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二ノ巻〚江戸城出張〛
【肆と診療所】
二ノ巻〚江戸城出張〛
月が空高く上り、暗い江戸の街を照らす。
行灯の火を頼りに、伊崎は荷造りをしていた。それは、明日から始まる江戸城出張任務のためだ。
組長、武次郎には「十日は絶対帰って来るな」と厳しく言われた。
五歳の頃から面倒を見ている可愛い可愛い子供四人であろうのに、この塩対応。
本気でいつか閉め出されそうな勢いである。
霜月は「寂しくなったら帰っておいでね」なんて、自分が寂しそうに笑っていた。
齢二十の霜月は、幼さの残る大人だ。
副長の荷はさぞかし重いだろうが、それでも夜遅くまで頑張って仕事をしている。
そんな霜月を、四人は心から尊敬していた。
しかし武次郎と違い、少しヌケたところがある。
彼の可愛いところでもあるのだが、時折心配をかけさせる。
どうしたものかと四人と武次郎で頭を抱えたことすらあった。
(私達だって、十日もここを離れるのは心配がある)
伊崎は袴を詰めながら心中思った。
(当り所は、四天王がいてやっと成り立つんだ。四人が来る前なんて、幕府からの支援も生活がやっとなくらいで……)
つまり、その十日は診療所の質が落ちるというわけだ。
武次郎や霜月が、最低の教育はしている。
薬の調合の仕方、怪我の応急処置の仕方、病の進行を妨げる方法。
しかし、そればかりで急激に何もかもが良くなるわけではない。
(周りも私達も、複雑だよな。四天王いないと成り立たないないんて)
伊崎もつい、乱雑に袴を畳んだ。
深緑の風呂敷の上に置かれた、衣服たち。
その隣には薬箱と医療器具の風呂敷包。
(……思い切り蹴飛ばしてやりたい)
そんな気持ちだ。
他三人はややるんるんで荷物を整理しているが、伊崎はそうもいかないらしい。
何故そうも江戸城を嫌うのだろう。
その理由は、他の誰にもわかるものではない。
気持ちばかりは、誰も読み取れないのだ。
すると、廊下の方から何やら足音がする。
その後すぐに伊崎を呼ぶ声がした。
「入っても、今大丈夫?」
管太郎特有の、低く優しい声である。
伊崎は「どーぞ」と、襖を開ける。
寝間着姿の管太郎は、手元の蝋燭の火を消して、伊崎の部屋へ入った。
「荷物の準備中?」
伊崎の斜め横辺りに座り、微笑み笑う。
伊崎は畳んだ袴のシワを、綺麗に手で伸ばす。
「そう。多くて嫌になるよな」
「確かにねぇ。医療器具だって軽くもないんだしね」
「葉色なんて大変だろう。薬箱三つ持って行くんだってさ」
「ええっ、それは大変だね」
風呂敷を結ぶため、下を向く伊崎。
管太郎は眉を下げて笑い、伊崎の顔を覗く。
「元気ないね」
「んなことはない」
「そうかな」
「元気だ」
ぎゅっと結び、風呂敷の形を整える。
十日分の袴と下着で、風呂敷もぱんぱんだ。
「まだ形整えるの」
「綺麗好きだから」
「嘘つき」
くふふ、と変な笑いをこぼす管太郎。
暫しの沈黙。
風呂上がりの彼の髪が濡れている。
ぽたりと水が落ち、管太郎の手に当たった。
伊崎はそれを見て、瞼を閉じる。
出るかと思った“何か”は出なかった。
故にまた目を開いた。
「伊崎?」
「否、何も無い」
顔を上げた伊崎は、管太郎から目を逸らした。
ぴよんが揺れた。
管太郎はムッとして、伊崎に詰め寄る。
「伊ぃ崎っ!何かあるなら言ってご覧、ほら」
「何も無いってば。もう、面倒臭い男は嫌われるぞ」
「心配してあげてるのに」
「何で心配されなきゃいけないんだ」
「だって伊崎、江戸城行くの嫌そうじゃん」
管太郎にしては珍しく、口調が幼い。
いつもはオブラートに包み包まれ、大人びた口調と行動になっていたのに。
(そりゃ嫌だよ)
伊崎は管太郎を睨んだ。
