークではないが。」 「そんな昔からある名前なんですね。」 「あぁ、絶世の美女だったらしい。ボッティチェリはその彼女をモデルにした。」 「いいなぁ、女神のように美しい女性。」 「ヴィーナスには硬くはならないけどな。ま、言い寄られればわからんが。」  呆れた。思わず肘鉄を喰らわした。 「あう! 何する。」  横目で彼をキツく睨んだ。 「いや、だから、私の好みとはちと違うってことだ。顔だけ見れば確かに魅力ある女性だけど。」  って身体? もう、言っていることがセクハラオヤジそのものだ。 「ヴィーナスは美の象徴としてというのは知っているよな?」 「ええ、当たり前ですよ。」 「だが、罪深い女神だったんだぞ。」 「?」 「下ネタ好きだったんだ。」   それはシモネッタでヴィーナスじゃないでしょ! 「美しい女は罪深いんだ。それは今も昔も変わらない。そうだろ?」 「私のこと? やっとわかってきたのね。」  教授は私の額に手を当てた。 「熱、ないよな?」  バ カ。 「ギリシャ神話って、神話という割には週刊誌というかタフロイド版とでもいうような人間臭い話ばかりだよな。」 「18禁のおとぎ話って感じかしら。」 「まさしくそれだ。しかもぶっ飛んでいることが多くある。」 「神話なのになんで?」 「おそらく、あの時代、神様たちの話にしないとそんなことを公言することが許されなかったんじゃないのかな?」 「うーん?」  また勝手な推測をしている。 「それとも、みんながそんな俗っぽい話が好きだったのかな?」 「いつの時代も変わらないってことかしら。」 「ああ、実は今の時代の方が生きづらいのかもしれないな。」  私は教授を横目で見てわかったように大袈裟に大きくうなづいた。 「確かに教授みたいな人はどんどん肩身が狭くなっていくだけですね。」 「おい。本当のことを言うな。」 「は? わかっているのなら…。」  いつくだらない言動で突き上げられるかわからないのに。 「うーん、染み付いているものはそう簡単にはおちんのだよ。だから、」 「その努力をしようとしてるってことですか?」  へー、ちょっとは見直すところがあるのかも。  教授はぶっと吹き出した。 「伝統として伝えられる時間がもう限られているのかもしれんな。」  死んでも直ならいってこのことだ。 「教授。少しはアップデートしてください。ご自分のファイアーウェアを時代にあったものにしないとウィルスにやられてしまいますよ。」  彼はパクッと喋り損ねて私のことを繁々と見つめている。 「もちろん、私はそんなの大丈夫ですけど。」  何言ってんだ私。     ×  地下のホームは閑散としている。 『お気をつけください。通過電車が参ります。』  そうアナウンスがあると目の前をすごい勢いで特急電車が通り過ぎた。今ではホームドアが設置されているプラットホームがほとんどだが、それに慣れると、これまでなんと危険な状況に晒されていたのかと感じる。乱れた髪をたくし上げると、よっぽど顔に当たる風が強かったのか教授は両手を頬に当てて驚いた顔をしてこちらを見ている。 「零。」 「は?」  その表情の背景には長く続くプラットホーム。そのポーズのまま固まっている教授。口を開けたまま何か言っている。 「オ、ス、ロ。」  何言ってんの? 彼の仕草と背景のホームにオーバーラップするものが…。 「ム、ムンク⁉︎」  彼はため息をしながらその両手を下ろした。 「もっと早く気がついてくれよ。」 「ヴィーナスかと思ったら、今度は『叫び』ですか?」  彼の片方の眉毛が持ち上がっている。 「どういう状況だったと思う?」 「え? 画家が? それとも描かれた彼が?」  私は自分の知識の棚を素早く開けた。 「あれは三部作ですよね。『叫び』『不安』『絶望』とあり、その中でも有名な『叫び』は自分の不安に怯える心の叫びを可視化したとされているって。」 「そう、同じ『叫び』だけでも5作あるとされている。で、いったい彼は何に怯えていたんだ?」 「姉や母親の死から来る不安とか言われています。家族も彼自身も病気がちだったみたいだし。」 「へー。」  彼の表情はさもありなん。 「そう、そんなことを考え出すと心の暗部に引き摺り込まれるような気持ちの波が自分の周囲に渦巻きだす。まさしくそんなマイナスなウェーブ。わかるなぁ。すごく心に響きませんか? タッチが単純なのがいいのかしら。」  教授は目をぱちくりしている。 「俺は、彼が歯医者に行く途中なのかと思っていた。」 「はぁ?」  またくだらないことを言い出している。 「多分、ムンクは歯が痛かったんだ。そしてその日に抜かなければいけないことになっていた。そう、まさに歯医者に向かっている道中だったんだ。歯が痛み出すともう何も考えられなくなるだろ? それに、歯を抜くってことは大きな不安。それはまさに絶望の渦。」  呆れた。 「教授。あなたにはロマンとかデリカシーとかないんですか?」 「現実の生活に照らし合わせているだけだ。例えばあの絵を歯磨き粉の宣伝とかに使ったらどうだ?」 「何言ってんですか。そんなネガティブな広告なんていいわけないでしょ。」 「ホワイトニング歯磨きとかいって、本当に白くなるやつなんてあるか?」  確かにそれはそうだが、恐怖感を煽る広告にはやはり疑問符がつく。 「じゃあ、あの絵を歯医者の待合室に飾るってのはどうだ?」  あのなー。 「あのわかりやすい絵のイメージ。子供達が2度と虫歯になりたくないと連想させるには十分だろう?」 「教授、トラウマになる子とかが出てきたらどうするんですか!」 「お菓子屋さんからも恨まれるかな。」  うーんとロダンのようなポーズで考えている。全くどこまで真剣なんだか。いや、教授のことは嫌いじゃない。むしろ好意さえ持っている。しかし、このソリッドな発想というか、おばさん的な思考についていけないし、ちょっとがっかりもする。人には心情とか繊細な気持ちというのがあるだろうに。