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第5話 初夏色ブルーノート
葬式の日、姉ちゃんはこう言った。
記憶が戻って混乱してたのもあるけど。
でも本当に、トモちゃんに「愛されてるよ」って伝えたくて。それしか頭になくて。
落ち着いて物を考えられるときには、もうトモちゃんの意識がない状態で。
「そんな状態でさ、夫婦の間に入ってなんて、出来ないなって思って。だから記憶戻ったの、ナツくんには黙っちゃった。
後はさ、割とトモちゃんカッコつけだから、弱ってる姿見られたくないだろうなって」
「……家族なのに?」
「家族だからって言うのもあるよ」
そう言われて俺は、姉ちゃんが今まで悲しんで涙する姿を見ていない理由に気づく。
家族だから、見せなかった。
トモちゃんにも、俺にも。
「でも多分、一番は……今もこうして、トモちゃんが死んだことを理解していないからかも」
なんだろうねこれ、と姉ちゃんは煙突の煙を見つめる。
死の悲しみがわからない。離れた時間はそう長くなく、一緒にいた時間の方がずっと長いのに。
トモちゃんは、本当に死んだのかな。ずっとそればかり考えている。
「悲しいとか、苦しいとか、そういうの感じる前に、また記憶なくなっちゃうのかな」
今日は綺麗に晴れていて、空は薄く青い。
その色が、まるであの空色ノートの表紙だと思った。
姉ちゃんが悲しみや苦しみを言えず、消そうとしたのは、いつもトモちゃんとか、俺とか、誰かのためだ。
あのノートは、それがようやく綴れるようなものだったのだとしたら、それすら誰かにあげた姉ちゃんの心は、どこへ行くんだろう。
そう思った時には、口にしていた。
「……また記憶喪失になったら、何度だって俺が思い出させるよ」
そうしたら姉ちゃんは、ようやく自分のために泣けるだろうか。
ホント? と、姉ちゃんは言った。
その声が震えていて、俺は、姉ちゃんの方を見た。
俺は、目を見開いた。
昼には雲なんてほとんど無かったのに、その日の夜から長い雨が始まった。
梅雨にはまだ早いそれは、時折休みを挟みながら五日ほど続いた。
雨に浸った新緑の葉は、一層緑を増していった。
▪
あれから二回の初夏が過ぎて、三回目の初夏がやって来た。
姉ちゃんは博士学位を取ったあと、家を出た。九州の大学に就職が決まったからだ。俺も遅れて、アパートの一室を借りた。
今日は久しぶりに姉ちゃんと会って、カフェでお茶をした。色んな話をした。就職した大学でのこと、俺の仕事のこと。
そして姉ちゃんは、「結婚を考えている人がいる」と報告した。
「ナツくんにも会わせたいから、今度予定空けといてね」
姉ちゃんの言葉に、俺はわかった、と頷く。
「……姉ちゃん」
「んー?」
「例え姉ちゃんと血の繋がりがなくても、苗字や戸籍が変わっても――俺は、姉ちゃんの弟で、家族だから」
純粋な家族は、こんなこと言わないのかもしれない。
俺たちは、物心ついた時に初めて出会い、両親の再婚で家族になった。俺は目まぐるしく変わる環境が恐ろしく、新しい父親や姉にも、新しい家にも、新しい幼稚園にも馴染めずに泣いていた。風邪もよく引いていたし、その度にまた親が離婚して、別のところに変わっちゃうんじゃないかと思った。
姉ちゃんは一人っ子から、突然面倒を見る『姉』になった。そんな手のかかる弟が出来て、――『他人』を家族だとすぐ受け入れられるわけがない。
それなのに姉ちゃんは、風邪を引いてべそっていた俺の傍で、ずっと『姉ちゃん』としていてくれたのだ。
もうお互い大人で、俺も姉ちゃんもあの家を出た。俺たちを繋ぐものは、ほとんどない。
だからこそ、言葉にしたかった。
言葉は、これから俺たちを繋ぐものになるだろう。変わることを恐れて繋ぎ止めるための呪いじゃなく、世界を広げて居場所を増やすためのもの。
俺もきっと、人に出会って、新しい家族を作っていく。
わかった、と姉ちゃんが言った時、店内のBGMが変わった。二日市で聞いたような、独特なドラムの拍子に、のびのびとした管楽器の音。
「これって、ジャズだよね」
ジャズはあんまり知らないけど。
「そうだね。ブルーノート」
その名前を聞いて、ふと、姉ちゃんが書いた日記を思い出した。あれも、水色のノートだった。
「『憂鬱な音楽』って意味」
「……そんな感じの音楽には聴こえないけど」
確かに音程は低いけれど、これは。
「憂鬱というより、郷愁って感じ。ノスタルジックというか」
繰り返される音階。懐かしくて、どこかに帰りたくなる。
そう言うと、「そりゃそうだろうね」と姉ちゃんは言った。
「これ、トモちゃんが良く家で聴いてたやつだもん」
ほら、高校時代の受験勉強。
私のイラつきが限界ギリギリのところで、トモちゃん必ずティータイムに持ち込んだでしょ?
その時、iPadで流してたじゃない。
「カフェにいるみたいで落ち着くでしょう?」って。
そう言って、姉ちゃんはコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「トイレ行ってきます」
「あ、うん、いってらっしゃい」
姉ちゃんが、店の奥にあるトイレに入る。
誰に聞かせる訳もなく、長いため息が出た。それがまた、ブルーノートによって掻き立てられそうだ。
堪らなくなった俺は、まだ口をつけてなかったコーヒーを飲み干す。
「あ゛――っ、にっっが」
シュガーもミルクも入ってない、ブラックのままのコーヒー。
口に残る苦味とほのかな酸味。鼻に残ったままのコーヒーの匂い。こんなもののどこがいいんだか。子供舌な俺にはわからない。やっべ、一気飲みしたこと後悔しそう。
感情より先に、涙が出てきた。
姉ちゃんの初恋は、終わったんだな。
結婚するってそういう意味なのに、ようやく実感したよ。
もう痛まない、ただ懐かしい想い出なんだね。
初夏の空のような色のノートは、どこにもない。
姉ちゃんが戻る頃には、俺の涙も止まっていて、丁度何周したのかわからないブルーノートは止んだ。
次の曲が、始まる。
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