が、そこまで鋭い目にはならなかった。
伊崎は立ち上がり、管太郎を見下ろす。
「風呂入ってくる」
「ねぇ伊崎」
どうにか何が聞き出したい様子の管太郎だが、伊崎は部屋から出ていってしまった。
他人の部屋に残された管太郎は、眉を曲げて大きなため息を吐いた。
*
歩く足取りは重い。
気分も乗らず、手に持つ荷物も重い。
そんな気持ちと裏腹に、カラッと晴れた秋の朝。
武次郎たちに見送られ、江戸城までやってきた四天王。
伊崎は何故かてっか(顔隠し)を被っている。
その理由については、伊崎は黙秘。
怒ると怖い人なので、皆それ以上は聞かない。
門番の男二人がじろりと四人を見、すぐに伊崎に目を走らせた。
「貴様、てっかを取れ」
しかし彼女は何も喋ることなく、一枚の紙を男に差し出した。
慌てて唯が伊崎の前に立つ。
「あっ、当り所診療所の四天王ですっ。それは江戸城入城の証明書です。決して、怪しいものでは……」
男たちは、その紙を見るなりすぐに驚いた顔をして、そして「入れ」と門を通した。
「い、伊崎……。声くらいは出したほうが……いいんじゃ無い……?」
てってっと葉色が伊崎を追いかける。
始めてくるはずの場所なのに、全く迷わず歩けるのは、流石は四天王一の天才と言われる女。
「煩い。出せるなら出したい」
伊崎は面倒臭そうに葉色を見た。
何が理由でこうしているのかは知らないが、とりあえず、何か江戸城では身を隠さねばならないことは三人ともわかっていた。
「……何があったかは知らない、けど……。もしも、があったら、伝えてね」
葉色は和やかに微笑む。
これが彼女の暖かき笑顔だ。
伊崎は目を細め、
「わかった」
と前を向いた。
管太郎は一番後を歩き、じっと伊崎を眺めていた。
*
「御匙(おさじ)様が一番に体調を崩されたのですよ。それからばたばたと重要な役割を担う者たちが倒れていって。大変の何のって」
綺麗な化粧に、上物な着物。
今いるこの部屋も、隅から隅まで金の匂い漂う空間だ。
四天王へ向けて話すのは、大奥の取締役の女だ。
まだ三十路手前くらいのべっぴんさんで、将軍の妻になってもいいくらいの人材だ。
女中に茶を出された四人は、気まずそうにうなずく。
「それは大変でしたね。御匙さんが一番に……」
御匙とは、将軍やその家族たちお手付きの医者の呼び名だ。
御匙は、相当の才能と知識がなければなれない。故に、一番に体調を崩し、それを周りに広めるなど論外だ。
管太郎はそれをわかって、「大変でしたね」と言ったのだった。
隣に座る伊崎は先程にも増して縮まっている。
(何を隠しているんだか)
管太郎は気になりはするものの、それを聞かぬという粋な男だ。
それを知ってか、伊崎は管太郎の隣を選んで座ったのだ。
「どのような病なのかはわかっているのですか?」
唯が聞いた。
綺麗な女はすぐに答えた。
「病名はわかりません。未知の病なのか、それともただの風邪なのか……。神宮様にお祓いはしていただいたのですが、どうも効果がなく……」
「そりゃないだろう」とは、口が裂けても言えない。
江戸時代は、医学の進歩も遅く、薬の値段も高値だった。
そのため正当な病の治療を受けず、お祈りなどで治そうとする者が大勢いたのだ。
診療所の四天王からしてみれば、何をやっているんだ、と馬鹿げた輩に見える。
葉色はちらりと伊崎を見た。
(次々と倒れていった、ということは、感染病の可能性が高い。そうなると一番活躍すべきは、やっぱり伊崎……。あの様子で大丈夫なのかな……)
薬師である葉色には、あまり役目がない。
建物の消毒、薬の調合という任務はあるものの、今すべきはそれではない。
“何の病か”を突き詰めることによって、対策や対処ができる。
それを誤れば、また振り出しに戻るだけなのだ。