今の私の彼を見る表情はヒョウタンツギのようになっているに違いない。 「あの絵にもいろんな謎がありそうだな。」 「まさか、行先変更ですか?」 「オスロはエビが美味いんだよ。北欧では貴重な太陽の光を浴びながら船の上で茹でたエビの殻を剥きながら頬張るんだ。これがまた格別なんだよ。夏の風物詩とも言える。」  この男、まず食欲が第一なのかもしれない。  いつの間にか進入してきた電車の扉が開くと、私たちは空いている車内に乗り込み、長椅子の中央に並んで座った。向かいのドア寄りには昼間だというのに若いスーツ姿のビジネスウーマンが無防備にも半ば横たわりながら大口を開けて手摺りに寄りかかって爆睡している。 「疲れてるんだな。きっと可愛い子なのに。」  きっとって失礼な言い方じゃなくて? 「忙しいんだか、遊び疲れているんだか。」  彼女の寝息と言うか軽やかなイビキが空いた車内に軽やかに響いている。  ガタンと電車が揺れて駅に停車すると彼女はハッと気がついてキョロキョロと辺りを見回したかと思うと慌てて降車した。座席にカバンを忘れている。私はサッと立ち上がってカバンを掴み車両から乗り出して声をかけると、その彼女は慌てて戻ってきた。 「ありがとうございます。」  疲れた表情を見せながらも安堵感を漂わせている。よかった。彼女が2回目のお辞儀をしている時にドアが閉まった。電車が走り出すと私はうなづいている教授の横に座った。 「若い時は何かと眠いんだよ。」 「ふう。あのカバン、大切なものだったかもしれないわ。」  教授の優しい眼差しが私を包んでいる。 「人ごとじゃないと感じている君を見ているとなんだかホッとするよ。」 「え?」  少し恥ずかしくなって目を逸らすと、地上に上がった電車の窓の向こうに見えるマンションのベランダに干してある布団が景色として流れていく。 「最近は多いだろ。他人事には関わらないのをよしとする人たちが。」 「でも、どちらがいいかは一概には言えませんよ。」  多分つぶらな目をして教授を覗き込んだ。 「確かに。感謝されればいいが、誤解されたり、下手すると暴力に遭ったり殺されたりすることもあるからな。」 「親切の境界がわかりずらいですよね。」 「そう、どこまでがいいことなのかわかりにくいんだよ。昔は『常識』にしてもその解釈が他人とでも多くの部分を共用できていた、と思うけど。今は…、」 「個人個人でその解釈や主張が違うと?」  車両は次の駅に滑り込んで停車すると、どかどかと高校生らしきグループが携帯を見ながら入ってきた。スピーカーから音がダダ漏れしている。ヘッドホンの音漏れならまだわかるけど。彼らは楽しそうに怒鳴り合っているようにも見えた。騒音と共に威圧感が漂っている。 「こんにち〜は。」  教授はいつの間にか彼らに近寄ってリーダー格の高校生を見つめたかと思うと周囲を見ろと目で合図した。そんな、突然の行動。うるさいジジイとか言われて暴力に遭ったらどうするの?と思わずにはいられなかった。だが、教授の表情は鋭い眼差しを持ちながらもどこかに優しさが漂っている。  携帯から音楽は漏れているものの不思議と一瞬の長い沈黙に感じられた。 「あ、」  リーダー格の高校生は、ハッと気がついたように頭を一瞬下げて携帯の音を切った。よかった、何事もなかった。私はほっとしていると、教授は彼らと話をしているようだ。 「それなんて言う曲? いい感じだな。ただ…、」  笑顔で少し話し彼らと話したかと思うと、電車は次の駅のホームに入線した。こちらを向いて降りるぞと目でで合図している。彼が下車しながら手を振ると高校生たちもうなづいたり小さく手を振って挨拶した。 「お友達みたいですね。」 「ああ、友人になったと思う。あくまでインスタントだけどね。」 彼は私の表情を見て肩すくませているけど…。 「ちょっとスーパーに寄って行こうと思うが、いいかな? 大学まで来るんだろ?」          × 「お惣菜ですか?」 教授はずらっと並んでいるものを物色している。確かにどれも美味しそうだ。 「うん、ゼミ室に簡単なキッチンはあるんだが、最近のお惣菜は美味しその方が早い。後片付けも簡単だろ。 で、何を選ぶ?」 「自炊はされないんですか?」 「家ではするけどね。まぁ…。自炊も決して安くはないし。」  確かに一人分だとそうかもしれない。それに、大学ではそれなりに忙しいのかも。ってそういうふうには見えないけれど。 「今度、うちに食べにきてください。晩御飯でも。私の手料理でよければ。」 え?と少し驚いた表情になんと答えたらいいかわからなかった。っていうより、あ、あたし何言ってるんだろう。どんどん顔が赤くなっていく自分に思わず両手を頬に添えた。 「またムンクか?」  恥じらいのある可愛いポーズだと思うのにムンクなんて、ひどい! ピッピッとレジの時には若い店員の女の子が声をかけてきた。 「こ ん に ち は、教授。 あらぁ、また新しい奥さんで す かぁ?」 ちょっと、どういうこと? いつも連れてくる女が違うとでもいうの。 「おいおい、おじいちゃんを揶揄うもんじゃない。」  そう笑いながら返す教授にその子はベーッと下を出して私に目線を投げた。まるでカーンとリング下のゴングが聞こえてきそう。だいたい彼はモテるのだろうか? こんなエロ教授が? いや、変に隠さないオープンな爽やかさがあるからだろうか、どこか安心なのは理解できる。私の身体は会計を済ませ既に先に行く彼の腕に勝手に絡みついてレジの子にキッと振り返り同じようにベーッと下を出した。彼女はツンと鼻をあげてフフンと次のお客に応対した。 「教授には可愛いお友達がたーくさんいるんですね。」  嫌味ったらしく言ってやったけど、鼻の下が伸びてニヤけている。  だめだこりゃ。       ×  湯呑みからは湯気が気持ちよく上がっている。確かにスーパーで買ったお惣菜は新鮮で美味しい。