「他に症状は……?」
葉色は問うた。
少し考えた後、女は答える。
「全身に赤い蕁麻疹(じんましん)が出ています。あとは、発熱と咳、鼻水、嘔吐……。腹痛や下痢を訴える方もいましたね」
咳、鼻水、嘔吐は風邪の症状だ。
腹痛や下痢は、将軍様のように、食中毒の可能性がある。調理場の者が倒れているのならば、その場の管理が行き届いていないこともある。
それが原因で腹痛や下痢を発症しているのかもしれない。
そして蕁麻疹は。
「蕁麻疹となると、もしかしたら牛痘や天然痘の可能性もありますね。となると、外傷科の私が詳しく調べておきます。もしよろしければ、どなたか発症者の方にお会いできないでしょうか?」
唯がニコニコの笑顔で話す。
天真爛漫な彼女では、こういう愛想笑いも全く違和感がない。
伊崎なんかがこうしていると、気味が悪くて仕方がないが。
「そうね。であれば、女中の子を診てもらえるかしら。それでもし分かるのなら」
「ええ。わかりました!……私と、彼女も連れて行っていいですか?」
先程から一言も喋らない伊崎を指差す唯。
女はじっと不審な伊崎を見つめる。
「……是非」
初めて、伊崎が声を発した。
が、ぼそり、といつもとはちがう声。
作っているのか。
「……そうね、あなたは確か内科の子よね。感染症などであれば、あなたはいたほうがいいものね」
どこまで知っているのか。
“大江戸四天王”という名は多く世に広まっている。
が、一人ひとりの名前までは、そこまで広まっていない。
彼女はどこまで知っているのか。
それを伊﨑は内心気にしていた。
(もし名まで知れていたら、かなり苦労する)
そっと目を伏せ、下を見る。
耳から入るは他の三人と女が話す声。
(あぁ、早く帰りたい)
そう心の中でほざく伊崎であった。
*
「赤い発疹、発熱、咳、その他諸々風邪の症状」
伊崎はてっかをしたまま女中の症状を見た。
部屋は先程とは打って変わり、六畳程しかない小さな部屋。
そこに布団を敷いて寝かされた女中。
襖の外には管太郎が立っている。
人が来るときには伝えるように言った。
伊崎はここでは話せるようだ。
「やっぱり、風邪だな」
隣の唯二向けてそういう。
ほっと息をついた唯。
「良かった、重い病気じゃなくて。そうだったら国まで終わりかねない」
確かに、そうである。
将軍までもが感染したのだから。
「ただ、従来のものより感染力が強い。きっと普通と何かが違う。それと、発疹が出てる。普通の風邪だと発疹が出る人は限られる……。ということは、型が多分違うんだ」
「ん?なんかまぁよくわからないけど大丈夫なの?」
「ああ。休んで食って薬飲みゃぁ治る。祈っても治んねぇからなー」
病人相手にぺしぺし頬を叩く伊崎。
「やめなよー」と唯は伊崎の手を払う。
「対処法は?」
「桶に冷水、手拭い三つ、蜜柑や金柑の入った粥、それと、葉色に頼んで。風邪と発疹の葛根湯。」
「はいよー。取ってくるね」
唯はさっさと部屋を出て、物を取りに行った。
伊崎は一息つき、じっと女中を見る。
意識はある。
ただ、相当熱が高いのか、意識が朦朧としている。
「お前、新入りの女中だろ」
返答はなし。
「ここ、楽しいか」
もちろんこれも返答なし。
「楽しくないなら、逃げ出してもいいんだぞ」
城から、である。
女中が城から逃げ出すことなどそう滅多にない。
そもそも、楽しい楽しくない関係なく、寝床も衣服も食べ物も与えられるいい仕事など、女中くらいだ。
逃げる先など地獄にすぎない。
誰も逃げようともしない。
彼女は突拍子もないことを言い出す女だ。
何を考えているのか、周りはこれっぽっちもわからない。
今だって、病人の前でつまらなそうに目を伏せている。
秋とはいえ、まだ立秋だ。
昼間はもう暑いだろうに、てっかを被ったままじっとしている。
「逃げるが勝ちって、結局正解なのかもね」
伊崎はぼそりとつぶやいた。
女中に語りかけたのか、それともひとりごとなのか。
すると襖が開いて唯が入ってきた。
手には桶を持っている。
「お粥は料理番さんに頼んでおいたよ。葉色も、葛根湯をすぐに調合してくれるって」
「あぁ、ありがとう」
桶を受け取り、手拭い三枚を濡らし、絞る。
「なんで手拭い三つなの?三つおでこに乗せるの?」
唯は疑問をそのまま聞いた。
伊崎は絞った手拭いを広げ、女中の腕に乗せた。
右腕と左腕で、合わせて二枚だ。
「蕁麻疹の多かった腕を冷やすためだ。本来なら、氷なんかあればよかったが。氷なんて高価なもの、ひとりの女中のために使えるわけがない」
残りの一枚は額に乗せた。
唯はほほう、と伊崎に駆け寄る。
「そういう冷やし方もあるんだね。私、手拭い濡らして冷やすなんて方法思いつかなかったよ、ありがとう」
にこりと笑うその笑みには、少しの曇りもない。
伊崎は笑顔に押されるように身を引いた。
「外傷医の唯さん、この蕁麻疹が天然痘や牛痘などではないと、気づきましたか」
わざとらしく聞いてくる彼女は、畳に座って下から唯を見る。
「すぐに分かったよ。蕁麻疹とかとは形が大分違うんだよね。蕁麻疹は赤く腫れて、小さなぶつぶつが体の一部に出る。天然痘とかは、大きないぼの破けたみたいなのが体全体に広がる。それは潰れたりすると血が出ちゃうんだよね。痛いし、見てる方もいい気分じゃないよねぇ」
やはり、外傷医なだけはある。
語彙力というものは多少欠けるが、言っていることは間違っていない。
これには伊崎も頷いている。
「そうだな。最近は天然痘も流行ってるから、最初は天然痘を疑った」
「うん。私も」
ふたりは隣同士で座った。
眼の前に寝る女は、苦しそうに息をしている。
もう時期葉色の薬が届くため、それを飲めば幾らかマシになるだろう。
もし効かなければ、伊崎の読みが外れたことになる。
四天王一の天才と言われる彼女は、憶測が外れることはないと言っても過言ではない。
しかし、はっきり「ない」と言えるほど人離れした人間でもない。
当たるが九割、外れるが一割というところだろうか。
と、その時。
女中の女が声を上げた。
「ありがとうございます……」
途切れ途切れで、熱が高いことがわかる。
しかしそれでも笑顔が浮かんでいる。
唯はにっこり笑って、彼女に語りかけた。
「いえいえ!仕事ですからっ。あ、そうだ。ここ、痒いかもしれないけど、かいちゃいけませんよ。ひどくなっちゃうから」
そう言って唯は蕁麻疹を指差す。
こくん、と頷く女中。
伊崎はその二人の様子を見て、いつもの半開きの目のまま内心つぶやいた。
(ああやって人に笑顔を向けられるのも、彼女の長所なのだろう)
自分はこうやって、むすっとした表情で見ていることしかできないのだから、あの唯の対応は、伊崎にとっては別世界のものでしかなかった。
(早く帰りたい)
まだほぼ何も終わっちゃいないが、伊崎はもう力尽きていた。
体力は有り余っているのだが、精神力とやらが抜けきっていた。やりたくない、面倒臭い、そういう気持ちがどうしても先走ってしまう。
何故彼女をそういう気持ちにさせるのか。
そればかりは彼女以外の誰にもわからない。
すると、襖が開いて葉色と管太郎が入ってきた。
管太郎は無言で自身の頬をトントン、と指で軽く叩いた。それを見た伊崎は、てっかの結び目をきつくした。
唯は二人の言葉のない会話に感心し、葉色に話しかけた。
「やっぱり仲いいね」
葉色は葛根湯を湯に溶かしながら答えた。
「うん。一番付き合いが長いのも二人だよね」
「そうだったね。……まぁ、それ以外の理由もあって仲いいんだろうけど」