あんなにいろんな種類があるのだから、毎日種類を変えて食べ較べてもいいくらい。誰かが言ってたけどコンビニやスーパーのお惣菜のクオリティーは確かに上がっている。でも、やっぱり自分で作った方が食器などのことを考えるとエコだとも思う。まぁ、その実はどっちかはわからないけども。 「零、電車で寝ていた彼女で気になったことがあるんだ。」 「なんですか?」 「うん、プラド美術館を思い出したんだよ。」  今度はスペイン? ピンチョスが美味しいとかそんなことかしら。 「あそこの目玉はなんだ?」 「プラドで有名と言えば、ボスの『快楽の宴』とかデューラーの『アダムとイヴ』、それにルーベンスの『三美神』、これなんかお気に入りでしょ?」 「うん、確かにその通り。だが、私が一番好きなのは…。」  やっぱりそうよね、もう。 「もちろん『裸のマハ』ですよね。」  間髪入れない答えに教授はきょとんとした表情を見せている。 「なぜわかるんだ?」  あんたの性格からすればそれ以外ないだろう。何度も言わせるな、このスケベジジイ。 「そういえば、あの子のポーズも少しそんな感じでしたよね。だから?」 「そう、裸のマハ。だが、どこかおかしいと思わないか? あの絵。」 「絵自体はそんなに大きくないんですよね。」 「そう。だが、巨乳だ。」  バカバカバカ。いつもそんなところしか見ていないんだろ。 「しかし、あれは月か火星かそんなところで描かれたのか?」 「言っている意味がわかりません。」 「おかしいだろ、あんだけの巨乳で右側、つまり、斜めに寝ている上側の乳は垂れていないんだ。」 「はぁ?」 「重力を考えれば、あんな位置に乳首があるのはおかしい。あの当時シリコンを用いた巨乳手術があったとは思えないだろ。」 「な、何が言いたいんですか?」  垂れているとかいないとか本当に失礼極まりない。セクハラもいいところ! 「あれと同じポーズで服を着て描かれているものがあるだろう?」 「はい。確かあのセンセーショナルなヌードの絵の批判をかわすために後から描かれたと言うものですね。」  私は毅然と答えた。 「そう。服を着ていればあのポーズは不思議でもなんともない。」 「どうしてですか?」 「乳バンド、つまりブラジャーをしていれば巨乳もあの位置でキープできるからだよ。」  乳バンド? いつの時代の言葉だよ! だが、確かに一理ある。 「と言うことは?」 「と言うことはだ。もしかしたら、最初に描かれたのは服を着ている方じゃなかったのかなと。そして、裸の方はあくまで彼の想像によって描かれた。」 「つまり…。」 「描いた順序は、一般に言われているのとは逆なんじゃないか、という仮説が成り立つわけだ。」  その発想、大胆すぎるけどわからなくもない。自然なお乳の形は確かに重力に左右されるはずだ。 とはいえ、発想が下品すぎる。全ての発想の始点がこれなのだ。最初は面白くも感じたけど、一緒にいる時間が長いと耐えられなくなりそうな気がしてきた。無意識のうちに肩が凝る。  と、ゼミ室の扉が開いて女子大生たちが黄色い声で入ってきた。彼女らに囲まれた彼は満更でもない様子で、伸びた鼻の下に突っ掛かりそうだ。あぁ。  どう言うわけか、その空間におかれた私の感情に湧き上がってきたのは、何故か怒りと悲しみのミックスジュースのようだった。思いっきり絞って今にも溢れ出しそうな変な感覚。 きゃーきゃー騒ぐ中にスタスタと入っていって彼の頬をパチンと平手打ちした。 「気持ち悪いのよ。あんたなんか大っ嫌い。」  ポロポロと溢れてくる涙のまま彼に一回抱きついてゼミ室を飛び出した。 女子大生は唖然としてそれを見ている。教授は、私を呼び止めもしなく追っても来なかった。 「先生、あの人誰ですか?」 「そう言えば美術番組で見たことがあるような。」  教授は困った表情で軽くため息をついた。 「そう、生活と美術は表裏一体なんだよ。だから描かれたものには心が宿るんだ。」  一人の聡明そうな子が言った。 「多分、あの人先生のことを好きに違いありません。いえ、愛してるのかもしれない。」  彼女の出て行った扉を見返した教授は、近くの壁にかかっているフェルメールの青いターバンを巻いた『真珠の首飾りの少女』の潤んでいるような目と目が合った。    ×  なんであんなことしたのかわからなかった。嫉妬? 嫌悪? それとも…。アムステルダムではあんなにスリリングで楽しかったのに。今の私は教授といればいるほどグチャグチャになっていく自分がいる。一緒にいたいはずなのに。いい加減いい大人の女なのに。涙がとめどなく出てくるのは何故なのか。自分の気持ちに整理がつかないなんて、どうかしちゃってる。  はぁっとため息をつくと、携帯のメッセージを知らせる振動を感じた。 『明後日のミーティングに参加されますよね。お忘れなく! いつものC3会議室です。』 ADの櫻井くんからだ。忘れていた。 『了解。リマインドをありがとう。準備は?』 『万端です。』  新番組のミニ美術番組の打ち合わせだ。BBも来るだろうから気合いを入れないといけない。 チーンと鼻を噛んで涙を拭き取り、駅の改札に足を向けた。    ×  一通りの説明と番組の趣旨、狙い、そして構成と予算組みまでの話が終わった。 「で、この番組のターゲット年齢層は?」  BBが質問した。すかさず櫻井くんが答える。 「はい、メインターゲットは大学生から若い社会人です。もちろんそれ以上の年齢層も含まれますが、これまで以上に若い人たちを狙っています。ですから15分という短めの番組なのです。」  BBはうなづいている。 「更に、この番組がうまくいけば特番として2時間スペシャル、あるいは生中継番組にしても面白いかと思っています。」 「先を見るのもいいけれど、まずはしっかり足元を固めて視聴者を掴む必要があるわ。大切なのは、これまでにない斬新な切り口と視点。それとテンポかしら。ちょっとした物議を起こしても構わないくらいの勢いでないと。そこはあなたたちの自由よ。古いものにとらわれる必要はないわ。」  いつになくスタッフの意気が高い。BBの意気込みも感じられる。 「ただ、必ず構成と台本、編集上がりはその度に私のところを通して頂戴。何かあったら、またそこで話し合いましょ。わからないことや疑問があったらいつでも聞きに来て。行けるかどうかのボーダーは私が責任を持って判断しますから。」  会議もいつものダラダラしたものとは違って小気味よく終了した。 「それでは0号の準備。早速明日から。よろしくお願いします。まだ日にちがあるからって気を抜かないように。」  櫻井くんはここ数年一緒にやってきただけあって頼もしい。スタッフが退出する際の彼の笑顔に少し癒される。 「沢山さん。」 BBが顎をしゃくりあげて私のことを呼んだ。 「この後私の部屋に来てちょうだい。」    × 「どうしたの? 今日のあなた腑抜けじゃない。」  すっかり見透かされている。 「あんなに覇気のないあなた見たことがないわ。今回の番組は、元々あなたの発想企画でしょ。それなのに骨組み以外は若い彼らの言いなりみたい。まぁそれも悪いことじゃないけれど、あなたらしさも発揮してほしいのよ。私もあなたもまだまだ負けられないでしょ。ヒヨッコ連中に。」  どうしたことだ。ついこないだまではあれだけ嫌なBBだったのに今日の彼女の目は慈愛に満ちている。 服装にしても、今までの派手派手しい威圧感のあるものから随分とシンプルで爽やかなアウトフィット。 「今までだったら、そう、あなたは即刻首。どうでもいい他の部署に回すところだけど、ここに帰ってきてから私も少し変わらなきゃって感じたのよ。昔のようなやり方じゃ誰もついてこない。そう、若い人たちとコミュニケーションをとりながら聞き上手になって、或いはある意味いい抵抗になりながらも彼らを見守り引っ張っていかなきゃいけない。ある時は彼らを守る壁になり、ある時は彼らのお尻を引っ叩く。」  やれやれという苦笑いで私を見ている。 「あの…、」 「私たちが彼らから学ぶこともきっと多いと思う。特に頭が硬くなっている年寄りにはね。あなたも私も決して若くない。だからこそ、楽しい仕事をするには幾つになっても若い人の意見を聞きながら頑張んなきゃいけないのよね。」  なんてことだ。彼女は何をきっかけに進化したのだろう。  対して今の自分の仕事に対する不甲斐なさ。変な男に気を奪われておかしくなっている自分。あぁ。 「これまでの私からすればストレスもいろいろあるけどね。でも、そうしないと先がないでしょ。私にとって一番怖いのは、忘れ去られること。」 「え?」 「確かにこれまでのことは、どこかで語り継がれていくかもしれないけれど、過去の人になりたくないの。」 「はい。」 「だから、スタンスを変えて一からやり直すつもりに気持ちを入れ替えた。」  本当に? そんなことができるんだろうか。 「無理してるって言われそうだけど、挑戦することは幾つになっても楽しいものよね。」  黒縁のメガネの奥の瞳が輝いている。一旦退職した彼女の方がその心意気はモダンだ。 「あなたももう若いとは言えないでしょ。そう、気持ちはいつまでも若いけど。」  私は彼女を見つめた。 「はい。心意気だけは若いつもりでいます。自分の歳を忘れるくらい。」 「そう、まだまだあなたらしさを忘れないで前進しないと。」  彼女はニヤッと笑顔を見せながら大きくため息をついた。 「でもね、沢山。」  BBはグッと私に顔を近づけてきた。おでこがごっちんこするくらいに。 「仕事と恋愛は別、と言いたいけれど、生活にはどちらも深く関わっている。そうよね。だから…、」 「だから?」  いつもだったら何を能書き垂れているんだと突っぱねるけど、彼女の気の方が圧倒的に強い。それも前向きで建設的。 「恋をするなら悔みのないようにしっかりするのよ。」 「えーっ?」  それこそムンクのいい叫び。 「怖がっちゃダメなの。後悔先に立たず。もちろん、全てが成就するわけではないだろうけど、いろんな駆け引きもあるだろうけど、相乗関係もあるでしょ。その時その時を大切にしないとね。それに年齢なんて関係ないわ。」  彼女の言葉がなんだか沁みる。 「そうだ。あなたたちが見つけたあの落書き。」 「?」 「レンブラントの愛の証よ。あれね、番組にするから構成とシナリオを考えないといけないわ。あなたの仕事よ。私は枠を確保する。いい?」  彼女の体型からは想像できないくらい軽やかな雰囲気が漂っている。 「立石が見せてくれたの。あなたたちの収穫をね。マンチークとも話したわ。彼女が学会で発表した後が私たちの番。きっと面白いものになるに違いない。だいたい見積もって半年後だから、時間があるようでないわよ。」  BBの前で涙を流すのは見せたくない。私はグッとこらえてお辞儀をした。 「お力添え、ありがとうございます。」  彼女はフフッと微笑んでメガネを上げた。 「私からも、ありがとう。」 「え?」 「実は、あの写真が私を脱皮させたと言っても過言ではないの。」 「は? あの…。」 「そう、あのハレンチ写真。傑作。」  アハハと笑う彼女の笑顔には嫌味などこれっぽっちもなかった。  あいた口が塞がらなかった。    ×  それから1週間は、台本書きと撮影スケジュールなどの打ち合わせとコーディネート、若いスタッフとのミーティングなどに集中した。教授からのメッセージをあえてほったらかしにして。それがいいか悪いかは少し気にはなったけど、己の仕事にぎゅっと固まりたかった。  日曜日の打ち合わせを終わって駅のそばのスーパーでお惣菜を買った。私の住んでいるマンションは築40年ほどだから、部屋はリフォームしてあるとはいえオートロックなどの近代設備はない。4階建ての3階のどん詰まりにある2DKの角部屋が私の住まいだ。エレベーターもないので階段を登る。  あれ?薄暗い外廊下の私のドアの前には蠢く何かの塊が見える。