ニヤニヤと楽しそうな唯だが、廊下から誰かの足音がしたため、その話は中断した。
来たのは先程の綺麗な女性だった。
相変わらずなんの表情も浮かばない、凛とした女だが、何のようなのだろうと四人は彼女を見た。
「どうかしましたか?」
唯が問うと、女は潤った唇を上げた。
「公方様が、お目を覚まさなくなりました」
*
すぐに器具を持って将軍の部屋へ駆けた四人だが、その間も伊崎は面倒臭そうにしていた。
黄金の襖や、丸太の立派な柱など、目の飛び出るほど高価なものが移動中は山程あったというのに、彼女はすたこらさっさと廊下を行く。
まるで道がわかっているように、真っ直ぐな足取りで。
部屋についてからも、将軍の一番遠くに立っていた。
症状を確認しなくてはならないものの、「ここからでも可能だ」と、近寄りたがらない。
(感染症が伝染るというのを恐れているようではないけれど)
管太郎は不安だった。
彼女の隠しているものが、彼女一人で抱えきれるものなのかどうか。
それがもし“そうでない”ものなのなら、伊崎を脅してでもそれを聞かねばならない。
管太郎とて、平常心は保てない。
「とりあえず、胃腸の薬を処方します」
葉色は伊崎が頷くのを見てから女に言った。
食中毒で倒れたのなら、それが一番である。
しかし、内科の伊崎が診療をしずらい状況であれば、なぜ将軍が目を覚まさなくなったのか、どうすれば目を覚ますのか、わからない。
どうにか動いてほしい気持ちは皆あるが、彼女があそこまでするのは珍しい。長い事四人は一緒いるが、伊崎のあのような行動はそう滅多にあるものじゃない。なにか大きな事情があるのは確かである。
それを無理強いしてはいけないこと、そんなこと簡単な考えだった。
「内科の方は、診療をしてくださらないのですか」
女は冷たい声でそういった。
はい、と首を立てに降れば、将軍を殺そうとしていると捉えられ、首が飛びかねない。
伊崎に視線を集め、それに気付いた彼女は渋々……という様子で将軍に近付いた。
(まぁ、目が覚めないのなら)
伊崎はしゃがみ込み、将軍の頬に手を当てた。
(熱い)
熱が出ている。
では脈も速いはず、と脈を測ると、たしかに速い。
(食中毒と思われる症状なら、下痢、嘔吐だろう。それに発熱と昏睡。だとすると思い当たる病気が多すぎる。感染症だと仮説を立てれば、周りの人は蕁麻疹や風邪の症状があるか……)
一人考え込む伊崎だが、一言も声を発さない。
しんと静まり返った広い部屋は、重い空気である。
少し時間が経つと、伊崎は女に向けて声放った。
「胃腸炎ですね」
低い声だった。
いつもの何倍も低い声で、あんな声も出せるのだと三人は驚く。
声を作ったのである。
「……他の者の病名も胃腸炎なのですか」
女は少し怒り気味で聞いた。
頷く伊崎。
それに驚いたのは葉色だった。
「えっ、え、胃腸炎って、胃腸の不調の病気でしょう……?蕁麻疹とかは、出ないんじゃないかな……?それに、伝染るとは聞いたことがないような……」
伊崎はまたも低い声で話しだした。
「胃腸炎では、嘔吐や下痢を主に伴います。その原因としては、細菌が体内に入り込むことです。細菌には幾千幾万もの種類があり、種類によって症状は異なる。今城内で流行っているこの細菌は、非常に稀なものです。だから、気付きが遅かった。……胃腸炎に感染した人の吐瀉物などに触れると、触れた人も感染することが多いです。最初に倒れた御匙は、きっと吐瀉物の処理を侍女などに任せていたことでしょう。そのような処理に慣れない者は、特に感染しやすいのです。将軍様は吐瀉物処理などしないでしょうが、おそらく、吐瀉物処理をした侍女と何らかの接触があったことと思います。着物や手に吐瀉物が付着していると、それが原因でまた周囲の人に感染す可能性があります。蕁麻疹に関しては、細菌の種類がそのような型であった、ということが一つの理由です。ただ、もう一つあり、多分主にそちらが理由かと。その一つとは、胃腸の調子が優れない際、無理に食べ物を食べてしまうと、うまく消化ができず、そのまま栄養が吸収されてしまいます。それが原因で蕁麻疹が起こるという事例があります」