まさか浮浪者?   離れたところから携帯のLEDライトで恐る恐る照らしてみると、それは見覚えのある顔だった。 「立石教授!」 「あー、やっと帰ってきたぁ。」  いつもより仕草がスローモーに見える。 「何やっているんですか。こんなところで。」 「いや、晩御飯を一緒に作ろうかなっーて。」  酒臭い。待って、彼はお酒に弱いはず。なんで? 白いビニール袋の擦れる音がなんか気になる。 「どうしてここがわかったんですか?」 「BBに聞いたんだ。なんの返信もないから…、心配になって。」 「教授! さあ立って!」  ガチャっと隣の扉が開いてお隣さんこちらを伺っている。 「あ、なんでもないんです。大丈夫です。すいません。」  もう!   彼を抱えながら部屋に入った。 「お酒飲んだんでしょ?」 「チビっとだけ。」 「うそ!」 「チョビーとだけ。で、晩ごはんなぁに?」  子供みたいな彼をずるっと床にずり落として、水道水を入れたコップを差し出した。 「すまん。君が心配だったんだ。」 「私が返信しなかったから、寂しかったんじゃないの?」  少し意地悪く聞くと、彼はキッと私を見てコクンとうなづきそうな面持ち。 「何よ、いい歳をしたそれなりの教授が。酒癖の悪い奴なんか大っ嫌い!」  普段は舐めるくらいしか飲まないって言ってたのに、本当にどうしたんだろう。ボーっと黙って暗い部屋を見ている彼が持ってきたビニール袋には、サバの切り身と野菜が入っていた。 そういえば、この前『うちに食べに来てね』って言ったのは私だった。でも。 「そこのソファに座ってて。」  私はそう言って今更ながら部屋の明かりを点けた。 「ふーん、素敵な部屋だ。」 「ごめんなさい、ちょっと散らかっているけれど。」  ふうと彼のため息が聞こえた。 「すまん。勝手に押しかけて。零のことが気になって仕方がなかったんだ。」 「…。」 「BBはきっと忙しいのよって言っていたけど、既読にもなっていなかったし。」  私は黙ってキッチンに食材を並べた。 「邪魔なら帰るよ。流行りのオヤジストーカーみたいになりたくないし。」  教授のような人でも弱気になることがあるんだ。私は背中をむけて米を研ぎ始めた。 「この前のアムスの企画、そして新番組の立ち上げとあって忙しかったの。」 「ほう、番組にできそうなんだ。」 「ええ、BBが張り切っているわ。でも驚いたことは、今の彼女はまるで違う人。あの性格が180度変わってと言ってもいいわ。」 「へー。ちょっと信じがたいな。」 「それがね、私たちのあの写真がきっかけだって。」 「何? それなりのインパクトがあったってことか。」  彼はふふっと微笑んだ。 「?」 「実は、俺もあの写真好きだな。」  振り返ると、彼のほっぺたが少し赤い。お酒のせいかもしれないけど。 「私も嫌いじゃない。あんなの撮ろうと思って撮れるもんじゃないわ。」  目と目が合った。だけど、私は込み上げてくる感情を抑えてくるりとまた彼に背中を向けた。 「塩焼きでいいのよね。」 「いいよ。」  彼の声が耳元でした。振り返ると彼の顔が目の前だ。 「ダメ!」  腰に手を回してくる彼を反射的に押し除けた。 「ごめんなさい。あなたが好きよ。だけど…、」 「…」 「だけど、このまま流されたくないの。まず、もっとあなたのことを知りたいの。」  わかってる。ほんとはもっと自分の感情のままに抱きついてキスしたい。私にとってあなたとの出会いはある意味電撃的。でも、それを許さない自分がどこかにいる。たとえぶっきらぼうに見える私でも。 「ミアちゃんのお母さんが誰だとか、いろいろ。」 「…」  私はその場でぺたんとしゃがんで両手で顔を覆った。  彼は私の額に軽くキスをして、パタンと静かに出ていった。 「たぶんあなたを愛したい。だからこそ…。」  なんで素直になれないんだろう。声の出ない涙が溢れ出てきた。私のバカ。  鯖の焼ける匂いが部屋に充満している。    ×  ベッドに入ってもいろんなことが頭に浮かんで眠れない。仕事のことも、教授のことも。彼には何かメッセージでも送ったほうがいいのだろうか? それとも。  夜は携帯をキッチンで充電している。寝る時くらいは仕事から解放されたいからだけど、キッチンの壁が少しホワッと点滅した。どうしよう、彼からのメッセージかもしれない。そうだったら既読にしたくない。でも気になる。ロック画面上では誰からのメッセージかはわかる。いや、見る必要なんかないじゃないかと思いつつも重い脚を引きずってキッチンに向かい、裏返して置いてある携帯を持ち上げた。  それはミアからのメッセージだった。 『深夜に突然でごめんなさい。実は、お会いしてお話ししたいことがあります。明日、お時間ありますか?』 『急いでいるの?』 『緊急ではありませんが、フィレンツェに行く前に2人でお会いできれば嬉しいです。』  明日のお昼時は少し時間がある。早いほうがよさそうだ。 『じゃ、明日は? 局の近くのピッツェリアでどうかしら。13時半過ぎなら混んでいないと思うわ。』 『了解です。ありがとうございます。じゃ、ドマーニ。』 『シー。』  ハートマークも一緒に送った。  彼女が今日のことを知っているかどうかはわからない。もしかしたら、教授がミアちゃんに話をして彼女を緩和剤として使っているのかもしれない。いやいや、そんな姑息な男だろうか? でもまぁ、確かにそれもありだとも思う。いろんな思い、余計な妄想が頭を駆け巡る。  生の生姜をスライスしてマグカップに放り込み、お湯を注いだ。 「デトックス。デトックス。」  薄明かりの食器棚に映る湯気の向こうにいる自分。そこにいる私は若いのか老婆なのかわからなかった。   ×  少し寝不足な感じがしたけれど、時間通りに出社して慌ただしい午前中を過ごした。約束の時間よりも早かったけど、レストランは既にお昼時の混雑のピークは終わっているようだった。 案内された窓際の四人用のテーブルからは、ピザの窯もよく見える。  カランカランと入り口の扉が勢いよく開いた音がした。手を振ると彼女は慌てた様子でテーブルまで来た。 「どうしたの?」  ミアは駅から走ってきたのか息が荒い。 「ごめんなさい。おとうが失礼して。」  やっぱり言ったのか。でも? 「実は、さっき聞いたんです。昨日の晩のこと。もう、ごめんなさい。」  そうか、ついさっきまで知らなかったんだ。 「なんか落ち着かないから、どうしたのって聞いたら…、あんなこと。もうバカバカバカって言ってきた。零さんに嫌われたらどうするのって。」  あの聡明なミアちゃんの瞳が思いっきり潤んでいる。 「ミアちゃん。大丈夫。私は教授もあなたのことも大好きよ。心配しないで。」  彼女の純粋な心を痛いほど感じる。あんな彼からこんな素敵な子が生まれるなんて、お母さんがよほどできていたとしか思えない。でも、 「ご注文、いいですか?」 「ピザ・マリナーラのノルマーレとミックスサラダで。大きいから二人でシェアでいいかしら。」  ミアはコクンとうなづいた。 「Anche due piatti piccoli, per favore.」 「Si, subito.」  イタリア人らしいボーイさんは嬉しそうにウインクをした。 「恥ずかしい話だけど、私も若くないから飛び込めない部分があるの。」 「え?」 「例えば、彼のワイフ、つまりあなたのお母さんの話とか、私には知らないことが多すぎる。」 「そ、そうですよね。」  彼女は一瞬戸惑った表情を見せたように見えた。 「…零さん、ありがとうございます。私たちを大切に見てくれているんですね。でも、」 「でも?」 「実は、私もお母さんのことよく知らないんです。名前さえ。」 「え? 名前も知らないって…。」 「おとうは、あまり、いえ全く話したくないようで。」 「そう、か。」 「いえ、おとうは、私のことを一人でよく育ててくれたと思うんです。」 「失礼な言い方だけど、あのお父さんでよくあなたのようなできた娘が育ったって思う。」  ミアは涙目ながら苦笑いをした。 「もちろん、私にもいろんなそれなりの葛藤があります。でも、きっとおとうもそうだから。」 「あなたのこと尊敬するわ。」  思わず大きなため息をついた。 「外に出るとあんな馬鹿なことばっかり言ってるけれど、本当はすごい真面目でそのギャップがどうなっているのか、私もよくわからないんです。」 「不思議よね。彼のセクハラギャグはどこか安心してられるところがあるの。まぁ、私がそういう世代だっていうのもあるかもしれないけれど。」  私はわざとコホンと小さく咳をしてポーズをとって続けた。 「結構注意してるんだぞ。やめろって。」  ミアの表情がすこし緩んだ。 「確かに、行き過ぎる時がありますよね。全く。」  私は優しく彼女の目を見つめた。 「私もね、あなたのお母さんのことを知りたいわ。」 「え?」 「きっと素敵な人だったと思うの。こんなに魅力ある娘なんだもの。」  もし、それを引き継ぐのなら…っていうのは声に出す前に飲み込んだ。 「Eccomi!」 後ろで声がして大きなピザとサラダが運ばれてきた。 「Buonappetito! ごゆっくりね。」  私たちに音がするくらいのウィンクをくれた。イタリア人の陽気な仕草は、雰囲気を明るくする何かを持っている。それにバジルの匂いが気持ちを落ち着けてくれる。シンプルだけど美味しそう。ミアちゃんがサラダに塩と胡蝶を振りかけて、フォークとスプーンでささっと混ぜると、ドバッとオリーブオイルをかけてさらに軽くシェイクした。 「あ、勝手にやっちゃいましたけど…、バルサミコはかけますか?」 「これっていいオリーブオイルかしら?」  彼女はクンクンとサラダの匂いを嗅ぐと、可愛くウインクした。 「いいと思います。」 「じゃぁ、そのままがいいな。」  彼女は微笑んで私もっと言った。  サラダはオリーブオイルの緑の香りが漂って美味しかった。そして私たちピザをはそれぞれ一切れずつとって頬張った。 「どお?」 「結構いけてます。意外と生地がフンワリでナポリ風ですね。」 「ナポリ風?」 「ええ、薄い生地でパリッとしているのはローマ風。」 「へぇ〜。」  こちらをみているイタリア人のウェイターに向けて彼女は片手でピザを持ちながらブォーノとほっぺたをぐりぐりすると、向こうからグラツィエ!と声が聞こえてきた。 「ところで、ミアちゃん。」 「ちゃんなしで、ミアって読んでください。」  名前を呼びつけるのには少し抵抗がある。 「わかってます。ちょっと気が引けるのは。でも、零さんにはそう呼んでもらいたいんです。」  どうしてって聞きたかったけど、それは野暮だ。 「やってみるね。」  恥ずかしげに彼女を見つめて小さくうなづいた。 「ねえ、ミア。私はなんでここに呼ばれたの?」  レモンの入った水のコップに口をつけている彼女はキョトンとしている。まるでそんなことをすっかり忘れているかのよう。 「ごめんなさい。零さんといるとなんだかホッとしちゃって、すっかり忘れて…、ってもう話してます。」 「あ、お母さんの、ことね?」 「変な言い方ですけど、私、零さんに甘えたいのかも知れません。」  なんとなく瞳の奥が少し潤んでいるように見える。  ちょっと待て。どういう意味だ。再び彼女を見直すと、今度は少し真剣な眼差しで私をみている。 「私を産んでくれたお母さんは、零さんの言うように素敵な人だったんです。いえ、そう思いたいんです。もちろん、だからって、それを掘り下げたところで何が変わるの?っているのはあるかもしれませんが。」 「そうね。でも、それを知ることができればきっとあなたにはプラスになるはずよ。」  ってそう思いたい自分がここにいる。関係ないって言ってもいいのに人ごとに感じない。 「いつかおとうは話してくれると思うんだけど…。」  彼女はこれまで頑張ってきたんだろう。