喋っていると、段々といつもの声に戻りつつあった。それに本人も気付いたのか、中途半端なところで話を切った。
三人は「へぇー」と関心しているが、女はどこか遠いものを見つめる目で伊崎を見ていた。
「あなた」
そう澄んだ声で一言言ったが、首を振って「なにもないわ」と取り消した。
「では、どのように対処をすればよいのでしょう」
そう女が問うと、葉色が伊崎の前に出た。
「感染症であれば、消毒をする必要があります。城の柱や床など、すべて焼酎を含んだ雑巾で拭きましょう。それから、なるべく人と人を合わせないように。感染の危険性を減らすことができます。吐瀉物の処理などは、すべて私達に任せてください。また、食事の管理を私達に任せていただけないでしょうか」
「ええ、いいわよ」
ぺこりと頭を下げた葉色。
伊崎は葉色の頭をこっそり撫でた。
*
それからは大忙しであった。
べっぴんなあの女性に、この城内のすべての人間に「吐瀉物の処理は四天王に任せること」を伝えるよう頼み、それから四人にその話がわんさか掛かってきた。
しかし消毒作業もしなければならないため、唯と葉色は嘔吐処理、管太郎と伊崎は消毒作業、と分担した。
一通り仕事が終わった頃、休憩する間もなく夕餉の準備の時間が来た。
城内すべての食事を作るのは流石に四人じゃ無理なので、元からいた食事係や膳奉行の衣服の消毒をし、手洗いうがいをさせ、調理器具の消毒をし、食材の腐食物の管理をし、調理させた。
勿論献立は四人考案である。
病人用の消化の効きやすい、尚解毒作用のある食べ物と、いつも通りの献立に少し免疫力をつける食べ物加えたもの。
一秒すらも惜しんでしまう忙しぶりに、四人は夕餉前にはもうくたくた。
四人貸し切りの広い部屋で寝転び、だけれども寝てしまわぬように、四人で話していた。
「足が棒になるって、こういうことだったんだねぇ」
唯は欠伸をしながら言った。
隣で伊崎は胡座をかいてくうくう眠っている。
「そうだね、本当に疲れた。……って、伊崎ーまだ寝ちゃだめだよー。夕餉前なんだから」
管太郎が仰向けに寝た状態のまま伊崎の膝をぽんぽん、と叩く。
目を開いた伊崎に、「睡眠は必要なんだぞバカん太郎」と言われると、苦しそうな顔をしてうつ伏せになった管太郎。
それを見て葉色と唯はくすくす笑い、管太郎はその二人を赤面で睨む(全く怖くもない睨み)。
伊崎が何もわからず、欠伸をしながら管太郎の上に寝転ぶと、「ぐへっ」と変な声を出して管太郎が悶えた。
「急に乗らないでよ」
「いや、いい布団があるもんだと思って」
仰向けに寝転がる伊崎を見て、唯と葉色は大爆笑。
「何笑ってんだよ」
「ちょ伊崎、俺以外の男の子にこんなことしたら引かれるからやめなね」
「お前以外の男が布団に見えることはないな。それに、お前以外にそもそも男友達がいねぇな」
「待って、褒めてないよね?」
「もちろんだ」
背中合わせに寝転ぶ伊崎と管太郎という、摩訶不思議な光景を見て腹を抱えて笑う唯。
口元を手で覆ってくすくす笑う葉色。
疲れなんて、四人でいれば吹っ飛んでしまう。
何があっても、仲間といれば何でも乗り越えらる。そう、なんとなく感じる四人であった。
*ニノ巻〚江戸城出張〛完
(漢字表記)
欠伸(あくび)
胡座(あぐら)
悶える(もだ-える)
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