でも、どこかでけじめをつける必要があるのかも知れない。そう、心の隅に横たわっている小さなしこりに。 「でも、私には何もできないわ。変なおせっかいになるかも知れないし。それに、私もあなたもお互いのこと何も知らないと言ってもいいくらいの関係だけど…。」  ミアは少し憂いた表情を見せている。 「ごめんなさい。わかっているんです。でも、零さんといるとどこかホッとする自分がいるんです。だから…。」 「ミア。」 「…。」 「普通だったら、そんなことで呼び出すなって言うけど、あなたと会えるのが嬉しいし、すごく自然に感じる。不思議だけど。」  パクッとピザを口にしてニコッと笑うと、少し困惑しているミアの目元も少し緩んでいるようだった。 と、携帯が震えた。BBからのメッセージだ。えーっとっと開封しようとするとカランカランとレストランの入口のドアが勢いよく開いた。BBだ。キョロキョロしている。 「零!」  私は手を振った。 「ミアちゃんも一緒なの? 早く!」  彼女は相当慌てている。尋常じゃない空気。 「どうしたんですか?」 「いいから、二人とも早く来て! 警察が!」 「警察?」  レストランのオーナーも早く行けという眼差しで私たちを見ている。 ×  教授は酸素マスクをつけて救急病院の個室に横たわっていた。 脇に立っているのは若い外国人のご夫婦と女の子。そして、警察官と医者だった。子供はずっと啜り泣きしている。 「ご家族の方ですか?」 「はい。娘です。」  ミアはキリッとソリッドに立っている。 「こちらの方は?」 「仕事関係の知り合いです。」 「実は、ちょっと事情が事情で…。色々現場から聞き取りはしているんですが。」  なんのことか理解ができない。 「交通事故ではあるんですが。」  交通事故? 「交通事故に巻き込まれたんですか?」 「ええ。バス停で待ってたところに軽自動車が突っ込んできたんです。どうやら、バス停の先で渋滞しているところにブレーキとアクセルを踏み間違えた運転手が追突を避けようとバス停に突っ込んだようです。バス停が視認できなかったのは、携帯を見ていたからとか。運転手の老人は運良く軽傷。既に逮捕して事情聴取中です。」 「じゃあ、教授はその車に巻き込まれたんですね。」 「ええ。周囲の人の証言によりますと、進路を乱した軽自動車に引っ掛けられ、電柱にぶつかって止まった車の勢いで彼は近くの商店に飛ばされて体ごと突っ込んで行ったらしいです。最初は意識があったようですが…。」 「じゃ、被害者なんですね?」 「それがですね…。」  警官の口元が捩れている。 「?」 「近くにいた人が言うには、教授はこのブロンドのご婦人に突然抱きついたらしいんです。」 「はぁ?」 「その直後に車が突っ込んだようで…。」 「ってつまり?」 「セクハラの疑いがあるんです。」  私とBBは思わず顔を見合わせた。  まさか⁉︎ 教授のセクハラ行為に間髪入れずに天罰が下ったってこと? いや、そんなことする人じゃない。いくら前の晩にあんなことがあったとしても、身も知らずの女に抱きつくなんて、そんな短絡的で理性のない人間じゃないはずだ。 「私コンビニにいて事故あったです。」  若い旦那さんは片言の日本語でそういった。間髪入れずに奥さんが喋り出したが、外国語だった。何語だろう?英語ではない。  反応したのはミアだった。ミアと彼女はペラペラ身振り手振りを加えて話し出した。イタリア語なんだ。 「父は、バス停で隣に並んでいた彼女をしばらく見て微笑んだそうです。最初はなんかジロジロ見られている感じがして少し気持ちが悪かったそうですが…、」  ああ、本当にただのセクハラオヤジなのか。 「少しイタリア語で話して微笑んだその笑顔は、決していやらしくなく、ヨーロッパ的な紳士だったと。ところが…、」 「ところが?」 「彼女を一瞬見つめて目が合った時に表情が急に強張り、さっとしゃがんで子供を抱き抱えたかと思うと、彼女に抱きついてきたんだというのです。」  どういうこと? 何が…。 「ママ!」  女の子はお母さんの裾を引っ張っている。ミアがしゃがんでなあに?と耳を傾けた。 「あの人は、車が迫ってくるのがわかってたの。」 「後ろを見なかったのに?」 「車がもうすぐそこで体が動かなかった。でも彼は助けてくれたの。目を瞑った瞬間に私は抱き抱えられて…、」  子供の足はガタガタと震えている。 「私もそう思います。」  若い婦人は子供に同意して涙しながら旦那さんに寄りかかった。 「彼は、妻と娘を助けてくれたんです。」  旦那さんもうなづいている。 「しかし、後ろも振り返らずに、どうして車が突っ込んでくるってわかったんでしょうかね?」  警察官は訝しげだ。 「音よ! アクセルとブレーキを踏み間違えたんだから、相当なエンジンの音が聞こえたはずよ。そうでしょ!」  BBはそう警官に捲し立てた。彼もうなづいている。 「確かに。…第六感ってやつですかね。」  私はオロオロして意識なく寝ている彼の手を握ると、ギュッと強く握り返された。 え? 突然彼の瞼が開いたかと思うと、ぐっと力強く半身を起こし、険しい表情で焦点が定まらないままどこかを凝視している。 「二人は、二人は大丈夫だったのか?」  個室に響く彼の叫び声。 「大丈夫、二人は大丈夫よ!」  ミアがそう叫ぶと遠くでそれが聞こえたかのように後ろにそり返りながらそのままベッドに倒れ込んだ。  医者が脳波計を見ながら聴診器を当てて様子を見ている。 「まだ昏睡状態ですが、命に別状はありません。大丈夫、強い人です。今は安静に。」  ミアは私に寄りかかり、啜り泣き始めた。  警官はイタリア人家族を病室の外に誘導した。  一瞬振り返った若い御婦人の顔は、どこかで見たことがあるような気がした。   × 「人を助けたのに疑われるなんて、本当に真治らしいわね。」  静かになった病室でBBがため息をついた。彼の心拍モニターと脳波計は安定しているように見える。 ミアと私はベッドに寄り添って座っている。彼の表情は安らかにも見えるが無表情と言ってもいいかもしれない。ミアがBBを見つめて言った。 「麗子さん。」 「?」 「教えて欲しいことがあるんです。」 「麗子さんは、父のことを若い頃から知っていますよね?」 「ええ。あなたが小さい頃のことも知っているわ。真治が局に何度か連れてきたことがあるもの。」 「私も少し覚えています。すごく綺麗な人だって。」  BBはミアを見て少し目を細めたかと思うと軽く会釈をしてテーブルにおいてある自分のバックに手をかけた。 「待ってください。ぜひお聞きしたいことがあるんです!」 「なあに?」 「私のお母さんのことです。」 「それは、お父さんに聞いたほうがいいと思うけど。」  しばらくの沈黙。 「もしかしたら、おとうはこのまま死んじゃうかもしれません。」 「何を言うの?、さっき先生が大丈夫って言ったでしょ。」  ミアは父を見ながらボロボロと大粒の涙を流し始めた。 「わからないわ。もちろん帰ってきて欲しいけど…。」  そういうと、父に寄りかかって嗚咽をあげた。 「黒鳥CP、私からもお願いします。知っていることがあれば。」  私自身もそれが知りたかった。ミアと私の心は今繋がっている。  そうね…、と言いながら彼女は教授を挟んで反対側にゆっくりと腰掛けた。窓にかかるブラインドからは夕陽が漏れて教授の顔に立体的な影を作っている。BBはうっすらとしたシルエットに浮かび上がっている。 「ミアちゃん。」 「はい。」 「それじゃぁ、私の知ってることを話すわね。」  BBは少し思いを巡らしているようだった。背後の太陽の加減か、オレンジ色に光るスリットのせいか、メガネをゆっくりと下ろした彼女は若い女に見えた。 「貴方のお母さんは、とても美しく聡明な人だったわ。みんなから愛されていた。」  それはミアを見ればすぐに想像がつく。 「そう。彼はものすごいスピードで助教授にまでなったけど、ある時突然イタリアでもう少し学びたいって言い出したの。」  ちょうど、BBが彼にアプローチした頃か。 「真治と彼女はミラノの芸術大学で出会ったらしいわ。彼が大学の客員教師としてデッサンの指導、勉強をしているときに彼女は何回か彼のクラスの講義にモデルとして出ていたのね。そこで知り合って、彼が果敢にアタックをしたってわけ。」 「じゃ、私のお母さんは絵画のモデルだったんですね。」 「一糸纏わぬ姿は、それは天使だった。女でも惚れるくらい。」  ミアは父をじっと見つめている。 「彼女は、アッシジ出身だった。だから、付き合うことが決まってその年度が終わると、彼は同時に大学を辞めた。そしてその後はアッシジを拠点としてミアと同棲する傍ら、イタリア中の美術館を巡っていた見たいね。」  女のために手段を変えたってことか。若いからできることだなきっと。 「そして、1997年9月。彼女は臨月を迎えていたの。」 「それは…、」 「そう、9月26日。ウンブリア州での大地震。」 「まさか!」 「彼女はその日も妊婦のモデルとして働いていたの。頑張り屋さんね。」 「あの日、確か朝早くに地震が合ったんですよね。」 「そう、午前2時半が一回め。そこではあの有名な聖フランチェスコ教会の屋根の一部が崩落したの。でも、他のところはそんなに大きな被害があったわけではなかった。だから、デッサンモデルの仕事は予定通りにある小さな教会のホールで行われたの。でも、お昼前、11時40分に二回めの地震が来た。そして、その6分後に三回めの地震。その時に彼女は天井から落ちてきた梁の下敷きになって亡くなったの。」 「どうして逃げなかったの?」 「デッサンをしていた人曰く、二回目の揺れが来た時は、彼女はじっと動かずに彼らに慌てるなとその透き通る眼差しでそれぞれの人たちを見ていた。確かに、その時に慌てて逃げ出していたら、最初の天井の崩落に彼らは巻き込まれたかもしれなかったと言うの。その時は、みんな無事だった。でも、それが静まって、さあ、外に逃げ出そうと動き出した時、つまり、11時46分に三回目の揺れが来て、彼女は梁の下敷きになった。」  ミアは瞬きひとつしないでどこかを凝視している。 「で…?」  自分の心臓の音が聞こえる。 「破水したけど、赤ちゃんは奇跡的に助かったの。」 「それが、」 「そう、それがミア、あなたなの。」 「あなたのお母さんはそこにいた他に人たちを助けて犠牲になったんだって思われている。街の人たちは彼女を称賛したらしい。ただ…。」 「?」 「保守的な人が多いアッシジという街。だから、結婚前に身籠った天罰だという人たちが現れてきて…。」 「彼は赤ん坊と街を出なければいけなかったと。」 「そう、ミラノに戻って、日本に行ったり来たりする生活が始まった。その時には、マンチークに随分世話になったみたいよ。」 「それからなんですね、この変な関係は。」 「あら、アカデミックな関係って呼んで欲しいわね。そういう自負が私たちにはあるの。表には出ないけどね。」  ブラインドのオレンジの光はいつの間にか藍色の艶めきに変わっていた。 「麗子さん。ありがとうございます。」  ミアはすくっと立って彼女に一礼した。 「マンチーク女史はね、貴方のお母さんと一緒の名前。」 「じゃぁ、お母さんの名前は…、」 「そう、シモネッタ。だから、人ごとに思えなかったんだと思う。」  ミアの頬を流れる涙が透き通った銀色に見える。 「彼女は、あなたに期待しているわ。もちろん私も。…零!」  突然呼ばれた私は、 「ハ、ハイッ。」と返事した。 「ミアちゃんをしっかり支えてあげなさいよ。」 「え?」  そういうとBBは病室から静かに出ていった。                             第二話 了
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